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2020年7月 7日 (火)

村井正誠 あそびのアトリエ(6)~村井正誠の「黒」

Muraiblack2  村井は、1950年代末から60年代半ばまでの数年間、画面全体が黒く塗りつぶされた作品の制作をつづけました。マレーヴィチのシュプレマティスムの作品のようです。シュプレマティスムを簡単に紹介すると、語源的にはラテン語の「supremus(至高の、最後の)」に由来するもので、マレーヴィチは絵画に絶対を求め、それ以外のものを排除していきました。彼にとって絶対的なものとは感覚でした。したがって、自然の諸現象からさまざまな印象をうけとって、これをあれこれ表現することは、まったく無意味にすらなってくるわけです。それは、自然や世界がたんに無意味だというのではなく、そこに適当な意味を付与することが自然を掴まえたことにはならないというのです。意味を付与するのは知性による認識の働きであり、感覚ではありません。つまり、何かの対象を描くということから、キャンバスに対象がなくただ平面形態を描くということになり、形態も単純化され、挙句の果てに形態も何かであるということになり、画面を真っ黒に塗りつぶすという作品まで突き詰めます。それは果たして絵画と言えるのか。理念を極限まで追求して、行くところまで行ってしまったというものです。
 しかし、村井の作品は、そのような理念を突き詰めるような理論的なものではありません。作品は似ていますが、村井の作品はシュプレマティスムとは明らかに一線を画しています。前のコーナーで見た「聖母と天使達」と「天使とトビア」の二つの作品は、「天使とトビア」が3年後に描かれたのですが、両社では、黒い線の太さが明らかに異なっています。3年後に制作された「天使とトビア」の線の方が、明らかに太い。一見して、分かるほど太さの違いは明らかです。おそらく、村田は、画面上で線を遊ばせるかのように自由で即興的に引いているようにみえます。それだけ、線の重要性が高まっていった、それに比例するように画面上の線の存在感が増していった。その表れとして、線が太くなっていったと思います。その後、線の存在感は増すばかりで、それが極端なほど、線が画面全体を埋め尽くすまでに至ってしまった。それが「黒」の作品ではないかと思います。そのためか、作品のサイズが、今までの比べて大きくなったこともあって、巨大な黒い画面が、見る者に迫ってくるような迫力は、これまでの村井の作品にはなかった圧迫感があるものとなりました。何か迫ってくる感じがあります。しかし、村井の場合は、シュプレマティスムとは違って、描かれた作品の線が突出した結果と言えると思います。そのためか、マレーヴィチの「黒い正方形」が禁欲的であるのに対して、村井の作品は、もっと感覚的で、豊かさを抱えていると思います。たしかに、線は白地の余白があって、そこに伸びているから線なのであって、画面を埋め尽くしてしまったら、そういうメリハリがなくなってしまいます。その代わりを村井は模索したのでしょう。ひとつは絵の具の塗りです。これ以前の村井は塗りは無造作ともいえるようで、ベタッと絵の具を平面においていたという感じでした。線自体も、同じ太さで幾何学的とはいえますが、機械的で、線が伸びて平面上を動いていく軌跡が形となることが重要でしたが、その線自体には、とくに工夫とか魅力があるというものではありませんでした。ところが、その線が画面を埋め尽くしてしまったら、その線自体=線で埋められた画面に魅力がなければならなくなります。そこで、線の表面、つまり黒い絵の具の塗りに対する姿勢が変化します。
Muraiblack  「不詳(黒のひろがり)」という1959年の作品や「軌道(オービット)」という1961年の作品では、黒で塗り尽くされた画面上に、絵の具を土手のように盛り上げて、それを線状につなげます。それが作品タイトルにある軌道ということだろうともいます。つまり、ペッタンコだった表面に変化を作ろうとするのです。それは、土手ところだけでなくて、筆のストロークの幅や方向を揃えたり、リズムを生むように規則的に塗り方をしたりして、表面に様々な変化が生まれてきたのです。しかも、黒という色は、室内の照明の光に正対するように反応するので、光を反射したり、影を作ったりするのがよくわかります。その変化が、作品をどこで見るかの位置によって微妙に変化してくるのです。それゆえ、一見真っ黒で何もないような画面が、見る位置や時間によって無限に変化する、豊かな可能性に溢れた画面になっているのです。それまでの作品は、描く人が線を引いて遊んでいましたが、この作品は、見る者が線を見ることであそぶことができる作品になっています。それは、マレーヴィチの禁欲的な作品は、正反対の方向性だと思います。また、これらの作品では、黒一色ではなく、画面の隅にわずかな余白や彩色された部分があり、それらが黒の部分とバランスをとっていて、黒の迫力からの息抜きのようにもなっています。その後の「人」とか「人びと」という作品では、そういう余白もなくなり、黒一色の画面を作っています。

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