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最近読んだ本

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2020年8月

2020年8月29日 (土)

戸高一成、大木毅「帝国軍人 公文書、私文書、オーラルヒストリーからみる」

11111_20200829211301  大和ミュージアム館長と『独ソ戦』著者との対談。かつて二人は、『歴史と人物』という雑誌の毎年の終戦日と真珠湾の特集号で帝国軍人の証言を集めたり、海軍軍人の反省会に関わっていたりした。普通、歴史学者は資料を渉猟し、読み込んでいくが、文字化し文書に残された記録は理性によって作られたもので、歴史を動かすのは必ずしも理性だけではなく、人は感情でも動く。とくに第二次世界大戦、日本が英米と開戦したのは、理性で考えれば負けると、しかし、感情では、負けると分かっていて戦った。それが肉声の証言では、語られる言葉ではなく、その語られ方で表われてくる。ときに、理性で構築された文章は、作られてしまうことがある。そこで、当たり前のことなのだけれど、あらためて言われてみれば、そうだと分かってくること。帝国軍人とはいっても、公務員の一種に過ぎないということ。そう考えると、例えば「失敗の本質」で分析された軍部の構造的な問題は、役所の官僚体質のバリエーションで、それだからこそ、後世の企業経営者などが他人事ではないと参考にする理由が、そういうところにあることが納得できる。ここで語られる、当時の軍人たちの貴重なエピソードは、そのことを裏付けている。例えば、出世する軍人の大半は中央の役所に残って、減点主義の生き残りに落伍しなかった人々だったということ。サムライ的な気質を持った人は、そういう出世コースから外れた前線に飛ばされた人たちに多かったという。
 くつろいだ対談で、そこで語られる軍人たちのエピソードや人柄はたいへん面白いので、あっという間に読めてしまった。しかし、現代の組織の中で生きる我々にとって、必ずしも他人事とは言えない、身につまされるようなところがある。

 

2020年8月27日 (木)

兼原信克「歴史の教訓─「失敗の本質」と国家戦略」

11111_20200827212001  著者は、今の安倍政権の初期の頃に設立当初の国家安全保障会議(NSC)で、国家安全保障戦略の策定を事務方の中心となった人物。そういう人物が日本の近現代史を概観し、これからの国家戦略について述べている著作。特に注目すべき点と思われるのは、日露戦争後の大正から昭和初期の、いわゆる戦前の日本の国としての選択について、善悪とか正しかったかどうかとか国益にかなうものだったかという視点で述べられていたのに対して、国家戦略が存在しなかったという視点で批判している。新しい視点ではないかと思う。著者の経歴から、そういう視点で歴史を遡り、現代の国家安全保障戦略を検証したかったのではないかと思わせるところがある。
 例えば、日露戦争後に策定された第一次国防方針では、日英同盟が所与のものとされており、「なぜ日英同盟が国益に資するのか」と言う外交戦略(政略)に関する部分が薄く、国防方針(軍略)に重きがかかっていることである。陸奥や小村のような優れた外交官による情勢分析と帝国国防方針が帝国外交方針と組み合わされば、真の国家安全保障戦略となりえたであろうが、日本ではそこまで外交と軍事を統合させた文書が政府によって策定されたことはない。学術界でも外交史と軍事史をバランスよく組み合わせた日本近代史がなかなか書けないのは、日本政府がそのような総合的な戦略思考をしてこなかったために、そもそもその手の文書がないからである。と指摘する。この後、国防戦略は軍事戦略とイコールになって、外交とは縦割りで、それぞれが独走していってしまう。その結果、いわゆる戦略上の仮想敵国のすべてと戦ってしまったのが太平洋戦争だった。そこでは仮想敵国との戦争をいかに避けるかという戦略が考えられることはなかった。
 そういう議論は、とても興味深いところがある。しかし、著者が関わった現代の国家安全保障戦略では日米同盟を、日露戦争後の第一次国防方針で日英同盟を所与のものとしたのと同じように所与のものとしていないだろうか。そう考えると、戦前に国家戦略がなかったと批判する刃は、そう批判する著者自身も避けられないのではないかと思えてくる。それを意識していないようにも見える。そこが、ここで語られている歴史がチグハグな印象を受ける遠因になっていると思う。

