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2021年2月14日 (日)

ジャズを聴く(59)~ドン・フリードマン「サークルワルツ」

Jazfriedman_circle  このアルバムを一聴すれば、当時のジャズのアルバムでよく弾かれていたピアノのスタイルと明らかに一線を画していることは分かる。
      CIRCLE WALTZ    1962年5月14日録音
 Circle Waltz
 Sea's Breeze
 I Hear A Rhapsody
 In Your Own Sweet Way
 Loves Parting
 So in Love
 Modes Pivoting
  Don Friedman (p)
  Chuck Israels (b)
  Pete La Roca (ds) 

 ジャズという音楽でのピアノという楽器の位置づけはリズム・セクションを形成しているという性格があって、クラシック音楽に比べると打楽器という側面が強かった。そのせいもあってか、ジャズのピアニストは、クラシックのピアニストに比べると、音が立ち上がりがストレートで、いわゆる立っている感じが強い。とくにフォルテでの音のスッキリしたクリアな音は、その決然としたアタックによるものか、クラシックのピアニストは通常出せないような音色を持っているピアニストが多かった。それもあるのか、ジャズのピアニストは、クラシックのピアニストと違って音の強弱をグラデーションのように使い分けることよりも、フォルテのクリアな音の一本勝負の人が多い。とくに管楽器のバックでリズム・セクションにいるときは、ほとんどがそうだろうと思う。ところが、ドン・フリードマンの、このアルバムを聴いていると、フリードマンは弱音主体でピアノを弾いている。そこに、彼のピアノ演奏の特徴があり、それがこのアルバムでは彼のユニークさを際立たせている。
 ジャズという音楽の大きな特徴として、即興性の重視ということが挙げられると思う。クラシック音楽のような予め楽譜に書かれていることを忠実に再現するというのではなくて、プレイヤー(演奏者)が、その名のとおりプレイ(遊び)するように、その場で音と戯れ、音楽を即興的に生み出していく、聴衆の見ている前で創造してしまうところを重視する。バド・パウエルやセロニアス・モンクといったジャズのピアニストは、ライブ演奏でも、録音でも、その場で音楽が誕生するという感動的な瞬間をたしかに作り出していた。それがジャズの演奏の新鮮さとか生々しい迫力に繋がっている。しかし、そのように即興的に、その場で演奏を創造することに力を傾ければ、そこに先がどうなるか分からないスリルが高い緊張感を生んでいたが、その反面で先が見えないその場限りになるおそれがある。したがって、演奏者は、つねにその時のベストプレイをすることになる。だから、どうしても声高になるきらいがあり、音が大きくなっていく傾向がある。一旦、退くように音の出し惜しみをして小さくしてしまえば、そこで緊張が後退してしまうおそれがある。
 そこで、ドン・フリードマンというピアニストが弱音で演奏するということが、このような傾向に対するアンチ・テーゼと言えるほどのユニークさを持ち得る可能性があるわけだ。弱音でピアノを弾いて聴かせるためには、パウエルやモンクのようにその場で音楽が生まれるという即興性で勝負するわけにはいかない。弱音という退きの要素を聴衆に聴いてもらうためには、一瞬一瞬に目が離せないという行き方ではなくて、ある程度安心して聴き所に注目するような態度をさせる、いわばメリハリをとらせる必要がある。そのためには、演奏が全体としてのプロポーションを見通した上で、聴きどころに注目してもらう、そのような演奏をする必要がある。そこでは、ジャズの大きな特徴である即興性をある程度犠牲にしなければならない。
 他方、ピアノが弱音で演奏しているところ、他のベースやドラムスが自己主張して大きな音を出してしまえば、ピアノの音は埋もれてしまう。したがって、ベースやドラムスもピアノに合わせて、全体としてのアンサンブルの響きを考えていくことが求められる。フリードマンの演奏では、ピアノを含めてプレイヤー個人がソロとして突出することになるとアンサンブルのバランスが崩れてしまい弱音での演奏が聞こえてこなくなってしまうので、バランスを重視する。たとえば、ピアノの響きはピアノと他の楽器の音が融合したサウンド、つまり、ベースとドラムスによるリズムとサウンドのなかから、その響きを通してピアノの音が聴こえて来るという感じになる。それは、クラシック音楽の室内楽の響き方に近い性格のものだと思う。
 その点で弱音も使うビル・エヴァンズと似ていると言われてしまっているひとつの原因となっていると思う。ただ、思うに、このアルバムではフリードマンが意図した以上に評価されてしまって、結局、爾後の彼の音楽を縛ることになって、この後の彼のスタイルがさらに展開されるはずであった可能性への障害となってしまった感もある。
