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2021年5月

2021年5月31日 (月)

テート美術館所蔵コンスタブル展(5)~4章 ブライトンとソールズベリー

 1824年に妻の療養のために一家はブライトンに移り住み、そして、1828年に妻がなくなるとソールズベリーを拠点として制作に励んだそうです。これらの町の風景画が多数制作されたそうです。
Costablewind  「ブライトン近郊の風車」という1824年の作品です。20×25㎝という小さな作品です。小高い丘を見上げるような視線で、その丘に視界を遮られて風車の羽の一部だけが見えています。その先には雲が湧く空が広がっています。一方画面下部の丘には背の低い草が茂っていて、それらの草が上に伸びようとする縦の線の集まりとなっていて、その線の方向に促されるように見る者の視線は画面上部に導かれるようになっています。また、画面左下の切通のような道は上り坂で、これも視線を上部に誘導します。その先には、黒でアクセントがつけられた風車の羽があり、そこにいったん視線が集まると、その向こうに空が広がり雲が動いている。つまり、小道具を巧みに配して、雲に視線を導いているといCostablemone う構成になっています。そして、雲をたっぷりと描いています。ただ、個人的に、この作品を見ていて、コンスタブルとは全く関係がないのですが、クロード・モネの「散歩・日傘をさす女性」を想いました。強いて言えばこの仰角の感じだけが共通しているのですが、モネの作品は同じように視線を上の方に導かれるのですが、そこに風が吹いていて、その風に吹かれるようにフワフワと視線も浮いていく、という動きがあるのですが、コンスタブルの場合は、丘の草は風に吹かれるような描写は多少はあるのですが(下草が立っているように見えます)、そういう風を見る者に感じさせることはない。この画面を見ていて、そういうところが欲しいと思わせるところがありました。でも、強引に並べ、モネの画面は陽光がさんさんと降り注ぎ明るいので印象が全く違いますが、画面下の草の描き方の大雑把さという粗さというか、そういうところは意外と似ているところもあると思います。
Costablesee  「ブライトン近くの海」という1826年の作品で、これも小さいサイズですが、鈍い色の空の下の海の様子を描いた作品で、雲と海だけで他にアクセントになるようなものが何もないので、モノトーンにもなってしまうような作品で、雲と波の描写だけで勝負しています。同時期のターナーにも、これと似た構成の波と空の描写だけで勝負している作品があったと思います。ただ、ターナーの作品は激しさというか、もっと荒れた海で、コンスタブルの作品のような静けさはありません。もっというと、空と海という不定形なものが、不定形そのものとなって、画面から海の形、例えば波の形が失われて、画面全体が靄のようになっていってしまう。抽象画一歩手前です。これに対して、コンスタブルは、雲と海の外観は保っています。だTurner2018ostend からといって、コンスタブルの作品が穏やかかというとそうでもない。それは暗い色調や全体の雰囲気から、いつ荒れても不思議ではないような不吉さが漂っています。それは、雰囲気もそうだし、ある種の感情を想起させるような表現ともいえる者になっています。この展覧会では、コンスタブルとターナーをライバルとして対決させるような演出の展示をしているようですが、このような作品で比べてほしかったです。こっちの方が両者の異なる特徴が際立つように思えるのですが。

2021年5月28日 (金)