 

2020年8月21日 (金)

「イギリス近代史講義」川北稔

11111_20200821214201  世界史の教科書を開くと、その多くの部分を帝国が占めている。帝国とは、中華帝国、古代ローマ帝国、イスラムの帝国あるいはモンゴル帝国等皇帝がいて、皇帝とは王の上にいて、世界を支配する。実際の中華帝国はアジアの一部を支配しているだけなのだが、意識として世界を支配している。つまり、並ぶものがない唯一の存在。皇帝は全体を支配し権力や武力を独占し、他の者には持たせない。だから、各地の有力者から武器を取り上げる傾向が強い。だから、帝国というシステムは内部は比較的平和で、戦争は帝国の外との戦いで、支配者は内部の反乱などをさせないように抑えることに心を砕く。そのため、武器等の戦の技術は発達しないことが望ましいとされる。基本的に平和だが、停滞した世界になりやすい。
 これと違うのが近代の西欧世界で、帝国ではなく王の統治する主権国家が並び立つ。ヨーロッパという世界全体は統制のとれないシステムで、イギリス、フランス、ドイツなどの主権国家は、それぞれが喧嘩をするように互いに戦い、負けないように兵器の開発競争を始める。それだけでなく、武力を高めるためには、その基盤である国力を高めねばならず、そのために経済成長の競争をしなければならなくなる。
 マルクスの『資本論』では資本主義という経済システムが拡大再生産という経済成長の姿勢を生み出したという説明をしているが、上記のような歴史の流をみると、近代ヨーロッパの特異な体制システムが競争という姿勢を生み出し、そのマインドが資本主義の動機を生んだという、マルクスのいう原因が実は結果だったという議論になる。まるで、資本論を逆立ちして読みたくなるような発想の転換を促される。これも、歴史を見る面白さだろうと思った。あるいは、先日読んだ記号論の発想を歴史に一部応用したという側面もある。まるで、ゲームを楽しんでいるような面白さに溢れた本。

 

2020年8月12日 (水)

ジャズを聴く(49)~ソニー・ロリンズ「A NIGHT AT THE VILLAGE VANGUARD」

村上春樹はロリンズについて、以下のようなことを書いている。(「ポートレイト・イン・ジャズ」より) 
 ロリンズのテーマのメロディの崩し方、あるいは自由な間の取り方は、優れた歌手がメロディを自由に自分の個性に合わせて崩し、伴奏者にはきちんとリズムを取らせながら、好きなタイミングをとらえて歌に入り、自分なりの間を創造してしまうのに通じている。ロリンズは、それと同じことをサックスで行っているのだ。くずし、間の取り方のうまさに加えて、ほとばしり出るアドリブの奔流が凄まじい。ただ、ロリンズの場合は、嵐のような即興フレーズでも、原曲のイメージとかけ離れてしまわないところが、歌心を称賛される理由である。優れた歌手は、歌を自在に自分の懐に引き付けてしまう。つまり、個性的な表現だ。それは歌い手の声そのものとなって、一つの定型にまで高められるだろう。ジャズでも似たようなことは起こる。優れたジャズメンは楽器を通して自分の声を持っている。ロリンズももちろんそうした一人だ。しかし、本当に即興の精神に忠実なジャズメンは、それを日々新たな、そのときの自分の声としなければ満足しない。つまり、あらかじめ練習し、考え抜いた上で、定型的表現へ向かうということはやらない。一つ間違えれば収拾のつかない混乱に陥ることも恐れず、果敢にそのとき、この世に生まれ出る歌声を求めるのが、ジャズの歌心なのである。

A NIGHT AT THE VILLAGE VANGUARD   1957年11月3日録音

 Jazrollins_village Old Devil Moon
 Softly As In A Morning Surise
 Striver's Low
 Sonnymoon For Two
 A Night In Tunisia
 I Can't Get Started

 

 Sonny Rollins (ts)
 Wilbur Ware (b)
 Donald Bailey (b)
 Elvin Jones (ds)
 Pete La Roca (ds)

 

