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2020年5月10日 (日)

白髪一雄 KAZUO SHIRAGA a retrospective(4)~第3章 「具体」への参加

Shiragatitle1957  白髪が具体美術協会に参加して、本格的にフット・ペインティングを実行していくころの作品ということです。この後のコーナーが「水滸伝豪傑シリーズ」ということで、それまでの作品ということでしょうか。実は、私は、この展示を見ているときにはフット・ペインティングなるものを知らなかったので、独特の絵筆の使い方と思っていました。そういう結果を求めて、こういう作品を意思して制作していたと思って見ていました。天井から吊したロープにぶら下がり、床に広げたキャンバスに足で滑走して描くというか絵の具を塗りたくるという手法は、偶然に任せたようなもので、筆を執って描くという技能による場合とは全然違うので、そこに作家の意思がどれだけあるのか、ということになるのかもしれません。おそらく、この手法は作家の意思とかよりも偶然に任せるといったことを求めてのことでしょう。しかし、絵画を離れて、マンガを考えてみると、マンガの作品を制作しているのはアシスタントを含めたプロダクションであって、作画はマンガ家本人は一部しかかかわっていなくて、背景などはアシスタントに任せてしまうこともあるようです。しかし、それで出来上がった作品について、絵が上手とか下手かはすべてマンガ家の評価となります。本人が描いていないにもかかわらずです。そこには、アシスタントに書かせるということをマンガ家が選択したということと、最終的にアシスタントの描いたものをマンガ家の作品として認め、発表したということが、マンガ家の意思が働いているからです。これは、西洋のルネサンスやバロック美術の画家の工房の制作にも共通します。ルーベンスが筆を執っていなくても、その工房で制作され、親方のルーベンスが認めものはルーベンスの作として注文主に納品されるわけです。白髪の作品に戻れば、彼の足は手先のように彼の思うように動かず、偶然に支配されるというのは、プロダクションで他人に描かせることとあまり変わらないのではないか。それを最終的に白髪は作品して発表しているのですから、気に入らなければボツにするかやり直せばいい、そこに画家の意思があると言えると思います。いろいろと難しい理屈はあるのかもしれませんが、私の場合は、作品という結果を見て楽しんでいるので、それをどのようにして描いたのかということは、結果より前面に出ることはありません。そんなことを知らなくても結果さえよければいいので、強いて言えばスパイス程度のことにすぎないと思います。それは画家の苦闘とか、そういうことは別の話です。この展示も、余計な説明を一切行わずに作品とタイトルだけを出しているのは、作品だけをみてほしいということではないかと思います。それゆえ、足で絵の具を塗りたくろうが、筆で熟練した技術で描こうが、同じように結果としての作品を見た感想を述べていきたいと思います。
Shiragatitle1959  「無題」という1957年の作品です。フット・ペインティングを始めたころの作品でしょうか、後年の白髪の作品は尤もらしい題名がつけられていますが、この作品の「無題」というのは、とにかくやってみて、出来上がったというので、それをどうこう考えるところまでいかなかったので、「無題」ということになったのでしょうか。それだけに、余計な物語的なものが入り込んでいないで、却って抽象度の高い作品となっています。この作品が、これまで見てきた作品と大きく違うのは、フット・ペインティングを始めたということ以外にも、この大きなサイズということが言えると思います。実際のところ、ロープにぶら下がって足で絵の具を塗りたくるわけですから小さなキャンバスにちまちま描くことなんかできないでしょう。動き回らなくてはならないのだから、どうしても大きな画面が必要担った結果が、このサイズなのでしょう。それが結果として、大きな画面だからこそ現れる効果というのが、この作品にはあると思います。それは一種のイベント性というべきなのか、例えばバロック美術の宗教画では、教会に飾られたものは、大聖堂という空間で、天上から光がさしてくるのに作品が照らされて、見る者は作品を見上げるように飾られているというシチュエィションの中で見られる。そうすると、それらがあいまって特殊な効果を見る者に及ぼす。そういうイベント性に近いものを、この作品は纏い始めているとおもえるのです。まずは大きなサイズで、黒い塊のような描かれたものが見る者にのしかかっているような迫力。さして、これが私には大きな要素なのですが、この大きさではじめて色のグラデーションを見ることができる。おそらく、このページの作品の画像では、いくら見ても分からないと思いますあの大きな、実物を、実際に、目の前で見ないと分からない。そういう微妙な作品で、白髪の作品には、そういう特徴があることで共通しています。それはこれ以降に見る作品に共通しているものです。この作品では、画像では黒い塊にしか見えません。現物を見ていると、黒い絵の具で塗られている下には青とか茶とかの色が塗られている。その上から黒の絵の具が塗られて、その塗りにムラがあるので、塗りの薄いところや絵の具が掠れたりするところは、下の色が透けて見えている。それは、下の色そのものではなくて、黒を通してなので、下の色は微妙なのです。しかも、黒い絵の具で塗られているようで、実は一部に茶も混じっている。したがって塗りの具合では茶と黒の両方が出ているところがある。それを透かして下の色が見えていたりもする。そういう変化が画面全体でなされている。そういう細部をみていいくと、後から後から変化が見えてくる。しかし、画面のサイズが大きいので、全体を見渡すことはできず、離れて全体を見ると細部が見えなくなる。そうして見ていると、切りがない。そういう作品です。同じ「無題」という題名の1959年の作品は黒で塗りつぶす部分が少なくなって、下の色がより多く出ている。それだけに明確な印象が強くなっています。

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