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2020年12月

2020年12月31日 (木)

蓮實重彥「見るレッスン 映画史特別講義」

11112_20201231184301  あの蓮實重彥が新書を書くなんて、ありえない事態に驚きつつ、思わず手に取ってしまいました。今年は最後まで異常事態だった。1本の映画、だいたい2時間くらいだろうか、それを映画館に出かけて、見るというのは特権的な時間であり空間だという。そういう特権を行使するなら、その映画の最も優れたところを見るのは義務だ。断定的な言い方だけれども、特権には義務が附随するから、なのだ。その最も優れたところを見るには、しっかり目を見開いていなければ、見ることはできない。映画がある程度分かったと思えることは安心感をもたらす。しかし、その安心感を崩すような瞬間が映画には必ずある。だから、映画を見て、まず驚かなければならない。しかし、その驚きの末に「これに驚いた自分は間違っていない」「これが映画だ」という確信を得ることができる。その正反対のこととして、映画に癒しとか救いを求めることを徹底的に排除する。
 映画を見るということについて、蓮實独特の韜晦といってもいいまわりくどい言い方で、のべていますが、これって、ソクラテスの「無知の知」の戒めの姿勢の実践的な表現に思えてくる。本文の大部分は蓮實が独断的に、この映画はいい悪いについては、著者自身が述べているように、そんなことは気にしないで、どんどん映画を見ればいい。

 

2020年12月28日 (月)

ジャズを聴く(55)~エリック・ドルフィー「ERIC DOLPHY IN EUROPE vol.1」

 エリック・ドルフィーは、アルト・サックス、フルートそしてバス・クラリネットにおいて特徴的なスタイルをもった真のオリジナリティのあるミュージシャンだった。彼の音楽は“アヴァンギャルド”のカテゴリーに分類されたが、彼自身必ずしもコード進行による即興を放棄したわけではなかった(コードに対する彼の譜面はかなり抽象的なものだったが)。彼以外のほとんどの“フリー・ジャズ”の演奏が非常に真面目で堅苦しく聞こえるのに対して、ドルフィーのソロは、多くの場合、恍惚と熱狂をもたらした。彼の即興は非常におおきな跳躍、非音楽的で演説のようなサウンドそして彼自身のロジックを使ったものだった。彼が主として演奏したのはアルト・サックスであったが、ハード・バップ以降の最初のフルーティストであり(ジェームス・ニュートンに影響を与えた)、ソロ楽器としてバス・クラリネットをジャズではじめて使った。彼は、(コールマン・ホーキンス以降)伴奏者なしのホーン単独の演奏による録音を行った最初の演奏者の一人で、それは、アンソニー・ブラクストンの5年も前のことだった。
 エリック・ドルフィーはロサンゼルスでロイ・ポーター楽団(1948~1950)と最初のレコーディングを行い、2年間の兵役に服した後、1958年にチコ・ハミルトンのクインテットに加わるまで、ロサンゼルスで無名のプレイヤーだった。1959年にはニュー・ヨークに移り、間もなくチャーリー・ミンガスのカルテットのメンバーとなった。1960年までには、ドルフィーはプレステージ・レーベルに定期的にリーダー録音を残し、ミンガスとの仕事で注目を得るようになった。しかし、彼の短いキャリアを通じて、自身の尖鋭的な演奏スタイルのゆえに定まった仕事を得るために絶えず苦労していた。ドルフィーは、1960~1961年にファイブ・スポットでトランペットのブッカー・リトルとのセッション、オーネット・コールマンの「フリー・ジャズ」への参加及びマックス・ローチとのセッションという3枚の録音を含めて、その他ヨーロッパでの数枚などかなりのレコーディングを残した。1961年末に、ドルフィーはジョン・コルトレーン・カルテットの一員となった。彼らはヴィレッジ・ヴァンガードで保守的な批評家を前にして長大でフリーなソロの“アンチ・ジャズ”をプレイすることによって、彼らに恥をかかせようとした。1962~1963年の間、アメリカで、ドルフィーはガンサー・シェラー楽団で第3の流れの音楽をプレイし、自身のグループではめったに演奏しなかった。1964年、彼はブルーノート・レーベルで彼の古典となった『アウト・トゥ・ランチ』をレコーディングし、チャーリー・ミンガス・セクステット(The Great Concert of Charles Mingusで披露するための、おそらく最も刺激的なベーシストのバンド)とともにヨーロッパへ旅立った。彼はヨーロッパにとどまることを選んだ後、数回のギグを演ったが、糖尿病性昏睡で突然なくなり、36歳の生涯を閉じた。

 