 ブルー・ノートからリリースされた3枚目のアルバム、ピアノレスのトリオを率いてヴィレッジ・ヴァンガードに出演した時のライブ録音である。ライブということもあるのだろう、ここでのロリンズは伸び伸びと奔放にプレイしている印象で、それが聴き手に気持ちよさを感じさせる。だが、凄い演奏をしているのもたしかで、それを聴く者に心地好さを与えてしまうロリンズはすごい。
 最初の「Old Devil Moon」は、有名な『Saxophone Colossus』の「St. Thomas」を彷彿させるような、ラテンのリズムでくだけた調子で、ぶっきらぼうに吹かれるテーマのあとで繰り広げられるロリンズのアドリブは、ドラムのエルヴィン・ジョーンズの煽りも受けて、まさに奔放さ全開。次の「Softly As In A Morning Surise」は、ウィルバー・ウェアのベースのイントロが、まるでベース・ソロのような煽りで、それに応えるようなのか、スタンダードなテーマ・メロディを吃音のようなフレーズで吹くと、しみじみとしたメロディがユーモラスに変貌してしまう。曲全体はイントロからベースが支配して、ロリンズのテーマの吹きようで、ユニークな「Softly As In A Morning Surise」の行き方が、ここで決まったという印象で、ここからベースの煽りにロリンズが時にわざと外したりながらのソロは遊び心満載で、エルヴィン・ジョーンズのドラム・ソロも付き合うようにリズムを時折無視したように間を外して遊んでみせる。これはベースが全体を支配している上での遊びだろうことは、ベースの力強い弾力的な響きからも分かる。ここでのプレイは、とにかく3人とも音圧が凄いのだ。3曲目の「Striver's Low」はロリンズのオリジナル曲で、全編アドリブといっていいほどロリンズは全開のプレイ。その高速のフレーズは、あのジョン・コルトレーンのシーツ・オブ・サウンドにも引けをとらない迫力。しかも、コルトレーンの無機的なのに比べて、ロリンズはメロディアスでもある。「A Night In Tunisia」では、ピアノレス・トリオの編成を採用したことで、ロリンズのこのときばかりともいえる大胆なプレイが聴ける。曲も向いているのだろうけれど、テーマ・パートではひとりでボケとツッコミをやっているような箇所もあって、最初と二番目のコーラスを繋ぐ間奏部分で、オリジナルのコード進行を踏襲しながら大胆にメロディを発展させるところは、凄いとしか言いようがない。最後の「.I Can't Get Started」はバラードで、バラードで締めるというのは、レコードという録音媒体の制約でそうなってしまったというだけなのだろうけれど、ここでのロリンズはライブ録音ということからはやる気持ちもあっただろうが、それを抑えてじっくり自身のフレーズと向き合ってみせる。豪快なプレイに真髄を発揮するロリンズだが、このように落ち着き払った演奏をするときも魅力を放つ。ぶっきら棒に吹き始めるテーマ・メロディが独特の歌心に繋がって、ピアノのコンピングがなくても豊かな楽想を感じさせる。さっきも述べたが、たった3人で、これほどのパワフルな音空間を作り出してくるのに身を任せるように聴いていて、締めはバラードというのは、また最初にもどって聴きたくなる誘惑を抑えきれない。

2020年8月 1日 (土)

