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2020年2月 4日 (火)

小林ドンゲ展─ファム・ファタル(妖婦)(2)

Dongeflower  「枯れゆく花」という作品です。この人の最大の魅力は線にあると思います。その多様な線のバリエーションは、このような初期の作品からすでに持っている。最初から、完成した部分を持っていた人だったと思います。例えば、太めの肉感的な艶めかしい線で描かれた両手。とくに、細く長い指。一目で女性の指と分かる、このような指は、この人の描くものの性格を表していると思います。しかも、この指は、この線とは切っても切れない。もしかしたら、この線であるがゆえに、こKiyoharamoto のような指を描かざるを得ないといった感じもします。この線には入りと抜きがあって、曲線のふくらみに太みがある、そこに官能的な肉体性があります。まるで、日本画の筆で引いたような繊細さです。あるいは、萩尾望都や一条ゆかりなどといったマンガ家の少女の内面まで表してしまうような官能的で繊細なペンの線の方が、私には身近かもしれません。そういう線を、筆やペンで一気に引くのではなく、硬い銅板にビュランと呼ばれる先端を鋭く研いだ彫刻刀を用いて、彫って刻むのです。筆の線も、そういうところがありますが、一発勝負で、すこしでも間違ったら直しはききません。筆と違って、ただでさえ自由のききにくい道具で、まるで一気に引いたようで、しかも入りと抜きや曲線のふくらみまである。素人の私にも、それと分かる、大変な集中力と技術です。おそらく、小林は、この線という大きな武器を獲得して、その武器一本で作品をつくる勝負に出た。ほかの武器に浮気をすれば、この武器がなまってしまう。まるで一刀流の太刀一筋のような世界ではないかと思いました。
Dongebad  「悪の華」という1955年の作品ですが、後にフランスで刷り直したものが、画像をクリックしてもらうとサムネイルで開きます。前の「枯れゆく花」とおなじような構成で、中心に描かれている題材を手ではなくて人物像にしたらどうなる、と想像したら、こうなったという作品です。「枯れゆく花」の神経質で繊細な指の印象を、そのまま女性の顔にしたという感じがします。この人の作品は、基本的に、このようなイメージの女性をメインの題材として、あとは、背景とか小道具をとっかえひっかえして作品のバリエーションを作っていると言えます。この「悪の華」での女性は、これから量産していくであろう女性のパターンの萌芽的なものではないかと思います。そのことについては後でもHayamienbu_20200204210201 触れると思うので、ここでは背景について述べていきたいと思います。「枯れゆく花」もそうですが、たくさんの蛾が舞うように飛んでいます。小林は、蛾が好きなようで、多数の作品で繰り返し使っています。これは、この人の作品が一つのパターンを頑固に貫いているのと同じように、蛾を夜の蝶とも言い換えて、その美しいところと気味の悪いところ、そしてはかないところといったイメージに魅かれたのか執拗なほど繰り返しつかっています。その描き方は、メインの人物や指が官能的な線を一気に引くように描かれていたのに対して、細い線を何本も重ねて立体感を出すように描いています。それは、まるで人物や指と蛾とでは存在が違うとても言っているかのようです。また、この蛾の配置というか群れとぶ描き方は、日本画の速水御舟の「炎舞」を思わせます。蛾が舞い飛ぶ中心に炎のようなモヤモヤが描かれているのも、そっくりなところです。小林の作品は西洋モダンな題材を扱っています(この「悪の華」だってボードレールの詩集から発想されているのだろうことは、容易に想像がつきます)が、画家としての彼女は日本画の影響を、実際には強く受けていたのでしょう。彼女の、あの線も日本画と共通するところがあると思います。
Dongecry  「泣いている私」という1955年の作品です。繊細というよりは意志的な表情の顔を真正面から描いているのは、珍しいパターンで、この頃は、小林自身は、スタイルを模索していたのだろうと思います。唇の歪みが、描く迷いのようなものを感じさせます。どこか、決まっていない中途半端さがあります。とくに、両目の瞳が蛾になっていて、おそらく何らかの狙いがあったのでしょうが、それがハマっていない。また、飛び舞っている蛾の描き方についても「悪の華」のようにすべてが描き込まれているのに比べて、差があり、力が入り切れていない感じがします。しかし、この女性の顔の感じが、小林の作品では、ほかに見られない。現実には、まったく関係がないのは確かなのですが、水野英子の「ファイヤー」というマンガ作品と顔の感じが似ていると思います。このマンガは、水野の作品、というより少女マンガの中でも異質なマンガで、水野は実験的な試みをしたのかもしれませんが、結局、この方向の作品は他に現れることがなく、これだけ突出したような作品となっています。小林は、その後の作家の作品から見ると異質な作品ですが、捨てずに残したのでしょう。
Dongeflower2 Redonsadface  「沼の花」という1958年の作品。同じタイトルで他にも、数作ありますが、実はオロディン・ルドンが同じタイトルの版画作品を制作していますが、これは、それとそっくりなほどの作品です。おそらく、野草に人の顔の形をした花が咲くなどというデザインはユニークなものなので、ルドンの作品がオリジナルで、それに倣って描いたのだろうと思います。小林は女の顔のイメージについて、いろいろいな試みをしていて、これも、その一環なのだろうと思います。ただし、アイディアはそっくりでも、描き方は小林とルドンとでは全く違います。小林の描く顔は一気に線を引いた勢いがあるのに対して、ルドンの線は細く弱々しい。そこにルドンの不安定さ、見る者が危険と感じる所以となっています。しかし、小林の描く「沼の花」は花となった女性の顔が光っているようで、彼女の雰囲気をシンボライズしたといえそうで、しかも女の顔が、「泣いている私」とは違って、小林の描く女性の顔をとり始めている、その兆しのようなことになっています。小林の場合、不気味なルドンのデザインは、女性の顔を引き立てる舞台設定のようなものなのかもしれません。この作品も、不安さとか危うさを感じることは、あまりなくて、女の顔の美しさ、しかも尋常でない舞台設定で、幻想的な美しさといった方が感じられると思います。そして、この作品は、後年、1996年の「薔薇・Blue Moon」という作品に通じているのではないかと思います。

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