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2020年12月22日 (火)

東浩紀「ゲンロン戦記」

11112_20201222234101  ジャック・デリダのような哲学思想やサブカルチャーを論じていた批評家が、会社を起業し、何度も経営危機に遭ったドキュメント。
 哲学というのは抽象化という無駄を排除して本質を追究することを志向するものだが、経営のような実践の場では、「何か新しいことを実現するためには、一見本質的でないことこそ本質的で、本質的なことばかり追求すると、むしろ新しいことは実現できなくなる」ということに気づく。例えば、会社では経理とか総務といった事務処理は事業そのものに対して非本質的なものに見えるが、実は会社経営の本体で、これを蔑ろにしたら会社は成り立たないし、事業を進めることもできなくなる。こんなことは、社会人には当たり前のことだが、著者はそういう常識を身を以て経験することで、自身の考え、論説を変貌させることになった。
 そのひとつの表われが「誤配」という概念で、もともとはデリダの著作で小さく触れられていたものだったもので、自分のメッセージが本来は伝わるべきでない人に間違ってしまうこと。普通に考えれば、これは事故で、リスクやノイズだ。しかし、著者は、このような誤配こそがイノベーションやクリエーションの源だという。
 例えば、マニュアル等で効率的に知識や情報を得ても、実はそれが即仕事をする、動くことに連続することからは何も生まれないし、トラブルのような事態に対処できないという。知るということは、知れば知るほど分からなくなるものもので、だからこそ知ってしまうと却って動けなることが多い。その時に必要なのが考えるということで、それは無駄な時間を必要とする。その無駄は誤配と重なる、という。

 著者は、最先端というかカタカナだらけの、ややこしい現代思想と言われるものをテリトリーとしていた。専門書は今でも読んでいるし、興味深いとは思っている。しかし、そのような専門書では何も伝わらないし、何も変わらないと感じるようになったという。哲学は知るのではなく、生きるものだ。そのためには、哲学が生きる姿を見せなければならない。これは、「無知の知」ということに重なって見える。最新の知識だろうが、人はいくら情報を与えられても、見たいものしか見ようとしない。言説ではもっともらしく思えてしまうが、生きる場では、独りよがりで、そんな自分と同じような人とつるんでいる。その時に、本人は孤独を感じることはない。しかし、実は、この状況は孤独なはず。それは、「知らないことに気づいていない」からだし、それを助長させている。それに気づくということが、哲学をいきることではないか。そのためには、例えば、見たいものしか見ようとしない人に、その人の見たいものを変えること。それを著者は啓蒙と呼ぶ。これは、私には、勉強ということも、それに重なると思う。

 

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