ジャズを聴く(48)~ソニー・ロリンズ「Newk's Time」
ソニー・ロリンズは活動暦が長く、ずっとトップ・プレイヤー君臨し続けた巨人のようなプレイヤーと言えるでしょう。その間、時代の変化やジャズを愛ずる状況の変遷などによって、また、本人の伝記上の様々なエピソードは紹介やネットの検索によって容易に知ることができるでしょうが、その長い活動期間のなかでプレイスタイルを変化させてきている。それに対する好き嫌いは、ファンによって色々と分かれると思う。ここでは、私個人の主観で、つまりは好き嫌いでアルバムを紹介しているので、ここにコメントしているのは、あくまでも私の好みであって、そういうものとして読んでいただきたい。しかし、そのためには、私の好みとはどのようなものかを、明らかにしなければフェアではないだろう。そこで、私はソニー・ロリンズのプレイをこのようなものとして捉えているということを以下で簡単に述べておきたいと思う。
端的に申し上げると、ソニー・ロリンズのプレイ(アドリブ)の特徴は、“言うべきことを言い切ってしまう”潔さと責任感にあると思っている。このような言い方は、音楽の用語でもなく実際の演奏とは関係のない言葉の上での精神論のように受け取られるかもしれない。具体的に言うと、ロリンズのフレーズというのは、様々なヴァリエーションがあるけれど、そこに一貫して流れているのは、有節形式で終わらせることではないかと思う。つまり、フレーズというのは、2つ以上の音が続けば何かしら音形として受け取ることができるから、さまざまな可能性はあるけれど、ロリンズの場合は、基調となるコードの上で、最後の音は主調に必ず戻る形になる。聴く者にとっては、メロディが終わったと感じる形を必ずとっているということだ。ロリンズのアドリブのフレーズがうたうようだというのは、ここにひとつの大きな要因があると思う。しかし、このような形で徹底してフレーズを作るというのは、実は大変なことなのだ。まずは、そういう形でフレーズを作ることが出来とは限らないということだ。それはまた、フレーズを作る際に、その可能性を限定して絞ってしまうことになるわけだ。何しろ終わり方が決まってしまうのだから。その制約でフレーズを作るのが大変ということ。そして、もうひとつの困難として、そのようにフレーズを終止形にしてしまうと、後にプレイを続けるのが難しくなるということだ。プレイを続けるには、何時までも終わらない形で、つまりは、フレーズの尻を中途半端にして、次のフレーズに連続させれば、後から後からフレーズを繋ぐことができる。実際、そうやって延々とプレイする人もいる。しかし、いったん終止形のフレーズにしてしまうと、その後で新たなフレーズをつくって始めなければならない。したがって、このように終止形のフレーズにこだわるには、それなりの決心が要る。
他方で、そういう決心ができたからと言って、すぐにそれがプレイでできるとは限らない。そのためには、フレーズを作る即興的な創作力が要るだろうし、それがあってたとしても、例えば、ジョン・コルトレーンのようにいったんフレーズを作ったとしても、何か言いたいことを言い切れていないと感じてしまい、そのフレーズに満足できず、足りない分を付加するように、別のフレーズを足して行って、それが続いてしまう。結果として、プレイが音で埋め尽くされてしまうことになってしまう。コルトレーンの場合は極端な例かもしれないが、フレーズをつくっても、必ずしも満足しきれないケースは他のプレイヤーでも少なからずあろう。しかし、ロリンズの場合には、そこでコルトレーンのように次のフレーズを足すことをしない。そこには、求めたことをすべて満たしたフレーズを毎回作ってしまっているのか分からない。しかし、私には、そうとは思えず、そこではロリンズは、その場合には、あえて付加することを潔く諦めて、次の展開に移って知っているのではないかと思う。
その理由は、ロリンズのつくるフレーズはよくうたうといわれるけれど、陰影とか情緒的なニュアンスのようなものは混じっていないのだ。ロリンズはぶっきらぼうなほど、フレーズを朗々とストレートに吹く。もし、フレーズにもの足りなさを覚えれば、そこに陰影をつけたり、クラシック音楽でいうテンポルバートのようにリズムのズレといった小細工を施すこともできるだろうが、ロリンズはそういうことをすることはない。彼のフレーズがうたうと言われる一方で、彼のプレイが豪快とも言われるのは、そのためではないかと思う。チマチマとした小細工をあえて捨てているからだ。
このように、ロリンズは有節形式のフレーズをつくるということ1本で勝負している。そこに私の見るロリンズの特徴がある。その、私に言わせれば、ストレート一本勝負をもっとも直接的に聴くことのできるのは、1955年から1960年の沈黙までの間に録音されたアルバムということになると思う。
くどいかもいれないが、これは私の個人的な好みである。
Newk's Time 1957年9月22日録音
Tune Up
Asiatic Raes
Wonderful! Wonderful!
