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2020年12月12日 (土)

ベルナール・ビュフェ回顧展 私が生きた時代(2)~1.画家ベルナール・ビュフェ誕生(1945~1949年)

Buffetpainter  習作時代からデビューして世に出たあたりの初期作品です。“この頃の作風は厳しい時代の雰囲気を見事に反映し、抑制された地味な色彩と鋭い線によるストイックな描写を特徴”として、あいさつで書かれている“刺すような黒く鋭い描線によるクールな描写”が典型的に当てはまるようです。ただし、1946年くらいまでは習作期で、作風が定まらず、1948年の「後ろ姿の裸婦」あたりから、上記のコメントが当てはまるような作品になってきます。
 「画家とモデル」という1948年の作品です。画面左の後ろ姿の人物はモデルでシャツを引っかけていて、下は素足が露わになっていることから、裸婦のモデルで、「後ろ姿の裸婦」で描かれたのと同じ人物かもしれません。しかし、「後ろ姿の裸婦」もそうですが、この後ろ姿の人物も、ひょろ長い、棒のような姿で、肉体のふくよかさは見られません。このような細長い、棒のような人物というと、ほぼ同じ頃に制作されたアルベルト・ジャコメッティの人物彫刻と共通しているところがあると思います。しかし、ジャコメッティの彫刻が贅肉を削ぎ落としていって、それが極限まで進んでしまって、そGiacomettithree の削ぎ落とした痕跡が露わになっていて、痛々しいほどで、そこに削ぎ落とす苦しさと、そうまでしなければならないジャコメッティの強迫観念のようなものが透けて見える迫力を感じさせるのですが、こちらのビュフェの作品には、そういう痛々しさは画面を見る限りでは明らかではありません。むしろ、削ぎ落とすというより、最初から贅肉がない、それゆえすっきりとしたところがあると思います。私には、ジャコメッティにあるような形(フォルム)を表わすことへの欲望が、ビュフェには稀薄であるように感じられました。
 「キリストの十字架降下」という1948年の作品です。宗教画で、人物の肉体がそぎ落とされた姿というと16世紀ドイツの画家グリューネヴァルトによるイーゼルハイム祭壇画を思い出します。こちらの作品は中世のゴシック末期に属しているような、様式的だが、磔刑になったイエスの痩せさらばえて肉をそぎ落とされ、傷だらけの凄惨な姿が描かれています。不条理というなら、このイエスの姿は世界の不条理をすべて背負ったような痛々しい姿で、それが見るものに迫ってきます。このような祭壇画と並べてしまうのは適切ではないのかもしれませんが、ビュフェの作品は、色調こそグレーで暗いのですが、描かれた人々の棒のような細長い身体は、むしろスマートでデザイン的な印象がします。むしろ、身体性が感じられないし、生々しい実在感がなく、祭Buffetcross 壇画が遠近法による奥行きが描かれていないのとは別の印象で平面的な画面です。夢のようなフワフワして、のっぺりとした感じです。この後の作品もそうですが、ビュフェの描く作品は具象画ということで説明されていますが、それは現実の対象をリアルに描写したというのではなくて、どこかヴェールがかけられたような画家の夢のような想像の中で描いた結果が、たまたま具象に見えたというような感じがしました。それは、この作品もそうですが、ビュフェの作品は縮小された画像でみるとスッキリした画面に見えますが、実物を間近に見ると、スッキリしてなどはいなくて、画面上に無数の線が、そのまま放置されるように残されているのです。私には、この線の在り方が、このビュフェという画家の大きな特徴であるように思えました。この作品では、画面の人物の輪郭がはっきりしていて、線画のように見えます。そのほかのはしごや十字架といった物体も、細長くてふくらみがなく立体的でもないので、線で平面に描かれたように見えます。それはそうなのですが、この輪郭が、線とは言えないのです。線は線なのですが、輪郭をかたちづくる境界を形成するようなしっかりとした線になっていないのです。どういうことかというと、画家がこういう輪郭にするというように決然として明確にスッと線を引いて伸ばしたというのではないのでOyamadagrune す。ではどうなっているのかというと、無数の細い線が、あっち向いたり、こっち向いたりしているのが集まって、遠目には、あたかも一本の線になっているように見えるのです。