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2020年3月31日 (火)

ハンマスホイとデンマーク絵画(7)~第4章 ヴィルヘルム・ハマスホイ─首都の静寂の中で(6)

Hammerdoor  「廊下に面した室内、ストランゲーゼ30番地」という1903年の作品です。ここには、女性の姿はありません。ということはうがった見方をすれば、室内での女性は家具と同じで、あるかないか、どこにあるか、というのと同じだということになります。だから、この作品では、画面に女性が必要でなかった。これは、テーブルがないということと同じだということです。とくに人物にこだわっているわけではありませんが、人物の姿もコンポジションのひとつの要素にすぎないことが分かります。ハンマスホイは、空間を構成して画面をつくることに熱中していた、嬉々としていた、そんな風に感じられます。この作品では、白い扉開いていて、奥の部屋が見えていて、さらにその奥の扉も半開きで奥の部屋も垣間見えます。これまでは、閉じた単一の空間でしたが、この作品では、扉が開いていることで、奥の部屋と、一部が垣間見えるその奥の部屋、そして右手の部屋と、空間が複数あって多重空間となっています。そこを見る者の視線が行き来いたり通ったりする。部屋は、その通り道のようになる。したがって、家具や人物Hammer2020interia2 を置けば、通り道の邪魔になります。このように空間を多重的に重ねるというのは、例えばモランディが卓上の器と器と器の隙間を同じような存在として扱い、隙間という存在と器という存在を重ね合わせようとしたことと似ていると思います。
 「ピアノを弾く妻イーダのいる室内」という1910年の作品は、ストランゲーゼ30番地から数度の転居で落ち着いたストランゲーゼ25番地の住居の室内を描いた作品で、「廊下に面した室内、ストランゲーゼ30番地」で試みた多重空間が、以前の単一の閉鎖した室内空間のアングルで試みられています。前景と後景に表された二つの部屋が二つの空間を作り出して、それを白い大きな扉がひらいてつないでいます。手前の前景の部屋は、「室内─陽光習作、ストランゲーゼ30番地」や「廊下に面した室内、ストランゲーゼ30番地」のような人の姿のない室内空間で、奥の部屋は、妻のイーダがピアノを弾いているように見えます。しかし、この奥の部屋は、奥行きが感じられないでぺったんこに見え、さらに手前の部屋についても、手前のテーブルがなければ、白い壁だけの平面に見えるところでした。このような正面からのアングルでは、難しいことなのか、それとも、平面であるキャンバスの画面を構成するということから、そもそも、平面的にすることを意図的に行ったのかは分かりませんが、いろいろに構成を試してみて、この作品に至ったのでしょうから、この作品をみていると、ハンマスホイの恣意が表われてきているように思います。端的に言えば、ハンマスホイの室内画は表面的には室内の光景を描写した具象画ですが、実質的には空間を意識的に構成した抽象画でないか、と今回の展示を見ていて、強く思いました。
Hammer2020interia4  そこから、現実の室内の光景であるはずの画面が意図的に構成されて、現実を離れて人工的な幻想の空間になってしまう。それは、静物画で言えば、スペイン・バロックの画家スルバランが卓上の果物を宗教画のような敬虔な空間にしてしまったように、意図的な空間をつくることもできるかもしれない。「室内、蝋燭の明かり」という1909年の作品は室内の光景を楕円の空間に収めるということをして、暗い空間に蝋燭の日が灯るというだけで神秘的な空間を作り出しているように見えます。これは、同時に展示されている他のデンマークの画家たちとは、次元が違っているのが、作品を見比べていて、強く感じたことです。その意味、今回は仕方のなかったことかもしれませんが、室内画の作品が少なかったのは、とても残念なことでした。

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