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2021年3月11日 (木)

小田部胤久「美学」

11112_20210311215801  「美学」っていうけれど、実のところはカントの『判断力批判』を美の認識の分析として読み解いた著作。私にとってカントの分かりにくさというのは、部分的には偏執的なほど詳細に分析して、くどくて呆れてしまうほど丁寧に叙述しているのに、その部分から別の部分に移るときに、その移行がまるで跳躍しているかのように、移行のつながりが掴めず、別の部分での執拗に細かい分析が始まる。そのため、読んでいても木の葉の一枚を虫眼鏡で見せられて、隣の葉が突然視野に入ってびっくりするといった感じで、それて樹全体が掴めないのはもとより、森全体を見渡すことは当初から放棄されている。それで、よんでいるうちに苛々してきて、途中で執拗な細部に辟易し、投げ出してしまう。そういうカントを、この著作では、詳細な分析のあらすじを物語り、そして『判断力批判』というタイトルにちなんでかどうか分からないが、カントに先立つ美学理論と比べて、こういう先人を批判してカントはこういう議論をするようになったという説明を加えている。そのため、各部分については辟易することなく、こういうことを言っているというのを読むことができる。
 しかし、葉と葉の関係と樹の全体像は依然として跳躍のままで、例えば、美を認識するというプロセスをこういう特徴があると細かく説明しているのだが、そうでない認識をするときがあって、人が美の認識とそうでなない認識を使い分ける切り替えはどのようにするのかは分からない。例えば、学校の始業のチャイムを時報として聞くが、チャイムにはひとつの節回しがあるが、それを音楽と聴くことはない、その分かれ目はどこにあるのか。カントの議論を読んでいると、こういう認識をしているのが美だという、つまり同語反復ではないかと言うことになりかねない。その出口は、この著作では示されていなかった。というよりは、私が中途半端にしか読めず、ちゃんと読みこなすことか出来ていないからなんだろうけれど。

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