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2021年1月

2021年1月27日 (水)

ジャズを聴く(58)~エリック・ドルフィー「LAST DATE」

Jazdolphy_last Epistrophy
South Street Exit
The Madrig Speaks,The Panther Walks
Hypochristmutreefuzz
You Don't Know What Love Is
Miss Ann

 

 Eric Dolphy(as,bcl,fl)
 Misja Mengelberg (p)
 Jacques Schols (b)
 Han Bennink (ds)

 

 試しに、同じドルフィーのアルバムである「OUT TO LUNCH」を聴いた後で、続けてこのアルバムを聴いてみるとどうだろう。変な形容かもしれないけれど、「OUT TO LUNCH」にある息詰まるほどの過激さは、ここでは見られず、比べると一種の穏やかさに包まれているように感じられないだろうか。ドルフィーが亡くなる数日前に録音されたという伝記的なエピソードから、死を前にした諦念とかそういったストーリーを捏造しようというわけではなく、例えば、ドルフィーの吹く楽器にについて、以前では強い音圧を絶えずかけていて終始楽器が壊れてしまいそうなほど楽器を鳴らし響かせていたのが、ここでは余裕をもってある時は息を抜くように、楽器の残響の余韻を巧みに生かすような鳴らし方をしている。また、「OUT TO LUNCH」の変拍子のオンパレードのような複合リズムで聴く者はノリが許されないようなリズムが、ここでは定速の4ビートを終始キープしているので、安心感がある。もっとも、単にビートをキープしているだけでなく、その中で様々な変化が認められ、ドルフィーのプレイ自体がビートから自由に離れているし、バックを務めるミュージシャンも誰かがビートを維持していれば、他の人はそこから離れる時もある。それらが複合されることによって、ポリリズミックな響きが売れてくる面白さが見られるのは、いかにもドルフィーらしさは失われていないのだが。
 1曲目の「Epistrophy」は、そういう穏やかさの中でとドルフィー特有の飛翔が入ってくるので、むしろドルフィーの特徴が鮮やかに際立つ。しかも、不思議と違和感を起こさせることが少なく、聴き手にスッと入り込んでくる。出だしの咆哮一発の驚きと、グロテスクで美しい、まるで異星人の鳴き声のようなアドリブ。それが、今までと違って形の力が抜けてリラックスしていて、しかも、ドラムスとベースがしっかりと4ビートを守って、あまりドルフィーを煽ったりせずにバックに徹しているので、ドルフィーが気持ちよく吹いているのが、聴く者に伝わってくる。そして、ピアノのバッキング。まったりと、どんよりと、時折、効果的なリフを繰り返すバッキングと、フリー・ジャズや現代音楽特有の調整感の希薄な和声。セロニアス・モンクを彷彿とさせる不協和音的なクラスター。黒人の弾くピアノの「粘っこい重さ」とはまた違う、メンゲルベルクの「どんよりした重さ」が、ドルフィーのバスクラをさらに効果的に彩っている。鈍重だけれども、どこかエッジも感じられる不思議なピアノなのだ。5曲目の「You Don't Know What Love Is」では、弓で弾くベースとのデュオで、ドルフィーのフルートが、ちょっとドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」の冒頭のフルートに似た半音階的なメロディーっぽいフレーズをテーマに12分にわたるソロを吹いている。それが、彼の専売特許ともいえる咆哮を思わせるようなフリーキーなトーンを、ほとんど混じえずに、フレーズで勝負して、しっとりとした美しい演奏をしている。この演奏をもって、このアルバムの白眉という人も少なくないという。最後の「Miss Ann」は、フリー・ジャズという感じではなくて、ハード・バップの中にドルフィー独特の突飛なフレーズが収まってしまっている。最後に、有名なドルフィーの独白が入るが、それについては尤もらしく論じている人が沢山いるので、それでストーリーをつくって楽しめばいいと思う。ただ、演奏が終わって拍手を短くフェイドアウトさせると尻切れトンボになってしまうので、落ち着いた声を一節いれることで、静かに終わって、余韻を残す効果が出ていると、私は思うので、何をしゃべっているかは、ほとんど気にならない。 

2021年1月21日 (木)

