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2021年4月27日 (火)

山本芳久「世界は善に満ちている:トマス・アクィナス哲学講義」

11112_20210427222601  学校の世界史や授業では、ギリシャ・ローマの古代世界からルネサンスからの近代に跳んで、間を端折ってしまう。同じように倫社では古代ギリシャをやって、デカルト以降の近代思想に移る。共通しているのは中世を無視していることだ。しかし、哲学の世界では20世紀になるまで大学のメインの講座は中世のスコラ哲学で占められていたという。そのスコラ哲学のスーパースターがトマス・アクィナス。彼の主著のひとつ「神学大全」は創文社版の邦訳で全45巻にわたる。その巨大な体系のほんの一部、感情論にトマスの特徴がよく表われていると著者は言う。
 感情とは、ヨーロッパ言語ではPASSION。熱情とか激情とか訳されることが多いが、別の意味として受難というのもある。つまり受け身ということで、感情とは人が対象から受けたことへの反応を指す。例えば、悲しいというのは、日本語では悲しむという自発的なニュアンスがあるが、ヨーロッパ系言語では、悲しませる事に直面したときに引き起こさせられるというニュアンス。だから、感情というのは人の心情という見えないものではなく、対象とそれとの人の関係という外形的なもので、観察し分析することが可能になるという。
 トマスによると、11の基本感情は、「欲望的な感情」と「気概的な感情」とに大別される。「気概的な感情」は、善の獲得または悪の回避に困難が伴う場面で発現してくる感情である。それに対して、「欲望的な感情」の場合には、困難が伴う否かは、どちらでもよく、関心の焦点とはならない。困難が伴おうが伴うまいが、ともなく魅力的なものへと接近し、有害なものや状況から遠ざかろうとする心の動きが「欲望的な感情」と言われている。
 感情の第一の対は「愛」と「憎しみ」である。愛は善との「共鳴」を意味し、それに対して憎しみは悪との「不共鳴」を意味している。ここで注意しなければならないのは、「善」という言葉で意味されているのは、単なる「道徳的善」に限定されているのではなく、「有益的善」─役に立つという意味で善いもの─や「快楽的善」─喜びを与えるとの意味で善いもの─を含む広い意味での善であり、「価値」と言い換えてもいいような概念だという事実である。たとえば、人を愛するとき、人柄が善いから愛する場合(道徳的善)もあれば、役に立ってくれる人だから愛する場合(有益的善)もあれば、一緒にいると楽しいから愛する場合(快楽的善)もある。いずれにしても、愛は、魅力的な「善」に心を動かされることによって生じてくる「好感=気に入ること」を意味しており、それは価値ある対象との「共鳴」とも言い換えられる。このような「善」という言葉の意味について、日本語で考えてみても、「よい」という言葉が道徳的な意味で使用される場合は、必ずしも多くはない。トマスは、価値のあるもの、魅力あるもの全般を「善」という言葉で意味しており、そうした広い意味での「善」が「愛」の抱かれる対象だと述べている。だから、日本語の愛するという、恋愛とか愛情というのとは少し違う。例えば、金目当ての恋愛感情のない結婚とは言うけれど、経済的に生活が豊かになるということは有益であり、それは有益的善ということになり、その善と共鳴するのだから愛だということになる。総じていえば、人の生を肯定的に受け容れるということが愛といってもいい。つまり、存在を肯定するということだという。
 それに対して憎しみは、魅力的な善との関係を脅かす悪との「不共鳴」と定義される。それゆえ愛と憎しみは同じ平面で対立しているのではなく、常に愛が憎しみに先行している。何らかの善を愛しているからこそ、それを脅かす悪に対して憎しみが生じてくるという構造になっている。ここにおいて我々は既に、トマス感情論における肯定的な方向の優位を見出すことができる。愛(肯定的な感情)と憎しみ(否定的な感情)という対を成す感情に関して、愛は憎しみなしにも存在しうるが、憎しみは常に何らかの愛を前提にする。
 そういうわけだから、愛というのは全ての感情の基礎ということになるという。例えば、愛を得るということは喜びになるし、得られないのは悲しみになる。これらのことから、愛という存在の工程をベースに人間の感情というのはできている。そういう存在の捉え方、それがトマスという知の巨人の対象に対する基本姿勢として貫かれているという。
 「神学大全」はタイトルの通り、キリスト教神学がメインであり、日本人には敷居が高く、入りにくいが、著者のような切り口は、比較的入り易いと思う。叙述もスコラ哲学の論証の書き方でなく、プラトンのような対話編の形式で書かれていて、読みやすい。

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