ERIC DOLPHY IN EUROPE vol.1      1961年9月8日録音
Jazdolphy_europe1  Hi Fly
 Glad To Be Unhappy
 God Bless The Child
 Oleo
  Eric Dolphy (fl,bcl)
  Bent Axen (p)
  Chuck Israels (b)
  Erik Moseholm (b)
  Jorn Elniff (ds)
 エリック・ドルフィーがヨーロッパに渡り、現地のミュージャンと即興的にメンバーを組んでライブを行なった実況録音盤。このアルバムでは、ドルフィーのフルートとバス・クラリネットの演奏が収められていて、アルト・サックスはない(vol.2ではドルフィーのアルト・サックスが聴ける)。「At The Five Spot vol.1」のところで、リズム・セクションが規則的なビートを刻んでいると書いた。しかし、このときのメンバーは黒人のジャズの柔軟なリズム感覚が身体に染み付いている人たちだった。そこに無理が生まれ、それにドルフィーは満足できなかったのではないか。ところが、ヨーロッパの白人ミュージシャンたちは、異なる音楽的ルーツをもっていて、オーケストラのような個人が規則を遵守しないと成り立たないアンサンブルの伝統に培われている。vol.2もそうだけれど、この一連のヨーロッパでの実況盤では、メンバーは異なっているが、規則的なビートを当たり前のように厳格に刻んでいる。そこで、ほとんどが定速の4ビートだけれど、単なるビートをキープしているだけでなく、その中で様々な変化が認められる。ドルフィーのプレイ自体がビートから自由に離れているし、バックを務めるミュージシャンも誰かがビートを維持していれば、他の人はそこから離れる時もある。それらが複合されることによって、ポリリズミックな響きが、「At The Five Spot vol.1」よりも顕著に聞こえてくるのだ。さらに、このアルバムでは、ドルフィーの静の部分にも触れることができる。
 1曲目の「Hi Fly」はドルフィーのフルートとチャック・イスラエルズのベースの2人のデュオ。ドルフィーの思わせぶりなメロティフェイクによる導入部、無伴奏で、芯の太いフルートの音色が軽やかに飛翔してゆくようなフルートのソロに、ベースが後から入ってきて、リズムを刻み始め、テーマメロディとともに演奏に推進力が出てくる。 そしてアドリブパートに入っては、イマジネーション豊かに飛翔していく、まさにエリック・ドルフィーならではのフレーズが後から後から、その足場作りを黙々とこなすイスラエルズの職人気質的ベースワーク。静謐でありながら、厳格にリズムを守るベースは、一種の峻厳さというか精神性すら漂わせ(ドルフィーのフルートがあるからこそなのだが)ている。ドルフィーの楽しげに、だけど適度な緊張感を保ちながら、淡々と綴られてゆく演奏。じわじわと、静かな高揚感が内側から湧いてくる。次の「Glad To Be Unhappy」では、ピアノ・トリオをバックにドルフィーがリラックスしてフルートを吹いている。ドルフィーが優しいメロディが印象的を大切にしたテーマ演奏をフルートで、じっくり聴かせるが、優しいというよりも不気味に緊張感がある、まるで獲物を目の前にして今にも飛びかかろうと息を潜めているライオンの息吹のようなのだ。案の定、しかしアドリブパートに入ると一転、今度は激情迸る展開になる。3曲目の「God Bless The Child」から、バス・クラリネットに持ち替えて、この曲では、無伴奏の単独ソロを披露している。ドルフィーは、この曲の原曲メロディを、おそらくは、わざと出してこない。始めのうち・・・ドルフィーは、なにやら音をまさぐるように、バス・クラリネットの低音域を使ったアルペジオっぽい音階をしつこく続けてくる。そうしてある時~たぶん曲のサビの部分か・・・ここでいよいよ、高い音を吹く。これが・・・とても印象的で、それまでの低い音域でのファットな音圧感豊かな音色とは違う質感の、ちょっと歪んだような、ノドをキュ~ッと絞ったような、そんな悲痛な音色なのだ。でも・・・それが効く。静と動。抽象と具象という感じだろうか。そして最後の「Oleo」ではエキサイティングな演奏で締める。

2020年12月25日 (金)

八木雄二「ソクラテスとイエス」

11112_20201225211901  著者が教員をしている大学のゼミで学生に「ソクラテスの弁明」を読んだことがあると問うたところ、学生たちは不思議そうな顔をして首を横に振ったという。私は学生たちよりも著者の年代に近いからかもしれないが、哲学に興味を持った者に薦められる著作として、「ソクラテスの弁明」は常に、そのリストに入っていたと思う。薄い文庫本も数社からでている。だから、哲学のゼミの学生ならば、読んでいて当然と思っていた。もっとも、私の場合は、同じプラトンの著作で「饗宴」の方に惹かれたくちなので、「ソクラテスの弁明」は読んだものの、通り一遍の域を出ていない。
 著者は、ソクラテスが裁判での弁明をしなければならなくなったことで、「語り得ないこと」(ウィトゲシュタインの「語り得ぬことは語らない」を想い出してしまった)を語らざるを得ない状態に追い込まれたといい、そこで、ソクラテスは、はじめて、自らの哲学を語ろうとした。つまり、ソクラテスにとって、哲学とは語り得ぬものだったということ。そこで語られることとして、よく生きる、「善」ということは、二人称ではじめて語り得るということ、それは、彼の産婆術という対話で実践されていたわけだが、裁判の場では三人称で語るしかなかった。ここに、後のイデア論のようなプラトン以後の哲学に胚胎する矛盾を、ソクラテスは自らの死で体現することになったという。著者は、本書は、ソクラテス裁判とイエスの布教活動の共通点が、真理の語りと伝播にあると指摘する。
 哲学書の解説というよりは、裁判でのソクラテスの証言を追いかけていく叙述は、まるでギリシャ悲劇を読んでいるような感じがして、たいへん興味深かった。面白かった。

 

2020年12月22日 (火)

東浩紀「ゲンロン戦記」

11112_20201222234101  ジャック・デリダのような哲学思想やサブカルチャーを論じていた批評家が、会社を起業し、何度も経営危機に遭ったドキュメント。
 哲学というのは抽象化という無駄を排除して本質を追究することを志向するものだが、経営のような実践の場では、「何か新しいことを実現するためには、一見本質的でないことこそ本質的で、本質的なことばかり追求すると、むしろ新しいことは実現できなくなる」ということに気づく。例えば、会社では経理とか総務といった事務処理は事業そのものに対して非本質的なものに見えるが、実は会社経営の本体で、これを蔑ろにしたら会社は成り立たないし、事業を進めることもできなくなる。こんなことは、社会人には当たり前のことだが、著者はそういう常識を身を以て経験することで、自身の考え、論説を変貌させることになった。
 そのひとつの表われが「誤配」という概念で、もともとはデリダの著作で小さく触れられていたものだったもので、自分のメッセージが本来は伝わるべきでない人に間違ってしまうこと。普通に考えれば、これは事故で、リスクやノイズだ。しかし、著者は、このような誤配こそがイノベーションやクリエーションの源だという。
 例えば、マニュアル等で効率的に知識や情報を得ても、実はそれが即仕事をする、動くことに連続することからは何も生まれないし、トラブルのような事態に対処できないという。知るということは、知れば知るほど分からなくなるものもので、だからこそ知ってしまうと却って動けなることが多い。その時に必要なのが考えるということで、それは無駄な時間を必要とする。その無駄は誤配と重なる、という。