テート美術館所蔵コンスタブル展(4)~3章 ロイヤル・アカデミーでの成功

 展示フロアが3階から2階に降りて、次のコーナーに移ります。この美術館は、古い建物を使っているせいか、狭い部屋が並んでいて、廊下で繋がれているので、展示が細切れのようになって、しかも、床が靴音が高く響くので、余計な気を遣います。で展示は、1819年、コンスタブルはロイヤル・アカデミーの准会員に選出され、例年の展覧会に向けて大型の風景画を制作する一方、家庭に馴染むような小型の絵画も好んで描きました。風景画家としての評価を得て、制作に励んだという壮年期の作品が並んでいます。1816年に両親が亡くなり、結婚して家族でロンドンに住むようになってからは、故郷に行く機会が減っていきました。しかし、彼は相変わらず田園風景を描くことに夢中で、故郷との接触が減った代わりに、他の場所を訪れる機会が増えたそうです。その結果、彼は田園風景の新たな側面を目にし、それが新たなアィデアの宝庫となった。ハムステッド、ソールズベリー、ジリンガム、フォークストン、コレオルトン、ブライトン、アランデルなど、彼の作品にはさまざまな風景が登場します。その多くが自宅から離れた場所であったため、彼はロンドンのスタジオで、さまざまな場所への旅行中に描いた油絵や鉛筆のスケッチをもとに風景画を構成する方法を編み出しましたということです。
Costableyamous  「ヤーマスの桟橋」という1823年頃の作品です。30×50㎝のサイズの作品。曇りのどんよりとした空の鈍い色が、その下の海の暗い色とつながって、さらに海の暗さが濃くなって、砂浜の茶色に繋がっています。つまり、空─海─砂浜が連続した平面を構成していて、そこに左側から水平に桟橋が中央まで伸びていて、その連続した平面を断ち切って、アクセントとなっています。前のコーナーで、コンスタブルは、目の網膜に映っているのを認識しているのを描いている。それが、風景という実体の存在ではなくて、それを網膜に映している空気とか光の構成を描いている。と述べました。それが、その前に述べたフワフワがそのシンボルで、言ってみれば、フワフワして実体のない流動し変化を不断にするもの。それは主に水蒸気や水のメタファー、具体的に画面の中では、雲や水面になります。この作品では、そのような方向性が明らかになってきて、画面の分の2を雲が占め、残りの半分以上を海の波が占めています。画家本人に、その認識があったかどうかは分かりませんが、どんよりとした雲や暗い波の描き込みが深くなっていて、他の画家には見られないような独自の表現になってきていると思います。例えば、波の表現は同時代のターナーもよく描きましたが、激しく劇的な迫力のあるモノでしたが、そこには、いささか表現の過剰さというか、わざとらしさが感じられないではありません。これに対して、この作品ではリアルに、波の多様な表情を表現しています。それは、歴史画などで描かれる青々として陽光をうけて波頭が白く光る、「らしい」海ではなく、ヤーマスの桟橋の実際に見ることのできる海になっていると思います。それに対して、左手前の船と白馬が曳く馬車はお粗末です。
Costablechain  これは、この後に展示されている「チェーン桟橋、ブライトン」という大作と構図がよく似ていて、類似の作品が何点も描かれたと想像します。別の所の展示で説明がありましたが、コンスタブルは大作をロイヤル・アカデミーの展覧会に出品して、それと似た構図の中小のサイズの作品を一般顧客向けに描いたということです。貴族や教会に歴史画や宗教画の注文を受けるという、それ以前の画家とは違って、近代社会の市民階級を顧客として風景画を制作する新しい画家の在り方を、ここでコンスタブルは工夫しているということでしょうか。ちなみに、「チェーン桟橋、ブライトン」は大作で、ロイヤル・アカデミーに展示した作品だけあって、雲の表現などは、より丁寧になって暗さのグラデーションなどが多彩になっていると思います。その雲が地上に明暗を作る(はっきりではない)様も表現されていて、それらがはっきりと表現されているわけではなく、微妙に示されているので、コンスタブルが技巧を尽くしていると思います。
Costablecloud  「雲の習作」という1822年の、雲そのものを描いているものです。これまで述べてきたように、コンスタブルの描く風景は、空気とか水蒸気というフィルターを通じて、映ったものと言えるということで、その典型がフワフワして実体のない雲です。そして、ここで、コンスタブル自身が自覚していたことが分かります。このような雲だけを描いた作品は数十点に及ぶということで、習作とはいえ、おそらく、雲だけをこれほどまでに描いたのは、彼が初めてではないかと思います。いささか教科書的な解説を試みると、彼以前のヨーロッパの伝統的な絵画では、天空は神聖な領域で、キリスト教的には、「救済」「至福」「神の完全無欠」などのイメージと結びついて天使の住む世界だったので、雲は宗教画、神話画、歴史画などの余白に軽微に描かれるにすぎず、少なくとも観賞の対象ではあり得なかったと言えます。コンスタブルは、むしろ、その雲を重点をおいて風景画を描きました。コンスタブルは、雲を題材にした作品を制作するにあたり、いくつかの目的を持っていたということです。まず、コンスタブルが目指したのは、「自然に忠実であること」で、写実的なアプローチは、自分自身が感じているのと同じように、見る人に自然への愛情を感じさせてくれる。第二に、様々な雲の形を完成させることVenicebassano で、構図の幅を広げることができる。第三には、より強い雰囲気を表現したい。コンスタブルは、さまざまな天候が感情的な反応を引き起こすことを認識していたといいます。たとえば、曇っていても、明るくても、荒れていても、嵐の後の新鮮できれいな様子などです。最後に、雲はその基本的な性質から、以前の状態とこれからの状態の両方を示すものであり、時間の経過という概念を表現するのに最適な手段でした。これらの要素はすべて、彼の大きな構図を引き立てるために使われることになりました。そて、作品に戻りましょう。この作品を見ていくと、分厚く、立体的に盛り上がった箇所もあれば、逆にかすれたように薄くなり、下の青がのぞいている箇所もあります。それらが、流動的というか、輪郭による明確な形として描かれるのではなく、近くで見ると粗い筆遣いで乱暴と見えるほどに描かれています。それを距離をとって遠めに眺めると雲に見えてきて、しかもフワフワして無定形で、流動的な動きを感じるのです。この表現力というのは、他の作家の風景画では見られないものです。ちょっと先取りしますが、それだけ描かれている雲は、作品画面の中で占める比重が大きくなって、画面全体の雰囲気や明るさを決めてしまうものとなっていきます。そして、それがある種の表現力というのか、画面の雰囲気というものを越えて、見る者に感情的な効果を引き起こすようなものになっていくのです。おそらく、コンスタブルの風景画を見て心を動かされるというのは、そういうことではないかと思うのです。

