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2021年4月22日 (木)

田中純「デヴィッド・ボウイ 無を歌った男」

11112_20210422205601  オタクとかマニアとか称して趣味的なものに熱中する人が、例えば、ガンダムというアニメーション作品が好きたというのに、フィギアとかグッズを沢山集めて多額の金を使ったり、部屋を溢れさせたりするのを、肝心の作品をもっと熱心に見ないのかと、文句を言いたくなってしまうのは、余計なお節介だが、この本は大判2段組みで640ページ、細かい字でびっしり、ボウイの楽曲について、どのような内容で、それを著者は、どのように聴いて、どのように意味づけているが書かれている。この個々の楽曲の説明が積み上がって、ボウイという表現者は、こういうのを表現しようとしたかがイメージできるようになっている。それは、ロックを愛しながら、それに固まってしまうことはロック的でないとして、ロック的なスタイルから外れようとしたというメタレベルに姿勢を貫いた。つまりロックのスタイルから脱け出ることがロックだったということ。これは、作品を飽きるほど繰り返し聴いて、そのことばかり考え続けるでもしないと書けないと思う。説明の記述は具体的なのだ。一般的な音楽の記述にありがちな、感情的な形容詞で抽象的に語ることは一切していない。例えば、美しいとか過激だとか。あるいは、歌詞を引用して、若者の怒りを代弁しているといった陳腐な定型は見られない。たしかに歌詞にも注目しているが、それはがボウイの歌い方によって歌詞の聞こえ方がこうなって、聴き手には、このような意味づけられるように捉えられるという記述になっている。例えば、この本のタイトルになっている「無を歌う」ということ、英文で「Nothing is …」というは、普通は「…は何もない」と訳すのだが、ボウイの歌から聞こえてくるのは「無がある」と訳せざるをえないとかんじさせてしまう。そういう効果をどのように作り出すかを分析するように記述している。私は、ボウイの熱狂的なファンというわけではなく、「ヒーローズ」というアルバムまでで、そのあとのボウイには興味を失くして聴かなくなってしまったものだが、この本を読んでいると音楽が聞こえてくるし、実際の音楽を聴きたくなる。それが好きなものを愛するということの表われだと思う。私も、好きなものについて、このように語りたいと思う。
 思春期とか悩み多き青年とかいうのが常套句になっているけれど、アリエスが「子供の誕生」で指摘したように、子供とか青年というのは、一方で大人という存在が確立していて、それに達しない未熟な半人前という、大人の否定形でしか認識されていなかった。それらを固有の存在として位置付けれたのは近代になってからで、20世紀の大衆社会になって、大量生産によるマスプロ消費の対象として注目されるようになったのは、第二次世界大戦の経済復興から経済成長が達成された後のことだと思う。その時に消費欲が充たされて大人に代わって新たな購買層として青年が独自の消費文化を生みだした。大人には未熟な青年が、それゆえに大人とは違う傾向の商品を消費する。そこで産業界は新たな市場を作り出した。その一つが青年向けのポピュラー音楽、例えばロック・ミュージックだろうと思う。その特徴として、未熟な青年と共通して、完成された作品よりも、未熟ではあっても表現衝動と直結したところが優先された。つまり、未熟な存在が未熟なものを求めたということになる。だから、ロックの楽曲は歌詞も曲の構造も単純なものが多い。ただ、そこに愛したいという欲望や怒りだとかといった衝動に近い感情がそのまま演奏をつくっていた。それは、ある意味では、未熟が成熟に向かっていく過渡期のみに存在することを可能にしたはかないものといえた。だからこそ、希少性という価値が生まれたと言える。これは、譬えて言えば、笠井潔が『テロルの現象学』で述べたような、革命という非日常の限界状況ではじめて、社会や日常といった制約から解放された人間の本来的な生の輝きを想わせるものだろうと思う。