 著者は、最先端というかカタカナだらけの、ややこしい現代思想と言われるものをテリトリーとしていた。専門書は今でも読んでいるし、興味深いとは思っている。しかし、そのような専門書では何も伝わらないし、何も変わらないと感じるようになったという。哲学は知るのではなく、生きるものだ。そのためには、哲学が生きる姿を見せなければならない。これは、「無知の知」ということに重なって見える。最新の知識だろうが、人はいくら情報を与えられても、見たいものしか見ようとしない。言説ではもっともらしく思えてしまうが、生きる場では、独りよがりで、そんな自分と同じような人とつるんでいる。その時に、本人は孤独を感じることはない。しかし、実は、この状況は孤独なはず。それは、「知らないことに気づいていない」からだし、それを助長させている。それに気づくということが、哲学をいきることではないか。そのためには、例えば、見たいものしか見ようとしない人に、その人の見たいものを変えること。それを著者は啓蒙と呼ぶ。これは、私には、勉強ということも、それに重なると思う。

 

2020年12月15日 (火)

ベルナール・ビュフェ回顧展 私が生きた時代(5)

4.レアリスムの時代―名声と理想の狭間(1971~1976年)
Buffetchurch2  フランスから勲章を受けるなど、ますます名声が高まる一方で、作品傾向としては写実的な風景画の連作が始まった。外界との接触を避け、アトリエに閉じこもって制作し、これまでの表現とは全く異なるアカデミックな表現は批評家たちを驚かせた、ということです。
 「サン=ジェルマン=デ=プレ」という1971年の作品です。さっき見た「カンペールの大聖堂」と比べてみましょう。こちらはスッキリしています。しかも、建築の形態が整って見えます。これが説明されている写実的な傾向の風景画なのでしょうか。でも、たった3年の制作年度の違いですが、こちらの作品は気の抜けたような印象を受けます。絵画学校の学生が描いたような感じで、“よくできました”と言われそうだが、この作品をすすんで見たいと思うようなことはない。展覧会で展示されていても、素通りしてしまって印象に残らないような作品だと思います。
 「ペロス=ギレック」という1973年の風景画は、小ぎれいですが、別にビュフェが描かなくても、その他大勢の器用な画家が描いてもかまわないような作品に見えます。絵葉書のようでもあります。

Buffetpeross

5. 終焉―死の河を渡る(1980~1999年)
 展示の最後は晩年の作品で、写実的な傾向から、もとの作風に戻ります。おそらく、写実的な作品はウケなかったのだろうと思います。それであわてて、もともとの作風にもどった。また、写実的な作品は、ビュフェだって、その気になればマトモな伝統にしたがったデッサンとか絵画が描けるということを示した。そんなところでしょうか。しかし、私には、原点回帰なのかもしれませんが、もはや過去の作品の自己模倣のような感じがして、顧客が喜ぶ作品を制作したと思えてしまうものばかりでした。
 もともとは、線が引かれて、その結果画面に何かの形が描枯ように見えたというのが、形をなぞるように線が引かれているのがこのころの原点復帰の作品ではないかとおもいます。

 

2020年12月14日 (月)

ベルナール・ビュフェ回顧展 私が生きた時代(4)~3. 激動と表現主義の時代(1958~1970年)