したがって、そのまとまりは不明瞭で、一本の線として自立していません。それは、スケッチをするときに鉛筆などで、試すように何本も線を引いて、その中から適切な線を見つけていく、その見つけた線が清書というのか、完成される作品で使われることになるのでしょうが、ビュフェの作品では、そのような試された線が、そのまま作品画面にひかれている。つまり、画面では、画家がこれだと適切な線を決めないで、おそらく決められないで、試した線を全部作品に残してしまっている。その結果、輪郭線が曖昧となって決められないでいる。そのため、描かれる人物や物体の形がはっきり決まらないでいる。それがゆえに、作品を見るものは、形があるようで、実は形が決まらないあいまいなどっちつかずのような画面を見せられることになる。それは安定しているようで、不安定ですよね。不安定であるとはっきりわかるわけでもない。安定しているか、不安定かもはっきりしない。そういう宙ぶらりんの感じがビュフェの作品には底流していると思います。それを不安とか虚無感と形容するのもいいでしょう。ただ、私には、時代の空気とか画家の性格とか言うのではなく、明らかに意図的に、計算して、このような画面をつくりだしていると思えます。
Buffetbife 「肉屋の男」という1948年の作品です。「キリストの十字架降下」とよく似た作品です。肉屋の解体した食肉が吊り下げられている姿がキリストが磔刑にあっているのと似たような形態とかは、展覧会で学術的な説明がされていましたが、そういうのは専門家の解説を参照してもらうことにして、この作品も、小さな画像でみるとスッキリしているように見えます。ここでも輪郭線が不安定なのは「キリストの十字架降下」のところで見たのとおなじです。ここでは、背景の壁に注目してください。肉屋の室内の壁ですが、たんに壁があるだけで何もありません。また、影かうつっているわけでもない。しかし、どこかスッキリしていません。少し汚れているような感じがする。これは実際の作品に近寄ってみると、無数の細い線が乱雑に引かれているのでした。わたしには、その線が何のために引かれているのか分かりませんでした。それが具象でのなんらかの形を表わすとは到底考えられません。また、影にも見えません。そこには、何らかの形を形成するような秩序が感じられませんでした。あえて言えば、単に画面を汚している。画家は線を引きたいから引いている、としか見えませんでした。肉屋の室内の壁の汚れとか、空気感とかだったら線を引くまでもなく、油絵なのですから絵の具を彩色してあげればいいわけです。そこに無秩序に線を多数の線を引いているというのは、私には、このビュフェという人は、絵を描くよりも、線を引きたい人なのではないかと思わせるに十分でした。つまり、ビュフェという人は、線を引くことを、まず行って、その結果が形となった画面となった、ということです。だから、何かを描いたという作品ではなく、線を引いていった挙句、画面が出来上がった。そのようにおもえてくるのです。結果としてできた画面に対して、何が描かれたとか、内容がどうだとかいうのは、作品を見るものが、勝手に物語を作って意味づけをしている、そのように思えました。
 しかも、だからといって、ビュフェという人は線を引く技術に長けているわけでもなく、例えば日本画は線で作られていますが、日本画の生気ある線とか官能的な線を、ビュフェは引くことができないようです。何よりも、この人は曲線を一気に引くことが下手なようです。この人は専ら、ペンで引くような無機的でまっすぐに近い線ばかり引いているようです。そういう線で形作るのに都合のいいのは、直線のような細長い棒のような人物とか、直線でつくられた物品です。私には、ビュフェの細長い人物は、ジャコメッティやグリューネヴァルトのような人の贅肉をそぎ落とした本質的な姿に迫るというのではなく、単に直線をたくさん引いて描くことができるからそうなってしまった姿というように思えます。だから、のっぺりして、人形か人間かわからないで、そういう形をしている姿としか見えないのです。人間の姿とか、こういう画面になって作品になっているというのは後付けで、もともとは直線をたくさん引いた、ということから生まれた、という方が、私には説得力が大きい。だから、線によるイラストとも違う。むしろ、抽象画といってもいいのではないでしょうか。私には、そう言ってもらった方が親しみやすいと思います。

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