パリ・コミューンのバリケードの瓦礫の中で19歳のアルチュール・ランボーが「地獄の季節」を書き上げ、その後、2度と詩を書くことなく、アフリカに渡り商人となって後半生を過ごしたように。しかし、その反面、衝動などと言うものは、鬱積して、ため込んでいれば先鋭なものとなるが、発散してしまえば、それでおしまいであとは空っぽになる。実際のところ、ロックを演奏するミュージシャンたちは、最初は衝動のままにパワフルな音楽を作っていたが、しだいに音楽がそれなりに完成していくことになると、未熟という希少性を失い、衝動を発散して空っぽになってしまうことが多かった。だから、彼らのほとんどはデビュー曲が最高で、そのあと尻すぼみとなってしまった。その中でも、完成した音楽でも聴き手を満足させられた者や頭が良くて上手に立ち回った者たちは、生き残ったが、それは最初の衝動とは別人の姿となっていた。そこで、衝動の輝きを失なわないためにはどうしたらいいか、ということに挑戦しようとした人かいた。その一人として、デヴィッド・ボウイという人の名前が真っ先に思い浮かぶ。ただボウイのそういう姿勢は、もともと何も失うものがないからこそ衝動を発散することができたものが、そういうことに価値があるとして守るものにしてしまったという大きな矛盾を孕むものだったと思う。それゆえに、ボウイのやったことはゴールを目の前にして迂回を繰り返すような面倒くさいもので、どこか奥歯にものの挟まったようなまどろっこしいものになってしまっていたと、と私には感じられた。しかし、それだからこそ、無視することはできないもの、とこか気にせざるを得ないものだった。  ロックン・ロールとリズム&ブルースの違いはどこにあるのか説明できるだろうか。嘘か真か、白人のエルヴィス・プレスリーのレコードをリズム&ブルースとしてしまうと、黒人の音楽だから白人のレコード店で売ることはできないから、白人向けに売るためにロックン・ロールというジャンルを設けたという。それほど、白人の青少年の購買が期待できたということ。ロックという音楽は、単にリズム&ブルースを若い白人の青少年が歌ったことかに始まる。つまり、新たに創ったのではなく、すでにあった音楽の形を、そのまま演ったというもの。例えば、ビートルズやーリング・ストーンズのファースト・アルバムの収録曲は、シングルで発売されたオリジナル曲以外はコピーといって他人がすでに演っていたリズム&ブルースを単に彼らが演ったというだけのものだった。既存の曲を演るといってもジャズのスタンダードナンバーなどとは違う。ジャズの場合は、既存の他人の曲を取り上げても、それにどのようなアドリブを加えるかというオリジナリティーが大切で、そこに形つくるという創造の要素がある。これに対して、ロックのコピーは、言葉の通り、写す。ロックという音楽は、音楽の形式を創るということが、志向されていなかったという面がある。それが、衝動と関わっている。愛でも怒りでも突発的に湧き上がってくる衝動を音楽の形に創り上げ、整えている暇はない。そんな悠長に時間をかけていたら興奮は冷めてしまう。そんなに待っていられないから、取りあえず、その衝動を盛る器を手近なものでぶちまけてしまう。そのときに手近な器として手に取ったのがリズム&ブルースあるいはロックン・ロール。それは、作り手の側だけでなく、受け手であるリスナーもある意味陳腐なパターンで提供されると親しみ易い。だから、ロックという音楽には、もともと音楽をつくるという創造性はなかった。実際に、ビートルズなんかが典型的なんだけれど、はじめは衝動を吐露するような音楽を演っていた(だから、不良とか反抗的とか言われた)のが、「サージャント・ペッパーズ…」以降のアルバムで音楽的な幅を広げたり、複雑な構成にしたりと形式的な充実を志向すると、初期のファンからは、日和ったとか心を失ったと批判されることが起こった。そのようなことは、ビッグ・ネームとなったバンドでは、皆そんな目に遭っている。

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