 売れっ子の画家となったビュフェは結婚して、妻をモデルに多数の作品を制作したそうで、画風には多彩なモチーフ、鮮やかな色彩、より力強く激しい輪郭線、絵具の厚塗りへの移行といった変化が起こり、力強い描線によって表現主義的傾向を強めていったと説明されています。
Buffetbroadway  「ニューヨーク:ブロードウェイ」という1958年の作品です。直線をたくさん引きたいだろうビュフェにとっては、直方体で構成されて、ビルの壁面のガラスが碁盤目のようになっているのは、格好の題材ではないかと思います。画面が直線だけで作られたような作品です。このような、好きな直線をいくらでも引いていい作品であるにもかかわらず、その碁盤目という格好の対象に収まらず、そこから外れて無秩序に引かれる線が存在するというのも、ビュフェらしいと言えばそれまでのことですが、画面がスッキリとせずに薄汚れた感じになっているのは、何もニューヨークの薄汚れた雰囲気を出そうとしたとか、人の姿がないことと相まって都会の寂しさを表わそうとしたとかいうのではなくて(そういう解説が会場では書かれていたと思います)、たんに、空になっている部分にも我慢できず細い線を引いてしまって、それが汚れた感じになってしまったということだと思います。それは、同じ題材を取り扱った、モンドリアンの「ブロードウェイ・ブギウギ」のスッキリした画面と比べると一目瞭然です。モンドリアンも碁Buffetmondrian 盤目を嬉々としてキャンバスに描いていますが、ベースの白い部分がクリアなほどすっきりしていて、碁盤目の線と際立つように対立していて、緊張感が高く、それゆえにか躍動感すら感じられるような画面とは、全く違います。モンドリアンと比べて、ビュフェの作品を見ていると、せっかく碁盤目という秩序があてがわれて、そこで線を引いていればいいのに、そこから線が飛び出してしまって、秩序を壊してしまう。それが結果として画面を汚して薄汚くしてしまうのですが、それを分かっていて、敢えてやってしまうというところに、ビュフェという人の線を引く欲望のユニークなところがある。おそらく、そこが彼のオリジナリティの部分ではないかと思います。
 「ピエロの顔」という1961年の作品です。今まで見てきた作品にはなった、背景を赤く塗られているというので、この作品で、はじめて色彩ということを認識できました。ちゃんとキャンバスが絵の具で埋められて、絵画らしBuffetpiero2 くなったというか、完成したことが分かる作品です。それが、本来なら当たり前なのかもしれませんが、今まで見てきた作品は、モノクロームに近く、白地に線が引かれているというもので、しかも、無数の線が引かれているが、そのために描かれている対象の形が決まったという感じがしないで、デッサンとか下絵そのままのような画面になっていました。そのため、キャンバスに下絵がかかれていて、完成した絵画かどうか、見る者には判断がつかないような画面になっていました。それが、完成か制作中かわからない宙ぶらりんというか、キマラナイ、不安定な存在といえるものでした。この作品では、そのような不安定さの要素が薄くなり、一応、画面が塗りで埋められているので、完成した絵画らしい安定があります。それゆえ、この展覧会のポスターでもつかわれているのだろうと思います。そこで、初めて、ゆっくり描かれた画面の形を見ることができるものとなっています。そのようにして画面を見ると、ピエロを描いた作品は、以前に見た「サーカス:トロンボーンとピエロ」と比べながら見るということができます。こちらの作品は半身像のピエロだけが画面中央にあって、対象が絞られて、整理された感じがします。そして、画面全体が左右均衡の構図になっていた、安定感があります。見る者の視線はピエロの顔に集まるようになっています。そういうように導かれるように見ていくと、何となく、ピエロの哀感を想像するように誘われます。たしかに、そのように見る人も少なくないと思います。しかし、私には、そのように顔に視線を誘導されて、みえたものは無表情で、線の集まりが、一応の顔の形を呈しているというもので、何らかの内容とか感Buffetanabel 情を見たい場合には空虚さがある、というものです。この作品は、画面全体がパターンとして安定している、言いかえれば、陳腐化しているために、その空虚さが目立っている。それが見るものに、虚ろさを通り越して、何となく寂しいとか哀しいという印象を生じさせるようになっている、と思います。さすがに、人気作家となっていたビュフェは、単に画面に線を引くということだけでは終わらずに、それを画面で効果的に演出するように仕掛けていると思います。私の好みからすると、余計な装飾に見えてしまうのですが。
 「夜会服のアナベル」という1959年の作品です。妻をモデルにした作品ということですが、服のスタイル画のようです。服の素材感とか、服を着ている女性の肉体の存在感は感じられなくて、黒い直線に近い線を無数に引いている。服は線で構成されているために、面がなくて、透き通っているように見えます。だから、服を着た女性のレントゲン画像というのでしょうか、透かしてみた服を着た女性は、全部透き通ってしまって、中身は空っぽで、女性の肉体も大人の女性の柔らかさがない棒のようです。私には、このころから、彼の作品は線が無数に集まっているという要素が薄れて、その宙ぶらりんのような画面の面白さが次第になくなっていくように見えます。いわば、このころから陳腐化というか、以前に描いたものの形を、なぞるようになっていくように見えました。
Buffetfog  「小さいミミズク」という1963年の作品です。このころになると、線引いて画面になるのに都合のよい題材を見つけ出すようになります。たとえばこの作品では、みみずくの目のところで、放射状に引かれた線は、今までの作品にはなかった線の引き方です。それが、この作品では結構目立っていて、見る者の目を引く作品になっています。メスキータの「ワシミミズク」という作品と比べてみると、メスキータの作品は細部というか小さな羽が並んだ秩序が生み出す面白さがあって、秩序かみだす形に魅力があります。これに対して、ビュフェの作品は、趣向だけにとどまっていて、要領がいいという印象にとどまっている。その結果である形そして全体の画面には、面白さが及ばない。その大きな要因は、画面のデザインが思いつきにとどまっているのと、引かれる線自体が尖がらなくなっているからだと思います。一本一本の線の自己主張がなくなっMesquitafog_20201214211101 た気がします。「魚の骨」という1963年の作品もそうです。このような見方は、ネガティブと言われるかもしれませんが、私は、ここまで見てきて、ようやくビュフェの絵の魅力的な特徴に気づくことができたと思います。今見ている作品では、失われつつあるもの。失われつつあるがゆえに、これまで見てきた作品では、当たり前であったから、失われてはじめて、それと分かる。まあ、私には、見る目がないのかもしれませんが。それは、無数に、秩序があるでもないでもない、一本一本の線で、それによって画面が形成されたということです。
 「皮を剥がれた人体:頭部」という1964年の作品。このころ、ビュフェは昆虫標本のような作品を多数制作しています。昆虫の節くれだった足とか、甲羅や羽とかった身体パーツは直線的な線で描くのに向いているようにも見えるからBuffethead でしょうか。しかし、これらの作品には昆虫の形態への興味がほとんど感じられず、せっかく具象的な作品を描いていて、昆虫という素材を見つけて、こんなに雑な描き方をしているのが、もったいないというか、そういうことから、この人は対象の興味というか愛がないということが、よく分かりました。人物に対しても、同じようだということか端的に分かるのが、この作品です。人体解剖図のような題材で、皮を剥がれて筋肉がむき出しになった姿は、本来はグロテスクなはずですか(例えば、マンガあるいはアニメの「進撃の巨人」にでてくる巨人は記号化された様式ですがグロテスクです。)たんに赤が目立つ顔という作品になっています。たしかに、赤い顔ということで目立つ作品くらいにしか見えません。前の「小さなミミズク」では、鳥の無二つの目が中心から放射状に直線を引いていましたが、この作品では男の顔の眉間のあたりを中心にしてそこから放射状に直線が引かれています。それを顔の筋肉の束にかこつけて描いたということの方が優先されるように思います。この人は、人間も昆虫も同じようにえがくようです。
 Buffethead2 「カンペールの大聖堂」という1968年の作品です。直線を画面に引くのから、直線作られているような建築物は格好の素材であるはずですが、スッキリしていないというか、こういう建築物で目立つロジカルな姿というか幾何学的とも言える整った姿とは程遠くなっています。やはり、この人は物体の形態の美しさとか存在といったことには興味がないことが明らかです。とはいえ、この人の線は幾何学的な感じもしないし、勢いを感じるところもないし、一本の線自体に魅力がない。それが不思議です。たくさんの線が集まって秩序でも無秩序でもなBuffetchurch く、たくさんあるというのが、この人の線による画面の特徴だと思います。風景画で人の姿がないと説明されていますが、そんなことは、ハンマースホイやクノプフの風景画も同じで、とくに珍しいことではないと思いますが、この乱暴に描かれたような、そして、画面が汚れていてスッキリしていないところは、パリの市街を描いたユトリロなどに雰囲気が似ているところがあって、しかし、ユトリロにあるような風情がまったく感じられないというところが、この人の特徴だろうと思います。ユトリロでは街の騒音が聞こえてくるようなところがありますが、この人の作品では音を想像することはできません。

