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2020年7月 5日 (日)

村井正誠 あそびのアトリエ(4)~村井正誠の「顔」

 展示されている作品の中でも、顔を題材とした作品が最も多く、村井の画家としてのキャリアの中でも、初期から晩年まで、ずっと通して取り上げ続けた題材のようです。それだけに、村井のスタイルの変遷を追いかけるのに適した題材ともいえると思います。
Muraiarabu  「アラブの女」という1930年の作品です。お面のような顔ですが、単純化されてはいても顔の形をしています。暗い中に色黒の肌の顔を白いヒジャブを顔の周りに巻いて、それがアクセントになって、顔の形が分かるようになっています。人の顔というより、仮面を浮き上がらせたような印象の作品です。これってパターンですよね。こういうパターンとして顔を描く、しかも縦長の顔というと、モディリアーニの描く細長い顔の女性を連想してしまいます。センスの良さも共通しています。しかし、モディリアーニの女性のような存在感とか、美しさを感じさせるといった作品にはなっていません。また、同じ頃に村井は「不詳(バンチュール)」のような作品も描いていました。そういう点から、こういう傾向にとどまって追求していくことはできなかったのでしょう。
Muraiwoman  「女の顔」という1951年の作品です。顔というより顔の記号です。私が子供の頃に落書きした「へのへのもへじ」をおもわせるような顔です。ギャグマンガの脇役の女性キャラもこんな書き方をしていますが、まさにそんな顔です。黒く太い均一の線を引いた円を輪郭とする、平面的な顔の、この作品が、展示されている中で最も古いもののひとつなので、このころが村井の特徴的な顔の作品の始まりで、初期的な作品ということになると思います。パウロ・クレーの描く顔にも似たように簡略化したものがあります。しかし、クレーの場合は原始的(プリミティブ)ふるいは土俗的なものへ回帰するような志向があって、それゆえに、顔を描く線は、村井の作品の線のように輪郭の明確な一様で統一された線ではありません。そういう機能的な線ではなく、曖昧で、その代わりに、今生まれてきたかのような生々しさに溢れています。言ってみれば、クレーの描く顔は顔の形にとどまらず、色々なものを生んでいます。見る者に想像させてしまうのです。これに対して、村井の描く顔を、もっと機能的です。村井は顔を描くに際して、人の個性とか表情というようなもの、人によっては顔の本質的な要素と捉えるようなものはすべて切り捨てられていて、そこには顔を描くということよりも、描かれた顔の形が面白くて、顔を描くというのではなくて、描かれた顔をいじって遊ぶという要素が強いように、私には見えます。例えば、参考の画像として、「あそびあそばせ」というマンガの登場人物の顔ですが、これらの顔はすべて一人の人物の顔で、これらの顔に共通しているは、目と鼻と口というパーツがあるということと髪形くらいです。それを、マンガの読者はお約束で、これが同一人物で顔がものがたりの場面に応じて変化するのを楽しんでいるのです。そには、人格的な個性とか、自己同一性(アイデンテティ)が顔に表われるとかいうようなことはありません。人の顔であることが分かればいい。あとは、それが読者の予想を裏切るように変化するのを面白がっている。
Muraiboy  「少年」という1952年の作品では、顔を描いているのでしょうが、もはや顔であることが分かるのは、太い線で引かれた円形が顔の輪郭であると、かろうじてわかるからです。その円形の内部で、線が屈曲して交錯しているさまを、目や鼻や口であると見なすことは困難です。他の作品でも、円形の輪郭の内部に小さい円形が数個並べられている顔や、円形の輪郭の中に彩色された四角形が並べられている顔もありました。これらは、通常の現実的な感覚では顔と呼ぶことはできません。先ほどのマンガの場合には、同じ人の顔の変化であることが前提としてあります。そうでなければ、物語が成立しないし、同じ人の顔が、ここまで元の顔を離れるほど変わってしまうという落差が面白さとなっているので、元の顔との同一性というたががはめられています。それに対して、村井の場合は、そのタガを外して遊んでいる。基本的には、村井の描いた顔は白い地に黒い線を引くということがベースになって、黒い線が自由に形を作っていく、そこに遊びのかんじがあって、それが魅力的な特徴になっていると思いまHasegawared_20200705201001 す。そういう黒い線が自由に動くという点では長谷川三郎の作品と共通しているところがあると思います。均一で機能的な黒い線というところも、長谷川と共通しています。ただ、長谷川の場合は、線が作りだす面が多層的にかかわっていたりするような、線自体というよりは、線がつくりだすものに主眼が置かれていたり、前衛書道のように線自体を変化させる方向に傾いたりして、線を手段として扱っているところがあると思います。それに対して、村井の場合は、画面構成はシンプルさにとどまっていて多層的のような複雑になる傾向はありません。線は、線であることがかわらず、それが不規則に引かれていく面白さ、それに伴って、黒以外の色が塗られた形が、その線と無関係に画面に配置される、アナーキーなところに面白味があると思います。この「少年」という作品でも、黒い線とは別に、緑や黄色の四角形が線とは別々に白い地の上にあるのが、不思議でしたが、村井という人のセンスの良さでしょうか。独特の色合いというか、白と黒だけだったらあったであろう緊張感を和らげていると思います。緊張の分散というか、それが遊びの要素を増加させていると思います。

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