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2021年4月 1日 (木)

ジャズを聴く(60)~ドン・フリードマン「Metamorphosis」

 ドン・フリードマンのリーダー録音としては5作目に当たり、フリー・ジャズっぽい行き方に接近したものとなっている。「CIRCLE WALTZ」とは印象が異なるが、フリードマンが他のミュージシャンのリーダー・アルバムにサイドメンとして参加した、例えばジョー・ヘンダーソンの「テトラゴン」やブッカー・リトルの「アウトフロント」でのプレイは、このアルバムでの演奏の方が通じているように思える。このアルバムでは、ピアノ・トリオにギターが加わったカルテット編成で、ピアノとギターがユニゾンでメロディを演奏するという変わった響きから、ソロが分岐するように派生していくところにサウンド面での特徴があると思う。そこでは、「CIRCLE WALTZ」で目立っていたピアノの弱音による繊細な響きを打ち消してしまうところもあって、「CIRCLE WALTZ」からフリードマンを聴き始めた人は、違和感を持つかもしれない。しかし、このアルバムを聴くと、決してフリードマンがピル・エヴァンズの真似で「CIRCLE WALTZ」を演ったのではないことを、間接的にでも分かるだろうと思う。
Jazfriedman_metamorphsis Metamorphosis      1966年2月22日録音
 Wakin' Up
 Spring Sign
 Drive
 Extension
 Troubadours Groovedour
 Dream Bells
   Don Friedman (p)
   Attila Zoller(g)
   Richard Davis (b)
   Joe Chambers(ds)  
 最初の「Wakin' Up」は、ベースのイントロに続いてミドル・テンポのスインギーなワルツをピアノとギターがユニゾンで演奏する。この時のフリードマンのピアノは、音量でギターの背後になっていて、コードを押さえてのテーマなので伴奏のようでもある。続くソロがギターなので、ことさらそう聴こえるのか、ピアノはバックで伴奏のようであるけれど、ギターが退くと、その伴奏の形のままソロに移行していく。このような形でフリードマンが演奏全体をリードしている。曲の構造的な面では、「CIRCLE WALTZ」の場合は、この曲では大きな変化はないが、サウンドでの印象が違う。しかし、違いは2曲目の「Spring Sign」で明らかになってくる。冒頭でのギターとピアノユニゾンは、フュージョン・ギターでよく演られる手数の多いテクニカルなギターならではのような早弾きフレーズで、ピアノは無理に合わせているようなギコチなさがある。それが、これまでのハード・バップ的なジャズのメロディとは明らかに違うという印象を最初に与えられる。それに続いてピアノによるアドリブが、ブリッジのように静かにゆっくりとコードを連打していくのだが、それが段々に不協和音になってくところが変わっていて、テーマの早弾きフレーズを断片に分解した破片を散りばめるようなアドリブの展開はクラシックの20世紀音楽のクラスターのような響きを作り出していて、次第にピアノのアドリブがバップ的な展開に落ち着いていくのだが、バックのベースの弓弾きやギターの後のフュージョンのような早弾きが、バップ的なピアノとのミスマッチさが奇妙な響きをつくりだす。そして、ギターにソロがかわった後のピアノのバックが、変拍子と不協和音のオンパレード。弓弾きのベースが、この奏法を生かした重音を不協和音で、変拍子で、それにピアノが合わせると、完全に不協和音と変拍子の世界。次の「Drive」では前曲の傾向をさらに推し進めていくと、メロディの印象がクラシック音楽の十二音技法っぽくなってきて、次第にギターとピアノがビートを細分化して、細かい音を高速で間断なく弾いて、まさに高速のクラスターの響きの世界。背後のドラムスとベースは規則的なリズムを刻まず、まるで全体として浮遊しているような世界をつくりだす。
 「Troubadours Groovedour」のギターとピアノで交互に掛け合うように演奏されるテーマは、ジャズのリズムに乗った十二音技法のように聴こえて来る。それは、まさにこの録音が行なわれた当時のクラシックのコンテンポラリーな実験音楽のような響きでもあり、フリー・ジャズのようでもある。ただし、そのような音楽には理論的な方法論があって、音楽の本質はこうだと頭で考えていく、例えばフリー・ジャズでは演奏での自由を突き詰めて、コードなどの規制から解放されて自由に音楽作りをすることの追求という動機があったと思うが、ここでのフリードマンたちの演奏には、そのような理詰め感じはなくて、あくまでもサウンドの響きの新しさを求め結果ではないかと思う。かれらの演奏には、方法論を追求するような熱さはなくて、いかに聴き手に聴こえるかを測りながら演奏している醒めたところがある。それは、演奏が決して熱気でごり押しのような盛り上がりには至らないことからも分かる。これだけ、フリー・ジャズを演っていても、全体としての演奏には穏やかな静かさが漂っていて、リラックスした雰囲気を失っていない。そこにフリードマンの特徴的な繊細さがあると思う。

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