2020年12月13日 (日)

ベルナール・ビュフェ回顧展 私が生きた時代(3)~2.プロヴァンス時代―新天地での変化(1950~1957年)

 Kandinskymur1 ビュフェはパリの喧騒から逃れ南仏の農村に移り、画面には穏やかな明るい色調と明快な線の作品を描くようになったと説明されています。フランス社会も戦争の荒廃から復興し、社会も安定の方向に向かった時代背景とあわせて見られているように思えます。というのも、私には作品の基本的な色調が変わったとは思えず、変化と言えば使われる色の数が増えた程度のことにしか思えません。ビュフェは相変わらず線を引いています。作品を見ていきましょう。
Buffetromaine  「ヴェゾン=ラ=ロメーヌの眺望」という1950年の作品です。農村の鳥瞰的な風景に見えますが、直線を引いて、四角形と三角形を組み合わせたら、風景のようになってしまった。直線で囲われた図形をグレーのグラデーションで塗り分けたら斜面の畑のように見えてきた。私には、そのように見えます。まさに抽象画です。もし、仮にこの作品のタイトルを「コンポジション」としたとしたら、抽象画に見えてくるのではないでしょうか。それは、カンディンスキーが風景を描いていて、平面の形と色の組み合わせにしていった、抽象的な画面をつくっていったのとは、逆の方向性ということになります。また、平面的で、風景の奥行もないし、建物と畑の質感の違いも描き分けられているとは思えず、塗り絵のように質感の違いはありません。
Buffetsalle  「食堂」という1953年の作品を見ましょう。会場には、室内を描いた作品は数点展示されていましたが、人の姿がなくて、グレーの寒々とした色調であったことは共通しています。このような作品を見ていて、20世紀フィンランドの画家ハンマースホイの室内画を思い出しました。シンプルな構成とか、グレーを基調とした色使いに共通するところがあると思います。しかし、ハンマースホイの場合は、パースペクティブがちゃんとあって、室内の家具や器などが立体に見えるし、それぞれに存在感があります。生活感が感じられ、そこに偶々人がいないというような、画面に描かれた光景の物語とか意味を、見る者に想像させるところがあります。これに対して、ビュフェの描く室内は、実在感とか生活感が感じられず、物語を想起させることはありません。ハンマースホイにはない無機的な感じが強いと思います。
Buffetpiero  「サーカス:トロンボーンとピエロ」という1955年の作品です。慥かに、このコーナーの説明の通り、線は明確ですっきりした感じになっていますが、それはビュフェが、必ずしも、試行錯誤で迷いながら無数の線を引くことをやめたのではなく、結果として無数の線がまとまるようになったということだと思います。つまり、画家が線を引く試行錯誤に熟練して、無駄な線を引くことがなくなったということだろうと思います。だから、画面の雰囲気は以前と変わってはいないように見えました。さて、この作品ですが、ビュフェはピエロを題材にした作品を複数描いていて、この会場でも他に数点が展示されていました。それが一様に正面の姿を描いていて、どことなく道化師の孤独とか、表面は華やかだが実像は、その陰で空虚さにとらわれているというイメージの姿を描いているように見えます。それは、ある意味では定型的なパターンで、例えば、ビュフェに限らず初期のピカソにも同じような雰囲気でピエロを描いた作品があります。これまで、ビュフェの作品を見ていると、他の画家の既存の作品を連想してしまうことが少なくなかったのですが、この作品もその例に洩れません。これは、私の主観ですが、それはビュフェのBuffetpicasso 作品がどこかで見たような印象が結構あるということできないかと思います。つまり、この画家でしかありえないというオリジナルな画面のデザインではなくて、どこかで見たようなデザインであるということです。もっと言えば、既成の定型化されたパターンに乗っている。おそらく、ビュフェという人は、この作品であれば、実際のピエロを写生していて、自分なりの視点で、このようにデザインしようということはなかったように見えます。それよりも、すでにあるピエロを描くパターンに乗って描いている。というのも、ビュフェには、そんなことは考えなくて、もっと大切なことがあったということで、それは、無数の線を引くということ。たくさんの線を引くことにとらわれていると、既存のパターンに乗って、そのうえで線をひくことに集中したいという。したがって、この作品では、ピエロという題材とか、その哀感ある姿というのは、この際、たいして重要ではなくて、細部で、どれほど線が引かれ、交錯しているか。そういう作品で、これは、ほとんど抽象画といってもいい作品だろうと思います。ただし、理念とか理論とかはまったくなくて、線を引くという欲望と線に対する感覚的なセンスによってのみ成立している。この作品では、線が集まって、ピエロの輪郭の太い線を形作っている、その様子が焦点ではないかと思います。