ジャズを聴く(48)~ソニー・ロリンズ「Newk's Time」

 ソニー・ロリンズは活動暦が長く、ずっとトップ・プレイヤー君臨し続けた巨人のようなプレイヤーと言えるでしょう。その間、時代の変化やジャズを愛ずる状況の変遷などによって、また、本人の伝記上の様々なエピソードは紹介やネットの検索によって容易に知ることができるでしょうが、その長い活動期間のなかでプレイスタイルを変化させてきている。それに対する好き嫌いは、ファンによって色々と分かれると思う。ここでは、私個人の主観で、つまりは好き嫌いでアルバムを紹介しているので、ここにコメントしているのは、あくまでも私の好みであって、そういうものとして読んでいただきたい。しかし、そのためには、私の好みとはどのようなものかを、明らかにしなければフェアではないだろう。そこで、私はソニー・ロリンズのプレイをこのようなものとして捉えているということを以下で簡単に述べておきたいと思う。
 端的に申し上げると、ソニー・ロリンズのプレイ(アドリブ)の特徴は、“言うべきことを言い切ってしまう”潔さと責任感にあると思っている。このような言い方は、音楽の用語でもなく実際の演奏とは関係のない言葉の上での精神論のように受け取られるかもしれない。具体的に言うと、ロリンズのフレーズというのは、様々なヴァリエーションがあるけれど、そこに一貫して流れているのは、有節形式で終わらせることではないかと思う。つまり、フレーズというのは、2つ以上の音が続けば何かしら音形として受け取ることができるから、さまざまな可能性はあるけれど、ロリンズの場合は、基調となるコードの上で、最後の音は主調に必ず戻る形になる。聴く者にとっては、メロディが終わったと感じる形を必ずとっているということだ。ロリンズのアドリブのフレーズがうたうようだというのは、ここにひとつの大きな要因があると思う。しかし、このような形で徹底してフレーズを作るというのは、実は大変なことなのだ。まずは、そういう形でフレーズを作ることが出来とは限らないということだ。それはまた、フレーズを作る際に、その可能性を限定して絞ってしまうことになるわけだ。何しろ終わり方が決まってしまうのだから。その制約でフレーズを作るのが大変ということ。そして、もうひとつの困難として、そのようにフレーズを終止形にしてしまうと、後にプレイを続けるのが難しくなるということだ。プレイを続けるには、何時までも終わらない形で、つまりは、フレーズの尻を中途半端にして、次のフレーズに連続させれば、後から後からフレーズを繋ぐことができる。実際、そうやって延々とプレイする人もいる。しかし、いったん終止形のフレーズにしてしまうと、その後で新たなフレーズをつくって始めなければならない。したがって、このように終止形のフレーズにこだわるには、それなりの決心が要る。
 他方で、そういう決心ができたからと言って、すぐにそれがプレイでできるとは限らない。そのためには、フレーズを作る即興的な創作力が要るだろうし、それがあってたとしても、例えば、ジョン・コルトレーンのようにいったんフレーズを作ったとしても、何か言いたいことを言い切れていないと感じてしまい、そのフレーズに満足できず、足りない分を付加するように、別のフレーズを足して行って、それが続いてしまう。結果として、プレイが音で埋め尽くされてしまうことになってしまう。コルトレーンの場合は極端な例かもしれないが、フレーズをつくっても、必ずしも満足しきれないケースは他のプレイヤーでも少なからずあろう。しかし、ロリンズの場合には、そこでコルトレーンのように次のフレーズを足すことをしない。そこには、求めたことをすべて満たしたフレーズを毎回作ってしまっているのか分からない。しかし、私には、そうとは思えず、そこではロリンズは、その場合には、あえて付加することを潔く諦めて、次の展開に移って知っているのではないかと思う。
 その理由は、ロリンズのつくるフレーズはよくうたうといわれるけれど、陰影とか情緒的なニュアンスのようなものは混じっていないのだ。ロリンズはぶっきらぼうなほど、フレーズを朗々とストレートに吹く。もし、フレーズにもの足りなさを覚えれば、そこに陰影をつけたり、クラシック音楽でいうテンポルバートのようにリズムのズレといった小細工を施すこともできるだろうが、ロリンズはそういうことをすることはない。彼のフレーズがうたうと言われる一方で、彼のプレイが豪快とも言われるのは、そのためではないかと思う。チマチマとした小細工をあえて捨てているからだ。
 このように、ロリンズは有節形式のフレーズをつくるということ1本で勝負している。そこに私の見るロリンズの特徴がある。その、私に言わせれば、ストレート一本勝負をもっとも直接的に聴くことのできるのは、1955年から1960年の沈黙までの間に録音されたアルバムということになると思う。
 くどいかもいれないが、これは私の個人的な好みである。

 

Newk's Time      1957年9月22日録音

 

Jazrollins_new Tune Up
Asiatic Raes
Wonderful! Wonderful!
The Surrey With Fringe On The Top
Blues For Philly Joe
Namely You

