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2021年2月 7日 (日)

大野ロベルト「紀貫之 文学と文化の底流を求めて」

11112_20210207180701  紀貫之は、平安時代中期の歌人で、遣唐使を止めて国風文化が興隆するなかで編纂された「古今和歌集」の撰者の中心的存在。日記文学のさきがけとなる「土佐日記」の作者でもある。その土佐日記の内容の中で、赴任先の土佐で娘を亡くし、その哀しみを抱えて都に帰った(土佐日記は、貫之本人の日記ではなく、その内容は必ずしも彼自身の経験した事実とは限らない。したがって、娘を亡くしたことは事実とは言えないという)という記述から、その物語が伝記として語られ、そういう面に焦点が当てられることが多かった。
 この著作では平安時代に生きた歌人の姿ではなく、彼が残した多数の和歌から、言葉の中に転生した彼の「影」を追い求める。しかも、個々の和歌を個々に分析するのではなく、「古今和歌集」やその他の貫之の歌が採録された和歌集での歌の配列からも読み取ろうとしている。例えば、ある和歌で使われる言葉の意味は異なる和歌ではどのように用いられているかを知らないと、重層的な意味は分からない。同じ言葉を使った和歌が並んで配置され、その内容の対比関係で、言葉の意味のニュアンスが変化してくることもある。中には、繰り返し引用されたりして、その場合には、引用元の和歌の内容が反映させられることもある。そのようにした、多数ある貫之の和歌を丹念に見て行って、紀貫之という歌人のイメージが、時代の諸相でどのように認識されていったかを分析している。これは、膨大な貫之の和歌を丹念に追いかけて、そこから共通のイメージを抽出させるという作業を根気よく行った労力には、自然に頭が下がる。それは著作を読めば一目瞭然だ。紀貫之は「古今和歌集」で仮名序という序文を単独執筆し、そこで和歌とは何かという和歌論を展開しているが、それが和歌の定義となって、後のあり方を決めてしまった。彼の死語、いくつもの勅撰和歌集が編纂されていくが、それは彼の作業を範として行われていく。そこで、彼の行った和歌の定義や彼の詠んだ和歌は正典として権威となっていった。実は、彼の生きていた当時の歌作は和歌の黎明期でもあり、けっこう過激な試みもしていた(おんなもすなる仮名で作った「土佐日記」はその最たる例だ)が、彼の死語には古典に祀り上げられ、権威となってしまった。
 ここで取り上げられている貫之の和歌をひとつひとつの分析を読んでいるだけでも面白いが、それらが並べられると、物語を作り出し、紀貫之という歌人像を形成させていくプロセスを追いかけるのはスリリングでもあった。本の分厚さもかなりのものだが、読んでいてボリュームたっぷりの著作。

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