山本周五郎「日本婦道記」

11112_20210121211301  山本周五郎は、それ以前の落語とか人情話として扱われていた江戸町人の話を時代小説という小説にしたという、ジャンルを創設したというだけで凄い作家ではあるのだけれど、この「日本婦道記」は、そういうことを抜きにしても、すごいとしか言いようがない。これは短編の連作小説集なのだけれど、ひとつひとつの短編は解説なんかにもあるように武士の峻烈な生き方を描いて感動を誘うようなよくできた小説だ。しかし、一冊を通して読むと、それぞれの短編が、実は同じパターンの繰り返し、つまりワン・パターンであることに気が付く。若い女性が嫁入りした先で、不可解な事件に遭い、不遇となるが、それに耐えて、最後は、実はは発端の不遇な事件の謎解きがあって(夫は藩の密命でとか、友人をかばってとか、えん罪がはれてとか)ハッピーエンドというパターン。しかし、この小説集を続けて読んでいても、ワン・パターンと思わない、同じような話と思わない。それがすごい。おそらく、山本周五郎は意識して書いている。そんな実験的なことを試みた小説家を、私は彼以外に知らない。もともと山本周五郎という作家は、ストーリーをつくる人だという定評だが、この小説集ではストーリーはワン・パターンであるにもかかわらず、ストーリーテリングだけで読ませてしまう。そういう凄みを感じさせる、おそろしい小説集だと思う。

2021年1月17日 (日)

ジャズを聴く(57)~エリック・ドルフィー「OUT TO LUNCH」

Jazdolphy_out Hat And Beard
Something Sweet,Something Tender
Gazzelloni
Out To Lunch
Straight Up And Down

 

 Eric Dolphy(as,bcl,fl)
 Freddie Hubbard(tp)
 Bobby Hutcherson(vib)
 Richard Davis(b)
 Tony Williams(ds)

 

 このアルバムはスタジオ録音で、ライブ録音とは全く違ったドルフィーの可能性に触れることができる。ライブ録音と大きく違って、音楽の広がりという遠心的な方向性とは正反対の求心性が色濃く出ていると思う。ライブでは実現不可能な自己完結したような音楽空間、つまり広がっていくのではなくて閉じた世界で空間を埋め尽くそうとするような方向性で、聴く者はまるで母胎のなかの胎児のように空間に包み込まれ、外界から遮断されて、一体化させられていく。空間をシャープに切断するドラミングと、クールに鳴り響くヴァイブが特徴的なサウンドは精緻に計算されて冷静に構成されたもので、そこにドルフィーのアルトやバス・クラリネットのよじれたフレーズが乗ると、世界は「正確無比に狂った時計」のような様相を示し始めるのだ。アルバム・ジャケットのような。
 一曲目の「Hat And Beard」合計すると9拍になる複合拍子の分割バリエーションに着想を得た楽曲で、トランペット、バスクラリネット、ヴィブラホンがビックバンド風のバッキングでリズミックにアクセントをつける中、ベースとドラムによって提示される導入部は9/3拍子(3・3・3)によって、そして、テーマ部ならびにソロ中は9/4拍子(5・4)という変拍子によって演奏される。と言われても、何のことか分からないという場合は、試しに最初のところを手で拍子をとってみるといい、途中で手拍子が余ってしまうし、楽器によって違うリズムで演奏しているので、どの楽器に合わせればいいのか分からなくなってしまう。基本的にはドルフィーのソロはリズムにノッているのだけれど、細かなフェイクを入れたりして、その上を自由に飛翔しているようで、そこに独特のひねくれたような断片的なフレーズにならないようなフレーズをブチこんで、しかもアルト・サックスからは想像できないヘンテコリンな音色を出してくる。最初から歪んでいた空間が、このドルフィーのソロで、さらに歪む方向に動き始め、ボビー・ハチャーソンのヴァイブが止めを刺す。2曲目の「Something Sweet,Something Tender」は、弓で弾くベースをバックにドルフィーのソロで始まるが、半音階的な要素の入ったメロディーは20世紀初頭のクラシック音楽の難解で前衛的な曲のようだ。曲中に5/4拍子や6/4拍子が短く挿入される作曲手法、或いはテーマ-ソロ-テーマ後に短いバスクラブレイクを挟み再度テーマに戻るというイレギュラーで多彩な展開といった、一見、スローバラードなのだけれど、冷静に組み立てられている。これって、曲の構成とか、展開はフリーなのかもしれないが、演奏はフリーなの?と問いたくなるような、まるでクラシック音楽のようなキッチリとした演奏で、息が詰まりそうなほど。この後のナンバーも、変拍子のオンパレードで、しかも規則的に刻まれるので、従来のジャズの柔軟なリズムから生まれるグルーヴとかスイング感のような、思わず身体が動いてくるノリとはあまり縁のない、楽譜に設定された拍節を実体化して音楽の構築性を出現させる役割を果たしていると思う。それは、1950年ころのクラシック音楽の作曲家たちが人の感情に訴えかけるようなロマンチックな音楽に飽和して、数学の計算のような知的な構成物のような音楽をつくっていったのと、似ているような気がする。とくに、この作品は、ジャズの肉体性とか即興性を犠牲にしても、音楽をつくるとか構成することの自由さを追求していった、ある意味ドルフィーの想像の中で鳴っている音楽を可能な限り再現しようとしたものとは考えられないだろうか。このエッセンスを希釈したり、一部を抜き取って活用したのが、「At The Five Spot」といったアルバムではないと思える。

