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2020年2月 6日 (木)

小林ドンゲ展─ファム・ファタル(妖婦)(4)

 展示はフロアがかわり、2階に階段で下ります。階段は吹き抜けになっていて、天井からオブジェが吊り下げられていました。
 小林は1964年に渡仏しました。もともと、版画の師匠である駒井哲郎は抽象的な傾向の作家で、彼が国際的に評価されると、それがトレンドとなっていきました。「昨日まで林檎を描いていた仲間が、いとも安易に抽象に転向して、造形性の追求などと唱えはじめた」そのような仲間から「軽蔑の目で見られるような絵を描き続ける自分は間違っているのかもしれないと思うようになり、自信を喪失」してしまいます。落ち込むドンゲに、堀口大學と小林の両親は、それならば思い切って海外へ行ってみたらと勧めます。パリでの滞在中は長谷川潔が身元引受人となってくれたそうです。長谷川潔は、パリでメゾチントという古い版画技法を復活させ、古風で静謐な独特の具象作品を産み出した版画家です。そので、小林はヨーロッパの版画を学び、伝統的な西洋絵画を浴びるように目にしたのでした。そこで、小林の作品世界は大きな広がりを見せるのです。
 それは、帰国後の「オフェリアの花」や「マドモアゼル」といった作品に早くも現われます。それまで、線の絵画で、作品画面は平面的だったのが、にわかに立体性を帯び、描かれた女性が生々しくなってきたのです。
Dongeugetsu2  版画集『雨月物語』は、1970年頃のようです。例えば「死は見つめる 浅茅が宿」という作品を見ると、同じ浅茅が宿でも、1963年の作品とは大きく異なります。画面全体のデザインがそもそも違うし、印象も異なります。おそらく、この二つの作品の間には、1年半にわたるヨーロッパの滞在がはさまっているので、それが原因となっているのかもしれません。そのことは、後で触れようと思いますが、この1970年の作品は安定感というか落ち着きが増しているように見えます。女性に、存在感とまでは言えませんが、それまでの二次元的な、いかにも絵という女性像に比べて、人間的なものが感じられるものとなっています。例えば、相変わらず目は切れ長ですが、顔からはみ出してしまう極端さはなくなり、人間の目の範囲に収まっています。鼻も線の鋭さがなくなって小鼻まできちんと描かれています。画面のそれぞれのパーツを描く線の明確に区別できるほど違っていたのに、その区別がつきにくくなり、かえって線が統一された感じがします。以前はそれぞれ線が違っていたのに対して、ここでは一つの線の変化のような感じです。それゆえに多元的な画面から統一性のとれた画面に変化しています。それが全体として安定感あるものに変わったのではないかと思います。しかし、それにしても上田秋成の『雨月物語』の「浅茅が宿」という話は、戦乱の室町時代、京で一旗揚げようとして失敗し、長年捨て置いた我が家と妻のもとにもどった男が、待っていたのは変わり果てた妻で、変わり果てた彼女と一夜明かしたら、翌日、家は朽ち果て、骨と化したなきがらがあったという話です。この作品の女性は、その故郷に捨て置かれた妻の姿でしょう。それが洋装の上品な婦人の肖像画のように描かれているのです。能のものがたりのような幽玄な物語を、世紀末の耽美で怪奇なテイストの画面にしてしまうのも凄い感性だと思います。
Dongeugetsu3  「吉備津の釜」は、浮気性の男性が地味だがしっかり者の女房をだまして、愛人と駆け落ちし、妻の亡霊に復讐されるという話です。この話について、60年代の作品も1970年の作品も、復讐のために亡霊となった妻の顔が不気味に宙に浮かんでいるという基本的なデザインは変わりません。60年代の画面は、背後の三日月は両端が尖がっていますが、全体として鋭角的な印象で、切れ長の鋭い目は顔からはみ出ていて、その顔も顎が尖って、ツインテールの髪も下がった先端は尖っています。それらが鋭い線で描かれていて、とくに顔に表情があるわけではないのですが、画面全体に怨みとか殺気が漂っている感じがします。これに対して、1970年の作品は陰影が深くなります。浮いている顔が左に傾いて、顔の陰影が深くなっています。やはり顎は尖っていますが、60年代に比べて全体に丸みがかかっています。目は切れ長ですが、顔の中におさまっていて、落ちくぼんでいるように両端に深い陰があります。印象として、Dongeugetsu4 60年代の決然とした鋭さが後退して、何となく物憂げな雰囲気が漂っています。ここにあるのは、怨みに駆られているというよりは、復讐するという自らの運命に複雑な思いがあるというように見えます。それは、未だに男に愛情を持っているのか、復讐という行為に躊躇しているのか、だまされた自身の愚かさを後悔しているのか、色々と想像することができますが、60年代の作品のように一様ではない、つまり平面的ではない。それが、物憂げな表情となって、作品に深い陰影を作り出しているのです。

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