2020年12月12日 (土)

ベルナール・ビュフェ回顧展 私が生きた時代(2)~1.画家ベルナール・ビュフェ誕生(1945~1949年)

Buffetpainter  習作時代からデビューして世に出たあたりの初期作品です。“この頃の作風は厳しい時代の雰囲気を見事に反映し、抑制された地味な色彩と鋭い線によるストイックな描写を特徴”として、あいさつで書かれている“刺すような黒く鋭い描線によるクールな描写”が典型的に当てはまるようです。ただし、1946年くらいまでは習作期で、作風が定まらず、1948年の「後ろ姿の裸婦」あたりから、上記のコメントが当てはまるような作品になってきます。
 「画家とモデル」という1948年の作品です。画面左の後ろ姿の人物はモデルでシャツを引っかけていて、下は素足が露わになっていることから、裸婦のモデルで、「後ろ姿の裸婦」で描かれたのと同じ人物かもしれません。しかし、「後ろ姿の裸婦」もそうですが、この後ろ姿の人物も、ひょろ長い、棒のような姿で、肉体のふくよかさは見られません。このような細長い、棒のような人物というと、ほぼ同じ頃に制作されたアルベルト・ジャコメッティの人物彫刻と共通しているところがあると思います。しかし、ジャコメッティの彫刻が贅肉を削ぎ落としていって、それが極限まで進んでしまって、そGiacomettithree の削ぎ落とした痕跡が露わになっていて、痛々しいほどで、そこに削ぎ落とす苦しさと、そうまでしなければならないジャコメッティの強迫観念のようなものが透けて見える迫力を感じさせるのですが、こちらのビュフェの作品には、そういう痛々しさは画面を見る限りでは明らかではありません。むしろ、削ぎ落とすというより、最初から贅肉がない、それゆえすっきりとしたところがあると思います。私には、ジャコメッティにあるような形(フォルム)を表わすことへの欲望が、ビュフェには稀薄であるように感じられました。
 「キリストの十字架降下」という1948年の作品です。宗教画で、人物の肉体がそぎ落とされた姿というと16世紀ドイツの画家グリューネヴァルトによるイーゼルハイム祭壇画を思い出します。こちらの作品は中世のゴシック末期に属しているような、様式的だが、磔刑になったイエスの痩せさらばえて肉をそぎ落とされ、傷だらけの凄惨な姿が描かれています。不条理というなら、このイエスの姿は世界の不条理をすべて背負ったような痛々しい姿で、それが見るものに迫ってきます。このような祭壇画と並べてしまうのは適切ではないのかもしれませんが、ビュフェの作品は、色調こそグレーで暗いのですが、描かれた人々の棒のような細長い身体は、むしろスマートでデザイン的な印象がします。むしろ、身体性が感じられないし、生々しい実在感がなく、祭Buffetcross 壇画が遠近法による奥行きが描かれていないのとは別の印象で平面的な画面です。夢のようなフワフワして、のっぺりとした感じです。この後の作品もそうですが、ビュフェの描く作品は具象画ということで説明されていますが、それは現実の対象をリアルに描写したというのではなくて、どこかヴェールがかけられたような画家の夢のような想像の中で描いた結果が、たまたま具象に見えたというような感じがしました。それは、この作品もそうですが、ビュフェの作品は縮小された画像でみるとスッキリした画面に見えますが、実物を間近に見ると、スッキリしてなどはいなくて、画面上に無数の線が、そのまま放置されるように残されているのです。私には、この線の在り方が、このビュフェという画家の大きな特徴であるように思えました。この作品では、画面の人物の輪郭がはっきりしていて、線画のように見えます。そのほかのはしごや十字架といった物体も、細長くてふくらみがなく立体的でもないので、線で平面に描かれたように見えます。それはそうなのですが、この輪郭が、線とは言えないのです。線は線なのですが、輪郭をかたちづくる境界を形成するようなしっかりとした線になっていないのです。どういうことかというと、画家がこういう輪郭にするというように決然として明確にスッと線を引いて伸ばしたというのではないのでOyamadagrune す。ではどうなっているのかというと、無数の細い線が、あっち向いたり、こっち向いたりしているのが集まって、遠目には、あたかも一本の線になっているように見えるのです。したがって、そのまとまりは不明瞭で、一本の線として自立していません。それは、スケッチをするときに鉛筆などで、試すように何本も線を引いて、その中から適切な線を見つけていく、その見つけた線が清書というのか、完成される作品で使われることになるのでしょうが、ビュフェの作品では、そのような試された線が、そのまま作品画面にひかれている。つまり、画面では、画家がこれだと適切な線を決めないで、おそらく決められないで、試した線を全部作品に残してしまっている。その結果、輪郭線が曖昧となって決められないでいる。そのため、描かれる人物や物体の形がはっきり決まらないでいる。それがゆえに、作品を見るものは、形があるようで、実は形が決まらないあいまいなどっちつかずのような画面を見せられることになる。それは安定しているようで、不安定ですよね。不安定であるとはっきりわかるわけでもない。安定しているか、不安定かもはっきりしない。そういう宙ぶらりんの感じがビュフェの作品には底流していると思います。それを不安とか虚無感と形容するのもいいでしょう。ただ、私には、時代の空気とか画家の性格とか言うのではなく、明らかに意図的に、計算して、このような画面をつくりだしていると思えます。
Buffetbife 「肉屋の男」という1948年の作品です。「キリストの十字架降下」とよく似た作品です。肉屋の解体した食肉が吊り下げられている姿がキリストが磔刑にあっているのと似たような形態とかは、展覧会で学術的な説明がされていましたが、そういうのは専門家の解説を参照してもらうことにして、この作品も、小さな画像でみるとスッキリしているように見えます。ここでも輪郭線が不安定なのは「キリストの十字架降下」のところで見たのとおなじです。ここでは、背景の壁に注目してください。肉屋の室内の壁ですが、たんに壁があるだけで何もありません。また、影かうつっているわけでもない。しかし、どこかスッキリしていません。少し汚れているような感じがする。これは実際の作品に近寄ってみると、無数の細い線が乱雑に引かれているのでした。わたしには、その線が何のために引かれているのか分かりませんでした。それが具象でのなんらかの形を表わすとは到底考えられません。また、影にも見えません。そこには、何らかの形を形成するような秩序が感じられませんでした。あえて言えば、単に画面を汚している。画家は線を引きたいから引いている、としか見えませんでした。肉屋の室内の壁の汚れとか、空気感とかだったら線を引くまでもなく、油絵なのですから絵の具を彩色してあげればいいわけです。そこに無秩序に線を多数の線を引いているというのは、私には、このビュフェという人は、絵を描くよりも、線を引きたい人なのではないかと思わせるに十分でした。つまり、ビュフェという人は、線を引くことを、まず行って、その結果が形となった画面となった、ということです。だから、何かを描いたという作品ではなく、線を引いていった挙句、画面が出来上がった。そのようにおもえてくるのです。結果としてできた画面に対して、何が描かれたとか、内容がどうだとかいうのは、作品を見るものが、勝手に物語を作って意味づけをしている、そのように思えました。
 しかも、だからといって、ビュフェという人は線を引く技術に長けているわけでもなく、例えば日本画は線で作られていますが、日本画の生気ある線とか官能的な線を、ビュフェは引くことができないようです。何よりも、この人は曲線を一気に引くことが下手なようです。この人は専ら、ペンで引くような無機的でまっすぐに近い線ばかり引いているようです。そういう線で形作るのに都合のいいのは、直線のような細長い棒のような人物とか、直線でつくられた物品です。私には、ビュフェの細長い人物は、ジャコメッティやグリューネヴァルトのような人の贅肉をそぎ落とした本質的な姿に迫るというのではなく、単に直線をたくさん引いて描くことができるからそうなってしまった姿というように思えます。だから、のっぺりして、人形か人間かわからないで、そういう形をしている姿としか見えないのです。人間の姿とか、こういう画面になって作品になっているというのは後付けで、もともとは直線をたくさん引いた、ということから生まれた、という方が、私には説得力が大きい。だから、線によるイラストとも違う。むしろ、抽象画といってもいいのではないでしょうか。私には、そう言ってもらった方が親しみやすいと思います。

