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2020年3月28日 (土)

ハンマスホイとデンマーク絵画(6)~第4章 ヴィルヘルム・ハマスホイ─首都の静寂の中で(5)

Hammerinterior  「背を向けた若い女性のいる室内」という1903年ごろの作品。展覧会ポスターで使われた作品です。ストランゲーゼ30番地の自宅の居間で背を向けて立つ女性(ハンマスホイの妻のイーダ)は、盆を手にしていますが、何をしようとしているのか、行動や心理状態を窺い知ることはできません。よく見ると、女性の左の方に置かれた器(パンチボウル)は蓋がずれており、女性に比べて異常に大きい。それは、背を向けた女性が人物画のクローズアップするような描かれ方をしているからかもしれません。例えば、全体にぼんやりとした雰囲気の画面であるにかかわらず、この女性の首筋の後れ毛のほつれが丹念に描かれていたりします。そのあたりの人物への距離感というのが、うなじに吸い寄せられるように視線を近寄っても、この人物が何をしようとし、何を思っているかもわからず、その視線が拒まれるように宙ぶらりんになってしまう。そこで距離感が決まらず曖昧になる。その曖昧な距離感を、異常に大きな器とのバランスが助長している。それは、この室内が現実のハンマスホイの自宅の居間を題材にしているにもかかわらず、現実の具体的な室内から、抽象的な空間になっていることを示していると思います。そうして画面を見ていくと、画面左上の壁にかかった絵画の右下4分の1の直角の角が絵画と額縁の二重の直線があり、この二重の角の延長上で、画面の右端近くに、同じような直線の角が、部屋の壁の枠線として白い桟のように盛り上がっている。その下には壁の上下をわける水平のラインがある。そのラインに沿うように手前に器が置かれた家具が長方形の形である。これらすべてが直線による水平と垂直で構成された幾何学図形のようなもので、そこに器と女性という曲線が入り込んでくる。そうなると、この作品は、室内画から直線と曲線との幾何学的な構成のコンポジションのように見えてくる。昨年末に、坂田一男の回顧展を見てきましたが、彼は、壺やバルブの形状を曲線と曲線の組み合わせに抽象化して、それらのコンポジションによって画面という空間を構成させていくことで様々な作品を制作していました。坂田は、さらにそういう空間をひとつの画面の中に複数入れ込んで複雑な構成を作り出していましHammerida3 た。ハンマスホイは、坂田が平面化してコンポジションしたことを、立体でやっていたと言えると思います。それが、彼の一連の室内画です。しかし、坂田のように平面化して形状に抽象化してしまうのとちがって、室内の家具とか人物などは、立体でしかも形状に抽象化できていません。そこには、例えば光と影という形状と異なる要素や、形状にしても曖昧さが残ります。それをハンマスホイは逆手にとって、コンポジョンのバリエィションの一つの要素とし、さらに、坂田の場合は厳密に設計した画面ということになりますが、ハンマスホイの場合には、そこに偶然的な要素が入り込むことになって、坂田の抽象画にはない、あそびの要素、それゆえ堅苦しくない画面になっている。それが一連のハンマスホイの室内画の大きな特徴ではないかと思います。このような試みを、画家は意図的に行っていたかは分かりません。しかし、見れば、結果として、そうなっていると見ることができる。ここにハンマスホイという人の独創があると思います。仮に、彼に近いことをやっている人として、強いて思い浮かぶとすれば、テーブル上の器を並び替えて、同じように静物画でコンポジションを試みたとイタリアのモランディが思い当たるくらいです。
Hammer2020interia3_20200328215801  「画家の妻のいる室内、ストランゲーゼ30番地」という1902年の作品です。ハンマスホイは自宅の中庭に面した部屋を舞台にして、同じようなアングルで、女性の姿勢や、壁に掛けられた絵画のサイズや数、テーブルの有無、構図のわずかな違いなどで様々なコンポジションの試みをした作品を制作しています。今回の展示は、この一作のみですが、8年前の展覧会では、同じようなアングルの作品が数点展示されていて比べて見ることができました。その時の作品を参考としてあげておきます。両者を比べて見ると、女性の位置関係が違います。参考作の方は、絵を見る者の方を向いて縫物をしているのに対して、展示されている作品を見る者に背を向けて座っています。後ろ姿なので何をしているのか分かりません。このような女性の違いだけでも画面の構成は大きく変化してきます。例えば、窓から差し込んでくる光が同じ(窓を通した光が床に映る角度や大きさが、両作品はほとんど同じなので、時刻等は同じ頃合いであるのが分かります)なのに、室内の明るさが同じに見えないのです。あるいは、「室内─陽光習作、ストランゲーゼ30番地」という1906年の作品でHammeryoukou は、女性の姿もテーブルもありません。そうすれと画面全体の印象がどう変わるか、のっぺりとした平面的な世界になっているように思います。それは、前に違うパターンの二つの作品を見ているから、なおさらそう見えるのかもしれません。このように、ハンマスホイの室内画は、何点もの同じような作品を並べて見ることによって、個々の作品の個性が浮きあがってくる。そうすると、ハンマスホイが一つの作品に施したものが、それぞれの作品でちがうということ、そういうところに彼の画家の苦労が見えてくるように思います。

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