2021年1月13日 (水)

小松英雄「みそひと文字の抒情詩 古今和歌集の和歌表現を解きほぐす」

11112_20210113222201  『古今集』の編者である紀貫之は序文を仮名で書いたり(仮名序)、個人的な「土佐日記」を仮名で書いているが、それは伊達や酔狂ではなく、表現上の必然があった。高校の「古文」の教科書でも岩波文庫などでも読む『古今集』は、もともとすべて仮名で書かれていたのを、勝手に漢字を当てはめてしまった。そういう漢字混じりで誤解されてしまった『古今集』の和歌を仮名で読む(見る)ことによって、今まで見えてこなかった姿が現われてくる。平安初期に成立した仮名は、今日の平仮名と違って、清音と濁音とを書き分けない音節文字の体系であった。和歌は、その特徴を積極的に生かして作られているのだという。例えば
  かかりひの かけとなるみの わひしきは なかれてしたに もゆるなりけり
 この歌では、第四句の仮名連鎖「なかれて」に、ナガレテとナカレテとが重ねられている。第三句までは、自分の立場の侘しいことは舟の上で燃える篝火が水中に映る影と同じであって、という。第四句以下を「流れて下に燃ゆるなりけり」と読めば、篝火の影が水面の下を流れながら燃えていることの確認になるし、「泣かれて下に燃ゆるなりけり」と読めば、こっそり、人知れず泣けてきて、恋の「おも火」に燃えていることの確認になる。第二の文脈では、「篝火」と「燃ゆるなりけり」とによって、「篝火」から「おもひ」すなわち、燃えるような「思ひ」の「火」が引きだされ、表に出ない「思ひ」の火がひそかに「燃ゆるなりけり」という脈絡になっている。そうすると、この歌は、この両者の内容をともに含んだ複線的な意味内容を持っていることになる。このような仮名に特有の上のような特質を巧みに利用して形成されたのが、複線構造による多重表現が、『古今集』の和歌の特徴だという。その多重表現が例えば、内と外、虚と実、といった二面が表裏一体となった表現が31文字という短詩型におさまってしまっているという。そういう視点でみると、『古今集』のひとつひとつの和歌が、それぞれ世界観とか小宇宙といったものを隠し持っていることが見えてくる。これは、目から鱗、ホント。
 ちなみに、『万葉集』は、漢字の音を日本語の音にあてはめた万葉仮名で表記されていて、一音一字の単線的な表現で、『古今集』のような複雑さを持てなかった(だからこそ、単純な力強さ、分かり易さがある)。

 

2021年1月10日 (日)

ジャズを聴く(56)~エリック・ドルフィー「ERIC DOLPHY IN EUROPE vol.2」

Jazdolphy_europe2 Don't Blame Me
Don't Blame Me (take 2)
The Way You Look Tonight  
Miss Ann (Les) 
Laura 

 

 Eric Dolphy (as,fl)
 Bent Axen (p)
 Erik Moseholm (b)
 Jorn Elniff (ds)

 