 最初の「Circle Waltz」はアルバム・タイトルでもある、フリードマンのオリジナル曲。ピアノによるテーマが演奏される。それほど美しいとか印象的なメロディではないけれど、このテーマはベートーヴェンの交響曲の動機のように素材として、その後の操作により劇的になったり優美になったりという変化をしていくものになっていると思う。曲全体をとおして、このテーマが途中でも度々聴こえて来る。ジャズの演奏では最初にテーマが呈示されてアドリブに入ると、テーマはどこかに行ってしまって、最後に忘れた頃に戻ってきて演奏が終わるということがよくある。これに対して、フリードマンの演奏は、アドリブの部分に移ってもテーマが反芻され、そこでテーマに色づけがされて、それは繊細さというイメージの比重が大きいのだけれど、アドリブが展開されていくにつれて、テーマが段々と印象を重ねられるような構造になっている。そのような素材としては、このテーマはよくできていると思う。あらかじめ計算され設計されているような性格のものと思う。私の個人的な想像だけれど、ジャズの先端的な傾向は、ビバップやハードバップのコードをベースにした即興から、モード奏法とかその後のフリーといった即興に対する規制を外して自由に即興することを目指していったところにあると思う。これに対して、フリードマンの場合は予め即興の方向を設計するという、敢えて規制していく方向で、演奏のスリルや瑞々しさの代わりに、全体としてまとまりにより、聴き手がリラックスして聴くことができることを選択したのではないかと思う。
 これは演奏の時間的な構造の特徴とすると、空間的な特徴してピアノの演奏が独立していないように思える点があげられる。いわば、他のベースやドラムスに寄りかかっていて、アンサンブルの中で、はじめて生きてくる、つまり、ピアノ単独でフレーズを聴くのは、どこかもの足りなさが残り、ベースのコード伴奏やドラムスによるリズムの刻みによるメリハリが付加されたまとまりとなるとフレーズとして活きてくると思えるのだ。この点で、ピル・エヴァンズのような、ピアノやベースがそれぞれに自立したフレーズを作り出して、それぞれによる二つの別々のフレーズの掛け合いやバトルが高い緊張やドラマを生むということはない。その代わりに、フリードマンのトリオのフレーズにはアンサンブルから生み出される響きの重層性や単独の楽器のキャパでは生み出せないサウンドの厚みがある。
 そして、このテーマがメロディアスでないことに端的に表われていると思うが、フリードマンの繰り出すフレーズはメロディアスな要素が少なく、ほとんど歌わない。それが似ていると言われているビル・エヴァンズとの違いのひとつと言える。つまり、フリードマンの演奏は繊細だけれどリリカルとかセンチメンタルといった要素がほとんどない。フリードマンの繊細さというのは、サウンドの響き、クリスタルのような硬質でクリアなピアノの音で、弱音を駆使して、それを最大限に生かす演奏をするところにある。後年のことになるが、フリードマンがフリー・ジャズを志向して、それっぽいアルバムを残していたり、新感覚派のセッションに参加して、サイドで結構アグレッシブな演奏をしている遠因は、この辺りにあるのではないかと想像させられる。そして、ピル・エヴァンズにはそのような活動への参加はなかったと思う。とくに、エヴァンズとの大きな違いは音の重ね方にあると思う。エヴァンズはコードこそユニークなコード進行による響きを印象付けるけれど、基本的にはメロディ志向のピアニストなので、ブロックコードとリズムを刻む場合は別として、あまり音を重ねようとしないが、逆にフリードマンはメロディを歌わせるところがすくなく、コード変化によって響きの繊細な移り行きを聴かせる志向があるようで、この「Circle Waltz」という曲は彼のオリジナルであるだけに、そういう響きを生かすようにつくられていると思う。最初に述べたようにテーマは、これらのフリードマンの特徴的な演奏によっていじり易い素材としてつくられている。たいへん人工的な演奏で、自然な暖かみとは正反対の曲にいるようなフリードマンの特徴をよく生かしている曲、演奏になっている。
 フリードマンのサウンド特徴が集中的に表われているのが「So in Love」というコール・ポーター作曲のスタンダード・ナンバーの演奏。ソロ・ピアノで他の楽器が入ってこないためか、アルバム中の他の演奏に比べ弱音がさらに多用されて、音の重ね方についても微妙に重ね方をズラしたりといった工夫を駆使して響きのヴァリエーションを多彩にして、一見、繊細なのだけれど、じつは響きの点で攻めの演奏をしている。

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