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2020年7月 6日 (月)

村井正誠 あそびのアトリエ(5)~村井正誠の「天使と聖母子」

Muraiangel  顔のところでも指摘しましたが、村井の描く人間には、個性とか表情が欠けています。つまり、人格というものがなくて、単なる人間のかたち、特徴的な外形が単純化されて描かれています。それが、顔だけでなく、身体(物理的な身体だけでなく社会的な身体)も捉えた全体像を、しかも複数の人間を描いた場合、そこには例えば、複数の人間を描いたのであれば、それらの人物の関係とか、そういうことを描くことには一切興味がないように見えます。実際、描かれていません。端的にいうと、ものがたり的なものが全くないのです。あくまでも描く題材は、人間の外形的なかたちだけなのです。しかも、人間の形を描くというより、人間の形を取り上げて描いた形をいじる。そこには、ロマンチックな人間とか人物というものは描かれていないと思います。それゆえに、画面であそぶということができるように見えます。こういうのは、日本の画家では珍しいのではないかと思います。“村井にキリスト教の信仰はないが、滞欧時代の経験やミッション系の学校で講師を務めるなかで、聖書の物語にモチーフとしての面白さを見出した。戦争による荒廃や多大な犠牲に対する鎮魂と祈りも込められているのであろう。”と解説されていましたが、たまたま題材として使ったら、それを繰り返していたというだけのものではないかと思います。つまり、こういうことMuraiasobi です。村井の作品というのは、描かれた画面をいじってあそぶという性格のものです。その場合、画面をいじって遊ぶことが主眼なので、何かを描くということではないため、対象への愛がない。逆に言うと、描きたい題材というのは、とくにない。しかし、題材がないと、それをネタにして遊ぶことができない。愛はないのですが、ネタとしては必要ということです。しかし、愛するようなこだわりはないので、わざわざ探す気にはなれない。そこで、たまたま手近の題材に手を付けた。それが顔であり、人物だった。また聖母子のそのひとで、ヨーロッパで絵画を学んでいたわけですから、先人によって描かれ聖母子の作品は多数あった。つまり、ネタは豊富だった。そんなものがたりを想像してしまいます。それが、村井の聖母子の作品から受けた印象です。だから、彼の聖母子の作品には、宗教性とか慈悲とか愛情とかいう情緒的とかいうような情緒性は、全く感じられなくて、その形状で遊んでいる画面の表層を楽しむという作品ではないかと思います。
 「聖母と天使達」という1948年の作品です。黒い線で引かれた形が聖母子とか天使の形のように見えるということなのでしょう。相変わらず、平面的な画面です。そのペッタンコの白い画面に鮮やかな色の四角形や円が描かれています。それは幾何学的な図形の並びで、整った形ではありますが、動きとかはない。それはそれで色遣いのセンスはいいので、静かな落ち着いた、というよりは生命感とか動きとかはない、死Muraiangel2 んだような動きの留まった、しかも、画面に奥行きのような空間がなくて、ペッタンコの平面が並んでいる。動きのなす世界を作っています。そして、その世界の上に、それとは全く関係がないような、黒い線がくねくねするように屈曲したさまが描かれています。それは、色が使われ幾何学的な図消すのならぶのはべつです。例えば、黒い線の屈曲は色が塗られている図形の角や節目のようなところでは無関係だし、直線は不規則に四角形や円を横断します。ここには、白地に黒い直線というモノクロームで、線は不規則に屈曲したり、延びたり縮んだりするように、動きと即興性が感じられます。それに対して、彩色された図名が並ぶように配置されて描かれているところがある。この二つの面が一つののっぺりとした平面に同居し、時には重なり合っている。ここに多層的な空間が生まれている。そう思えます。それだけ二つは異質です。しかし、この作品は、ペッタンコで二つの世界が重なっているということが、よっぽど注意して意識していないと気づきません。一見では、白地の画面を黒い線が自由にくねくね動いているというように見えると思います。しかし、正反対のような二つの面が同居し、重なり合っているという視点で見ると、黒い線の動きの自由さ、即興性は、その背後に幾何学的図形のようなかっちりとして整のった秩序がある。その対照性から、黒い線の動きが強調されることになっている、そう見えました。
Muraiangel3  「天使とトビア」という1951年の作品です。トビアは旧約聖書の外典であるトビト記に登場するユダヤ人の男子で大天使ラファエルに導かれて旅をしたという古典西洋絵画で繰り返し描かれた題材で、そのアトリビュートである魚が画面中央に描かれています。この作品は、「聖母と天使達」と比べて、参考としてあげた図像と似たような輪郭の形を察知しやすくなっています。背景の図形が整っているのたいして、黒い線でつくられたトビアと天使の形は、線をくねくね引いているうちに、偶然、そういう形になったような印象です。それが、この作品の即興性、あるいはあそびの感じ、自由さを印象付けていると思います。ちなみに、この作品では人の形が、それと分かりやすくなっているので、ピクトグラムに似ている、とても記号的な印象をうけます。ピクトグラムというのは道路標識や案内標識で人の形を簡略化した図案です(例えば、非常口の走る人の形やトイレの男女の区分など)。それが、作品を見る人にとっては、取っ付きやすく感じられると思います。それと、何度も指摘していますが、この人のセンスの良さは、この作品でも、決して鮮やかな原色を使いながら、色の配置や余白を巧みに多くとって、くどくならないようにしているところとかに表われていると思います。

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