2020年12月11日 (金)

ベルナール・ビュフェ回顧展 私が生きた時代(1)

Buffetpos  コロナ・ウィルスの流行があってから、外出するといえば近所への買い物と職場への往復くらいで、美術館はおろか都心に出向くこともなかった。美術館に行くのは、3月末の緊急事態宣言の直前に世田谷区美術館に行って以来で、約8か月ぶりになる。今日は、朝から病院で検査を受ける予定になっていて、1日休みをとっていたら、思いのほか早く終わってしまって、大分時間が空いたので、それでは、と思い切って出掛けることにした。久し振りの渋谷の街は、大きく様変わりして、道に迷ってしまった。新しくなった銀座線のホームは初めてで、スクランブル交差点にでるまで、何度も迷った。平日の昼間と言うこともあるのか、コロナ・ウィルスの流行で外出を控えている人が多いのか、いつも人で溢れているようなスクランブル交差点から道玄坂は、人影が少なく、いつも人波を掻き分けて歩くのが、今日はすいすい歩くことができた。とはいえ、美術館は、いつもと同じような混み具合、というか、この美術館で混雑に遭った経験がないので。受付で体温を測って、アルコールで手を消毒して、会場に入った。
 まずは、いつものように主催者あいさつを引用します。“20世紀後半のフランスを代表する具象画家の一人ベルナール・ビュフェ(1928~1999)。刺すような黒く鋭い描線によるクールな描写を特徴とする画風は、第二次世界大戦直後の不安と虚無感を原点とし、サルトルの実存主義やカミュの不条理の思想と呼応し一世を風靡しました。抽象絵画が主流となっていくなかで、人気作家となっていったビュフェは批判されながらも自らの道を貫きます。そして近年、パリ市立近代美術館で本格的な回顧展が開かれるなど、再評価が高まっています。疫病の不安が重くのしかかり、多くの自然災害に翻弄される今、本展は我々と共通点のある時代を生き抜いたこの画家の作品世界を、年代を追う形で「時代」という言葉をキーワードに、ベルナール・ビュフェ美術館(静岡県)が所蔵する油彩を中心とした約80作品で振り返ります。”ということで、もっともらしいことを言っているように見えるが、何のことはない、静岡県のベルナール・ビュフェ美術館のコレクションを持ってきて展示しているだけじゃないか。カタログもベルナール・ビュフェ美術館のを転用しているようだし、主催者あいさつにも、これを見せたいというものがなくて、一般にそういう評判ですというような通り一遍の文章で、引っかかるところがなかった。ということで、挨拶に書かれているような、“刺すような黒く鋭い描線によるクールな描写”、“第二次世界大戦直後の不安と虚無感を原点とし、サルトルの実存主義やカミュの不条理の思想と呼応(アンフォルメルに対する形容と同じという突っ込んでもいいんだが、あっちは抽象だし)”、“人々が戦後の喪失感から立ち直ろうとしていたその時代に、まさに時代を切り取り描いたものとして人々の共感を呼び、瞬く間に時代のアイコンとなる”といった先入見をチャラにして、作品を見ていきたいと思います。
 一応、会場では節目で見出しを着けていましたが、展示リストには、そういう章立てがされていなかったので、それほど厳密なものではないかもしれませんが、区切りがあった方が、作品を語りやすいと思うので、それに乗って生きたと思います。

