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2020年10月30日 (金)

伊藤亜紗「手の倫理」

11113_20201030230001  手で感じるのは触覚で、これを表わす日本語の動詞は「さわる」と「ふれる」の二語がある。両方とも「触」の字があてがわれ、英語では「touch」と訳される。例えば、怪我をした時に傷口に「さわる」というと何だか痛そうな感じがする。しかし「ふれる」というと手当をしてくれそうな感じがする。「ふれ」あいという言葉はあっても、「さわり」あうというのはわざとらしい。そこに、「ふれる」一方的で物的なかかわり、「ふれる」には相互的で人間的なかかわりというニュアンスの違いがある。英語に代表されるヨーロッパ系の「touch」は物に対する触覚が中心で、視覚の構造、つまり、主体が離れた対象を感覚するという一方的な関係の、対象との距離が接触というゼロというもの。それゆえか、感覚としては視覚よりも下等な感覚に位置づけられる。そこには「ふれる」の意味合いはほとんどない。そこで、著者は、とくに「ふれる」に焦点を絞っていく。実際のところ、相手に触れるというときには、暗黙で相手はふれることを拒否していないことが前提されている。そこで「ふれる」ことが可能となるには、相手との信頼が暗黙のうちに前提されている。それは、接触は容易に相手を傷付ける暴力に変わりうるリスクを伴うから。だから、信頼をするには、それなりの決意を伴う。それゆえに、「ふれあい」は親密さを得ることが可能となる。この「ふれあい」というには主体が対象へという一方性ではなく、どちらが主体か対象かという垣根が消失する。主体という垣根がなくなるのは、共鳴とかいうように相手との融合するような感じがうまれる。ただし融合という名詞化された状態ではなく、「ふれあう」という動作を相互にアクションを交わしている。これは、主体と客体という固定枠がなくなって絶えず動いているという、流動的でかたちのない曖昧になる(その端的な例はセックスの融合感、一体感ではないか)。そういう曖昧な感覚、関係、あるいはコミニュケーションも手でふれるということに表わされているのではないか。それがまた、日本語に独特の「ふれる」という言葉。これは、例えば河合隼雄の言う「あいまい」という概念に通じるが、西洋哲学の認識という枠におさまらない、人の周囲との関係の発見がある、知の新しい地平を開いていると思う。そう思うと、「見る」ということが、いかに制約されたものであるかということ、普段の私がいかにそれに縛られているかということが、分からせられてしまう。

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