The Surrey With Fringe On The Top
Blues For Philly Joe
Namely You
Sonny Rollins (ts)
Wynton Kelly (p)
Doug Watkins (b)
Philly Joe Jones (ds)
ブルー・ノートでの「A NIGHT AT THE VILLAGE VANGUARD 」の前に録音した2枚目のアルバム。世評の高い「Saxophone Colossus」などに比べてワイルドに吹きまくったハード・バップの傑作といてもいいのではないか。とこかく、ここには絶好調という感じで、直球勝負のアドリブを豪快にキメていて、サックス奏者であれば、こうやりたいと思わせるようなカッコよさに溢れた内容になっていると思う。
1曲目の「Tune Up」。初っ端からキレの良いシンバルワーク、絶妙のスネアを活かしたフィリー・ジョーのドラミングが炸裂する。この挑発に乗るようにロリンズの軽快にテーマを吹くと、そこから加速するようにアドリブに移るとテーマの変奏のような入り方から、次第に分解するようにフレーズを分割していって、様々な大きさの断片的なフレーズを重ねて、畳み掛けていくようにしてテンションを高めていく。その加速を煽るようにシンバルワークの良く響くドラムスがいて、ウィントン・ケリーのピアノがよく随いて行っている。次の「Asiatic Raes」はトランペットのケニー・ドーハムのオリジナル、「Lotus Blossom」の別名曲。ラテン・ビートに乗って「Lotus Blossom」のよく知られたテーマの後で、ドラムの短いインターバルの後、ピアノがテーマを伴奏のように弾くのをバックに一転してアドリブに突入すると、そこからは正統派4ビートで、時折不協和音なのか音をわざと外しているのか分からないような音が混じって、ロリンズの凄いのはそこで違和感を聴き手に持たすことなく、いかにも自然に聴かせてしまって、ワイルドに暴れているくらいにしか感じさせないところ。ロリンズのプレイの豪快さと、形容されることは多いけれど、決して爆発するようなブローを連発するわけではないし、コルトレーンのようにごり押しのパワーで圧倒するわけではない。必ず音楽性の魅力で聴き手に迫っている、例えば、アドリブの断片のひとつひとつのどれをとってもメロディとなって、それなりにうたっている。それが、自然に聴けてしまう、大きな要因なのだろう。とどのつまりは、アドリブのフレーズすべてに有機的な意味が通っているということ。こうやって言葉にすると、どうということもないけれど、これは実際に即興でプレイする場合には、大変なことなのだろうと思う。戯れに、ピアノのキーボードを何気なく叩いても意味のある、うたうようなフレーズはなかなか出てこない。それを瞬間的に外れ無しで、こともなげにやってしまう(ように見える)ロリンズの凄みというのは、このアルバム全編に行き渡っている。次の「Wonderful! Wonderful!」は、ロリンズのオリジナル。前曲のムードをそのまま引き継いだような曲展開、つまり悠然としたテナーサックスにイケイケのリズム隊という対決姿勢が鮮明なのだ。4曲目の「The Surrey With Fringe On The Top」は、まさしく圧巻と言うほかない、ロリンズのアドリブの凄みを嫌というほど味わうことができる。この時代では珍しい、テナー・サックスとドラムスのデュオですが、ロリンズもフィリー・ジョーも挑戦的な音を連ね、剣豪同士の真剣勝負に似た緊張感が漂っている。ロリンズのアドリブはテーマのヴァリエイションを展開させるように進む、言い換えれば、原曲メロディを大切にした歌心のあるアドリブから、次第に途方もないところに連れて行かれる。最後はフェイドアウトしてしまうが、まるでドラムスと二人だけで対話しているような孤絶の道を進もうとするような剥き出しの骨ばかりの音楽に、削ぎ落としていく様相が凄まじい。この最後のところは孤高という形容が浮かんでくる。次の全然ブルーでなくごキゲンな「Blues For Philly Joe」に続いて、最後の「Namely You」で、はじめてテンポがミディアムに落ちる。ロリンズは、スローナンバーで、嫋々とメロディをうたわすことはなく、どこまでも剛直に吹くのだが、それでいて、間の取り方やフレージングで朗々とサックスを鳴らしている
