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2020年12月 3日 (木)

國分功一郎「はじめてのスピノザ」

11113_20201203224501  スピノザが生きた17世紀は、現代の学問や制度の形がヨーロッパで概ね出そろった時代だと著者は言う。この前の時代、つまり16世紀は打ち続く宗教戦争で国土も人身も荒廃してしまった。その廃墟の中から、すべてを作り直そうとしたのが17世紀で、著者は思想的なインフラを整備した時代と呼ぶ。そうすると、17世紀はある意味で転換点であり、ある一つの思想的方向が選択された時代だった。その17世紀の代表的存在といえるのがデカルトで、近代思想の基礎を築き、その後のカントなどをはじめ現代に繋がる道筋をつくったといえる。
しかし、17世紀という転換期には別の方向が選択されていた可能性もあり得た、その可能性を示唆しているのがスピノザ。つまり、ありえたかもしれない、もうひとつの近代、の可能性。
 それは具体的にどういうことか。簡単に言うと、デカルトは何が真実かというと、すべてを徹底的に疑った。それが方法的懐疑で、最後に残った疑い得ないもの。それを第一真理として、そこから哲学を構築した。その際に真理の基準を打ち立てる。それが明晰判断。ここでの真理というのは、ある意味で他人を説得する機能をする真理ということになる。論争で相手の反論を封じ込めて、説得してしまう。概念という名詞を厳密に規定して、論理的な論証により、必然を重ねて、有無を言わせず、結論に至る。これに対して、スピノザは真理が真理自体の規範だという。真理と向き合えば、真理が真理であることはおのずと分かる。何か、カルト宗教の悟りみたいだが、デカルトの場合の説得ということを排しているからそう見える。この真理は真理に向き合っていない人には絶対にわからない、というもの。デカルトに言わせれば、主観的ということになる。だから、スピノザは厳密な概念で論証するのではなく、形容詞で性質や機能面を述べる。そうすると、概念は、一面では柔軟に、別の面では曖昧になる。そこで、読む人も、書かれている通りではなく、読む人自身も考えることを求める。東洋思想の悟りに通じているところもあるのではないか。それはとても興味深い。しかし、その方向に近代が行ったとしたら、想像すらできない。

 

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