 1曲目の「Don't Blame Me」から、定型的な4ビートをベースに、そこから付かず離れずの揺らぎをもってドルフィーのフルートがミステリアスにメロディを、クネクネ捻り、からみつくようなフレージングで吹いて、後半はグルーヴィなノリを構築していくリズム隊とコンビネーションをつくる。ドルフィーのアドリブのフレーズには飛翔があったりするのだけれど、全体としては隠し味のスパイスを利かせる雰囲気で、ハード・バップの枠を形式として尊重している演奏。よく、初心者向け鑑賞ガイド本などで「At The Five Spot vol.1」を紹介されているのを目にするが、こちらの方がフリーを聴き慣れない人には、受け容れ易いのではないか。2曲目の「The Way You Look Tonight」からアルト・サックスに持ち替える。ここからは、自由に、それこそ重力を自由に操る術を持ったアルト・サックスが縦横無尽に空間をかけめぐる。冒頭からスピード全開でパーカーばりの高速アドリブは瞬時の緩みも感じさせない緊張感と猛烈なエネルギーを発散させる。ただ、この演奏には様式性というのを感じてしまう。アメリカとは異質なヨーロッパの聴衆やメンバーに囲まれて、それまで当たり前のように考える必要もなかった音楽風土とか身体性が異なることを触覚レベルで実感したのではないか。これは、聴いている私の個人的な妄想なので、事実と誤解しないでほしい。ただ、ここには、パロディ感覚というのか、高速アドリブを繰り広げていながら、「At The Five Spot vol.1」のような熱さがなくて、冷静で、むしろ、リズム・セクションとのディスコミュニケーションを感じ、形式的に譜面をなぞるように精確なプレイを続けているように見えるのだ。3曲目の「Miss Ann (Les)」でも、冒頭から全開のスピードで飛ばしていくのだけれど。「At The Five Spot vol.1」で紹介したように、ドルフィーは決してフリージャズに与していたわけではなかったけれど、それに近いところにいたし、事実、そういうスタイルの演奏をしていた。この「フリー」については「At The Five Spot vol.1」で触れたが、それが異質な文化のヨーロッパに来れば、無調のゲンダイオンガクがすでに存在し、セリーという規則までつくられている。ジャズそのものは関係ないかもしれないが、ヨーロッパではドルフィーの演っていることが必ずしも「フリー」でないことに気づいたはずだ。むしろ、アメリカにいたときはそこから抜け出そうとしたバップの方が、ヨーロッパでは新鮮に採られた可能性もあるとおもう。そこで、ドルフィーは自らのプレイに少し距離を置こうとしたように、私には見える。「At The Five Spot vol.1」にあった熱さが、ここではあまり感じられなくて、冷静さが目立つのはそれゆえではないか。ある意味、ヨーロッパという他者と出会って、ドルフィーは自身のフレーズをひとつひとつ確認しているように、ここでは見える。4曲目の「Laura」では、だから、ドルフィーのアルト・サックスが単独で複雑なラセン状の曲線を描くような、単に発散・放射するのではなくて、自身にフィードバックして回帰してくるような音楽をやろうとしたフレーズにように聞こえるのだ。それが、彼の早すぎる晩年に穏やかな音楽になっていく機縁が、このあたりの演奏で聴けるのではないか、少なくとも最初の『OUT TO LUNCH』の自己完結した世界をつくって、他のジャズとの境界を閉めてしまうようなところから、ここで扉を開くきっかけのひとつがあった、と私は勝手に想像している。

 

2021年1月 4日 (月)

城定秀夫監督の映画『アルプススタンドのはしの方』の感想

11112_20210104195801 高校演劇大会でグランプリをとった原作を見て感心したことがあったので、試しに見てみた。あまりにワンショット・シチュエィションの舞台演劇的な作品だったので、これは映画にはならないだろうと、たいして期待していななかったが、その期待をいい意味で裏切られた佳品で、思わぬ収穫だった。
 舞台はタイトルの通り高校野球の応援席の端っこの目だだぬところで4人の生徒。そんなところで観戦しているような生徒だから、熱心な応援をするわけでもない。二人の演劇部女子。当然、野球に関する知識も興味もゼロ。犠牲フライも知らなければ、グラウンド整備も知らない。そこに元野球部の男子生徒が加わり、その三人を少し離れて優等生の委員長が見ている。最初は、二人の女子に男子が野球を教える頓珍漢な会話がギャグとなって笑いを誘う。そんな演劇部の女子ふたりが、はじめは興味のなかった野球に徐々に肩入れしていく様子が、高校湯球の熱さに引き込まれていく様子が、観客の感情移入を誘う。
 高校に入れば、自分より才能があって、輝いている人にいくらでも遭遇する。今まさにマウンドに立っている「園田くん」もそのひとり。でも、その「園田くん」でさえ強豪である対戦校の「松永くん」にはかなわない。そんな構図と、去年の近畿大会をインフルエンザで棄権した演劇部女子のやりきれなさが、徐々に重なり合ってくる。そして、「園田くん」に勝てない負い目から野球部を辞めた彼は、今、ここにいる。一方、どんなに才能がなくても決して諦めなかった「矢野くん」は、ついに試合の終盤で初めて出場のチャンスを掴んだ。ただし、園田くんも矢野くんも画面には登場しない。
 一方、トップであることが存在価値のように思っていた委員長は、テストで失敗し順位を下げて失意にいた。
 諦めた人と、諦めなかった人。
 スポットライトを浴びる人と、アルプススタンドのはじの方でそれをただ見ている4人。
 「矢野くん」は送りバントを指示されて…
 何者にでもなれると夢見るには、もういろんなことを知りはじめて、でも「しょうがない」とすべてを諦められるほどまだ老成してはいない。その4人の中途半端さのリアルさが、大袈裟な誇張もなく、坦々と演じられるのだが、目が離せなくなって、
 甲子園を舞台にした映画なのに野球の場面が全くなくて、観客席の端の場面だけで展開する。その限定された場面で豊かな映画的な動きや映画的空間が、感動を生んでいく。例えば、4人の登場人物の座り位置、立ち位置を彼らの感情のフェーズが変わる度に入れ替え、画面内で出し入れし、最初はバラバラで、通路を挟んで遠慮がちに座っていたりする。それが、感情がひとつひと通って近づいていくたびに、位置がひとつずつ近づいていく。それがクライマックスでは一列に並ばせ、4人が感情を爆発させ、そこで「しょうがない」というあきらめで嵌めていた箍をぶち破る。

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