2020年12月 7日 (月)

酒井健「ロマネスクとは何か─石とぶどうの精神史」

11113_20201207212601  日本の歴史を振り返ると中世は、一般に、鎌倉時代と室町時代に区切られている。表面的には、政権をとった幕府の権力交替によるものに見える。しかし、この区切りには結構意味があって、この二つの時代は性格が大きく異なる。それは、鎌倉時代というのは気候変動があって農業生産力が大きく低下した時代だったということ。日本人の平均身長が最も低かったことが分かっているが、作物が取れないので栄養が摂取できなかった。それゆえ、伝統的な秩序が維持できなくなり、武力で土地を奪い合う社会で、不安定さから宗教がたくさん興った。これに対して室町時代になると生産力が回復してくる。生産の剰余がうまれ商業が興こり、堺などの都市が生まれる。文化的には宗教よりも芸能などが生まれてくる。
 ここで、目を転じて、欧州史では、中世というのは欧州の歴史の概念だが、日本の鎌倉、室町のような明確な時代区分はない。しかし、よくよく追いかけてみると、日本史で見られた気候変動の影響は地球規模だったはずで、ちょうど日本の鎌倉時代に相当する時代は、欧州でも不作が続いていて、その前の世紀からのゲルマン民族の大移動の余燼が残り、ローマ帝国滅亡により伝統が崩壊し、安定した国家は背成立し得なかった。ローマ以来の古代都市は崩壊し、地方諸侯が土地を奪い合った。それがカロリング朝以降に国家体制が生まれ始め、ようやく各国の単位で安定しはじめると生産が回復し始める。そういう区分を、ロマネスクとゴシックという建築様式史の概念を流用して、中世の区切りを位置付けようとしたのがこの著作。ただし、この著作で主として述べられているのは、建築とそれに付随する彫刻や壁画などの美術の様式の特徴が大半なのだが、私には、むしろそういう文化的な特徴のベースとなっている社会経済的な情勢の歴史的な変化の区分が印象的だった。
 ちなみに、文化史としてのロマネスクとゴシックの象徴的な違いは、ロマネスク様式の教会は山奥や田舎に建てられているのに対して、ゴシックの大聖堂は都市に建てられている、ということ。それは、僧侶が修業するのに田舎で自給自足の方がよかった時代と、都市で寄付を募ったほうが効率的な時代の違いということになるだろう。

 

2020年12月 3日 (木)

國分功一郎「はじめてのスピノザ」

11113_20201203224501  スピノザが生きた17世紀は、現代の学問や制度の形がヨーロッパで概ね出そろった時代だと著者は言う。この前の時代、つまり16世紀は打ち続く宗教戦争で国土も人身も荒廃してしまった。その廃墟の中から、すべてを作り直そうとしたのが17世紀で、著者は思想的なインフラを整備した時代と呼ぶ。そうすると、17世紀はある意味で転換点であり、ある一つの思想的方向が選択された時代だった。その17世紀の代表的存在といえるのがデカルトで、近代思想の基礎を築き、その後のカントなどをはじめ現代に繋がる道筋をつくったといえる。
しかし、17世紀という転換期には別の方向が選択されていた可能性もあり得た、その可能性を示唆しているのがスピノザ。つまり、ありえたかもしれない、もうひとつの近代、の可能性。
 それは具体的にどういうことか。簡単に言うと、デカルトは何が真実かというと、すべてを徹底的に疑った。それが方法的懐疑で、最後に残った疑い得ないもの。それを第一真理として、そこから哲学を構築した。その際に真理の基準を打ち立てる。それが明晰判断。ここでの真理というのは、ある意味で他人を説得する機能をする真理ということになる。論争で相手の反論を封じ込めて、説得してしまう。概念という名詞を厳密に規定して、論理的な論証により、必然を重ねて、有無を言わせず、結論に至る。これに対して、スピノザは真理が真理自体の規範だという。真理と向き合えば、真理が真理であることはおのずと分かる。何か、カルト宗教の悟りみたいだが、デカルトの場合の説得ということを排しているからそう見える。この真理は真理に向き合っていない人には絶対にわからない、というもの。デカルトに言わせれば、主観的ということになる。だから、スピノザは厳密な概念で論証するのではなく、形容詞で性質や機能面を述べる。そうすると、概念は、一面では柔軟に、別の面では曖昧になる。そこで、読む人も、書かれている通りではなく、読む人自身も考えることを求める。東洋思想の悟りに通じているところもあるのではないか。それはとても興味深い。しかし、その方向に近代が行ったとしたら、想像すらできない。

 

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