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2020年3月27日 (金)

ハンマスホイとデンマーク絵画(5)~第4章 ヴィルヘルム・ハマスホイ─首都の静寂の中で(4)

Hammer2020vermeer2  ここで少し脱線します。そもそも、絵画の画面で中心となる人物が背を向けているということは、どういうことなのでしょうか。一般論として考えると、デンマーク絵画以外の作品で見ていくと、フェルメールの「絵画芸術」を参考にしましょう。画面中央で、椅子に座り、こちらに背を向けているのは、絵画を制作している画家です。画家は、画面の奥、つまり、彼にとっては正面のモデルを見て描いている。この時、「絵画芸術」という作品を見る鑑賞者は、作品を見ると同時に、背を向けている画家の視線に同一視するように、画家が描いているモデルの女性に視線を向ける。そこで、画家と視線を同じにすることになる。それは画面の画家と一体化することになる。そこで、鑑賞者は画面の画家の見ようとしている、画家の視野、あるいは画家の見ようとしている世界を見ようとすることになる。鑑賞者が、このように画面に引き入れられるのは、画家の背を追い掛けるようにしてであり、画家は画面の中の人物であると同時に、鑑賞者を画面に引き入れるガイドの機能も果たしている。つまり、この作品中の画家は、画面と鑑賞者の中間にいて、鑑賞者を画面に導くような存在になっているといえます。これは、他の画家、例えば18世紀ドイツの画家フリードリッヒの「窓辺の婦人」という作品でも、鑑賞者は暗い室内にいて、こちらに背を向けて、開いた窓に向けて立っている女性に誘われるように、窓の外、つまりHammerfreed2 画面で言えば、窓の奥(向こう側)に視線を移していく。これは、フリードリッヒの与していたロマン主義というものが、はるかな理想の世界への憧れというのを、この作品では現実の生活を匂わす暗い室内から、窓の外に広がっている明るい世界、それが理想の隠喩なのでしょうが、それへの憧憬と、そこへ鑑賞者の視線、認識を導いてゆこうとする作品であるといえます。これらに共通するのは、鑑賞者を画面の人物と一体化させて、画面の中に、というより、画面の中心となって示しているものに導こうというものとなっているということです。これは、展示されているデンマーク絵画でも、ヴィゴ・ヨハンスン「台所の片隅、花を生ける画家の妻」では、鑑賞者は、背中を向けて花を生けることに夢中になっている主婦に一体化するようにして田舎家の台所に導かれるようになっていると言えます。これらの作品では、人物は、鑑賞者に世界を向けていることと、その人物の正面、鑑賞者からみれば、この人物の奥に世界が広がっていたり、何か人物が働きかける事物が存在している。そして、鑑賞者はこれらの人物を通して、それらの世界や事物に関わるように参加していていくことになります。そこでハンマスホイの「室内」をあらためて見ましょう。女性はこちらに背を向けています。この女性の目の前には、何もない壁があるだけです。しかも、女性と壁の間の空間はほとんどない。女性は、壁にくっつくようにして立っている。立っているだけです。ここでは、女性の前に世界が広がっているわけでもなく、何かに働きかけているのでもない。彼女は何もしていないで、ただ立っているだけです。これでは、鑑賞者は女性と一体化して画面に参加するということは不可能です。したがって、そういう機能は、もともと意図されていない。せっかく、背中を向けた人物を画面に配しても、それが活かせるような使い方をしていない。この女性が、作品の画面の中で存在して、機能しているのは、箪笥テーブルなどと同じになっているということです。でも、「寝室」ではHammer2020bedroom_20200327215401 女性は窓辺にいて、外を見ているではないかと反論があるかもしれません。しかし、「寝室」とフリードリッヒの「窓辺の婦人」を比べてみれば、「寝室」の婦人が鑑賞者を画面に導くような存在でないことが分かると思います。フリードリッヒの「窓辺の婦人」では、窓が開かれ、婦人は窓の外に身を乗り出すように外を見ているのに対して、ハンマスホイの「寝室」では、窓は閉じられて、女性は窓際に佇んでいるだけで、外に向けてのアクションの形跡がない。フリードリッヒの窓は外に向けて開かれたものであるのに対して、ハンマスホイの窓は閉ざされ、外と内を区切る壁のようになっています。ハンマスホイにとって、窓を閉ざすには、室内を閉鎖された空間とするという理由があったのだろうと思います。この二つの作品を比べると、「寝室」に特徴的なのは、異なるのは光の扱いです。白壁の室内は明るくて、しかも窓が大きくて外光が降り注ぐように射し込んできます。しかし、室内というのは、外から光を取り込む閉ざされた空間です。そのため、射し込む光は、方向や範囲が、どうしても限定されます。そこで、ハンマスホイの特徴である陰影の塗りが部屋に差し込む外光という制限を受ける形になります。しかし、一方で閉ざされた空間に一方向から光が差し込んでくる。そこで、画家の陰影表現はますます精緻に展開できることになるでしょう。室内の細部の凹凸が陰影表現のために強調的に利用されることになります。それだけに飽き足らず、室内に置かれた家具や生活用具が陰影のアクセントとして何通りもの表現が試みられます。このような室内での光の構成に色々を試みるなかで、構成の要素となる家具や人物を言わばパーツとしてパズルのように組み替える作業を繰り返していくうちに、それぞれのパーツがパズルの構成要素として使いやすく人為的な手が加えられていったとしてもおかしくはないでしょう。いうなれば記号化の措置が加えられた、と考えてもいいでしょう。となれば、室内といっても現実に存在するままを描く必要はないわけです。それは、想像の世界とか幻想とか超現実とかといったものものしいものではなくて、記号の組み合わせに近いものではないかと思います。ハンマスホイ自身も想像を飛躍させていたような認識はなかったと思います。それが、これから見ていく、自宅を題材にした室内画を見ていく際の視点になってきます。

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