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コメント
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CZTさま、コンバンワ。ロリンズに関する深い洞察、興味深く読ませて頂きました。「言うべきことを言い切ってしまう潔さと責任感にある」と言う説明はとても納得できます。
ジョルジュ・クルーゾー監督の「ピカソ 天才の秘密」という映画を学生の時に、観たことがあり、ピカソの筆致を裏側から照射してリアルタイムに見せるというドキュメンタリーなんですが、ピカソのペインティングに終わりが無いんですね。
描いては、上書きし、また消して、また塗り重ねての繰り返しで、突然描くのが終わる。即興を即興で上塗りしていくプロセスは、まさにコルトレーンの手法と同じだなあと。
一方、かねがねロリンズの音楽は、音色感から言ってもそうなんですが、その音楽の構成の仕方が、マティスの創作のあり様に類似していると思っていたのですが、まさに、CZTさんが「あえて付加することを潔く諦めて、次の展開に移って知っているのではないか」と言われる様に、全体で言うべきことを俯瞰して、責任を持って歌っているところが、ロリンズの凄さではないかと改めて認識を深めることが出来ました。ロリンズは、ハンコックと並んで私のアイドルで、ブログではまだ2枚しか紹介していませんが、CZTさんのブログを見て、刺激を受け、思わず長文のコメントを長々と書いてしまいました。申し訳ありません。
投稿: | 2020年8月 1日 (土) 22時25分
zawinulさん
長文のコメント、ありがとうございます。しばらくブログから離れていたので、コメントに気づかず、返信が遅くなってしまいした。ご指摘の通り、シンプルであり、残されたひとつひとつのパーツの充実に徹した一徹なところはマティスに通じるところがあるのでしょうね。
>さん
>
>CZTさま、コンバンワ。ロリンズに関する深い洞察、興味深く読ませて頂きました。「言うべきことを言い切ってしまう潔さと責任感にある」と言う説明はとても納得できます。
>ジョルジュ・クルーゾー監督の「ピカソ 天才の秘密」という映画を学生の時に、観たことがあり、ピカソの筆致を裏側から照射してリアルタイムに見せるというドキュメンタリーなんですが、ピカソのペインティングに終わりが無いんですね。
>描いては、上書きし、また消して、また塗り重ねての繰り返しで、突然描くのが終わる。即興を即興で上塗りしていくプロセスは、まさにコルトレーンの手法と同じだなあと。
>一方、かねがねロリンズの音楽は、音色感から言ってもそうなんですが、その音楽の構成の仕方が、マティスの創作のあり様に類似していると思っていたのですが、まさに、CZTさんが「あえて付加することを潔く諦めて、次の展開に移って知っているのではないか」と言われる様に、全体で言うべきことを俯瞰して、責任を持って歌っているところが、ロリンズの凄さではないかと改めて認識を深めることが出来ました。ロリンズは、ハンコックと並んで私のアイドルで、ブログではまだ2枚しか紹介していませんが、CZTさんのブログを見て、刺激を受け、思わず長文のコメントを長々と書いてしまいました。申し訳ありません。
投稿: CZT | 2020年8月12日 (水) 20時40分