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2021年4月18日 (日)

山折哲雄「『歌』の精神史」

11112_20210418191601  いま、叙情が危ない。われわれのこころの世界が乾き上がり、砂漠化しているのではないか。叙情を受け容れる器が損傷し、水漏れをおこしているからではないか。叙情とは、万葉以来の生命のリズムのことだ。魂の躍動をうながし、日常の言葉を詩の形に結晶させる泉のことだ。それが枯渇し危機に瀕しているのは、時代が平板な散文世界に埋没してしまっているからである。歌の調べが衰弱し、その固有のリズムを喪失しているからだ。例えば、平家物語の冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…」を小林秀雄はただの美文で、このセンチメンタルな響きが人を誤らせたと断罪する。もっと内容とか意味を深く読み込むと、平家の人々や源氏でも木曽義仲たちが運命に抗いながらも翻弄され滅んでいく悲劇的な叙事詩として味わうことができる。しかし、平家物語はもともと語り物で、琵琶法師などを通じて民衆に受け入れられ、その中で作られてきたものだ。美文というが、それが語られることでうまれるリズムが人々に生き生きとした感情を呼び起こす。美文の言葉もそういう中で選ばれたもの。著者は、近代化のプロセスで導入したヨーロッパ系言語の論理とか意味、その前提となる言葉ですべてを語ろうとするということ、その反面の語られないものは存在しないという言葉の構造とは違う、日本語の言葉のあり方、そこには言葉の意味では表せないことがあるという一種の諦念を全体とする言葉による表現、それによってしか表わすことのできない抒情があるといっていると思う。多分、和歌とか俳句のような伝統的な韻文についても、詠う(うたう)ものであったものが、いまでは黙読するのが主流となり、口に出すという身体性(例えば、口に出して言葉のリズムを身体で感じる)ということがなくなっている。言葉のあり方というものが変化してきているということが、「歌」に、顕著に見ることができるということ。

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