 

Sonny Rollins (ts)
Wynton Kelly (p)
Doug Watkins (b)
Philly Joe Jones (ds)

 

 ブルー・ノートでの「A NIGHT AT THE VILLAGE VANGUARD 」の前に録音した2枚目のアルバム。世評の高い「Saxophone Colossus」などに比べてワイルドに吹きまくったハード・バップの傑作といてもいいのではないか。とこかく、ここには絶好調という感じで、直球勝負のアドリブを豪快にキメていて、サックス奏者であれば、こうやりたいと思わせるようなカッコよさに溢れた内容になっていると思う。
 1曲目の「Tune Up」。初っ端からキレの良いシンバルワーク、絶妙のスネアを活かしたフィリー・ジョーのドラミングが炸裂する。この挑発に乗るようにロリンズの軽快にテーマを吹くと、そこから加速するようにアドリブに移るとテーマの変奏のような入り方から、次第に分解するようにフレーズを分割していって、様々な大きさの断片的なフレーズを重ねて、畳み掛けていくようにしてテンションを高めていく。その加速を煽るようにシンバルワークの良く響くドラムスがいて、ウィントン・ケリーのピアノがよく随いて行っている。次の「Asiatic Raes」はトランペットのケニー・ドーハムのオリジナル、「Lotus Blossom」の別名曲。ラテン・ビートに乗って「Lotus Blossom」のよく知られたテーマの後で、ドラムの短いインターバルの後、ピアノがテーマを伴奏のように弾くのをバックに一転してアドリブに突入すると、そこからは正統派4ビートで、時折不協和音なのか音をわざと外しているのか分からないような音が混じって、ロリンズの凄いのはそこで違和感を聴き手に持たすことなく、いかにも自然に聴かせてしまって、ワイルドに暴れているくらいにしか感じさせないところ。ロリンズのプレイの豪快さと、形容されることは多いけれど、決して爆発するようなブローを連発するわけではないし、コルトレーンのようにごり押しのパワーで圧倒するわけではない。必ず音楽性の魅力で聴き手に迫っている、例えば、アドリブの断片のひとつひとつのどれをとってもメロディとなって、それなりにうたっている。それが、自然に聴けてしまう、大きな要因なのだろう。とどのつまりは、アドリブのフレーズすべてに有機的な意味が通っているということ。こうやって言葉にすると、どうということもないけれど、これは実際に即興でプレイする場合には、大変なことなのだろうと思う。戯れに、ピアノのキーボードを何気なく叩いても意味のある、うたうようなフレーズはなかなか出てこない。それを瞬間的に外れ無しで、こともなげにやってしまう(ように見える)ロリンズの凄みというのは、このアルバム全編に行き渡っている。次の「Wonderful! Wonderful!」は、ロリンズのオリジナル。前曲のムードをそのまま引き継いだような曲展開、つまり悠然としたテナーサックスにイケイケのリズム隊という対決姿勢が鮮明なのだ。4曲目の「The Surrey With Fringe On The Top」は、まさしく圧巻と言うほかない、ロリンズのアドリブの凄みを嫌というほど味わうことができる。この時代では珍しい、テナー・サックスとドラムスのデュオですが、ロリンズもフィリー・ジョーも挑戦的な音を連ね、剣豪同士の真剣勝負に似た緊張感が漂っている。ロリンズのアドリブはテーマのヴァリエイションを展開させるように進む、言い換えれば、原曲メロディを大切にした歌心のあるアドリブから、次第に途方もないところに連れて行かれる。最後はフェイドアウトしてしまうが、まるでドラムスと二人だけで対話しているような孤絶の道を進もうとするような剥き出しの骨ばかりの音楽に、削ぎ落としていく様相が凄まじい。この最後のところは孤高という形容が浮かんでくる。次の全然ブルーでなくごキゲンな「Blues For Philly Joe」に続いて、最後の「Namely You」で、はじめてテンポがミディアムに落ちる。ロリンズは、スローナンバーで、嫋々とメロディをうたわすことはなく、どこまでも剛直に吹くのだが、それでいて、間の取り方やフレージングで朗々とサックスを鳴らしている

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