2021年5月25日 (火)

マイラ・ヘス=バッハ「主よ人の望みの喜びよ」

 11112_20210525210401 バッハのコラールをピアノ独奏に編曲したマイラ・ヘス自身による演奏。ディヌ・リパッティの弾いた演奏をよく聴いていたが、こちらの演奏は録音の音質の貧しさもあってか、極めて簡素。冒頭の有名なメロディが骨だけみたいに聞こえてくる。これがリパッティの録音では中声部が豊かに響いてメロディがハーモニーで聞こえてくる。しかも、左手の低音部が活き活きとして、それ自体が一つのメロディにように有名なメロディと絡み合うようになる。それが演奏に前へ前へという推進力を与えて、全体としてポジティブ(前向き)な活力を聞くものに与える。これに対して、ヘスの演奏は、そういう豊かさはなく、テンポも心もち遅めで(決して指が動かないのではないだろうと思う)、リパッティが活き活きとした動きがあるに対して、立ち止まったりするような感じだが、それがリパッティとは違って、跪いて祈っているような、思わず見上げてしまうような演奏になっている。もっと印象っぽい違いをいうと、リパッティの演奏は音楽として美しい、敢えて言えば歌っているとか奏でているという感じなのに対して、ヘスの演奏は語りかけているという印象。例えば、リパッティの弾くメロディは整っていて均整のとれたという美という感じなのに対して、ヘスの弾くメロディはリパッティほど整っていないで、その形が揺れている。その揺れが、語るという感じに近い。それは、ヘスと同時代やそれ以前の時代の演奏家にも言えるのだが、音楽を弾くというのが、抽象的な美というようなメロディを美しく奏でるというのではなくて、メロディを肉声で語るような感覚で弾いていた。だから不安定で揺れたりするのは当たり前で(コルトーの弾くショパンなんて、その典型)、今みたいにミスなく完璧に楽譜通りに弾くのとは違う基準で演っていたというのが、今頃になって、ようやく、何となく少しわかるようになってきた、と最近、ちょっと思う。しかし、ヘスのピアノはモーツァルトなんかの評判が高いようだけれど、未だ、私には味わえていない。反面、リパッティの弾くバッハのパルティータは大好きだ。

2021年5月24日 (月)

西行の歌を読む(7)~年たけてまた越ゆるべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山

  あづまのかたへ、あひしりたる人のもとへまかりけるに、さやの中山見しことの昔に成りたりける、思出られて
  年たけてまた越ゆるべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山
Booksaigyou15 吉本隆明は「15歳の寺子屋 ひとり」で、この歌について、次のような感想を述べています。“西行も、やはり人生を長い旅路に重ねています。「小夜の中山」というのは、東海道の難所でした。この歌を詠んだ時、西行は69歳。かつて若い頃に越えたところを、そんな高齢になってまた越えようとしている。「命なりけり」というのは、そういう自分の人生を振り返っての感慨だと思うけど、僕が今読むと、「それが自分の宿命だったんだ」というような少し重い意味で響いてくる。生きていくことは、たぶん誰にとっても行きがけの道なんですよ。立派な人にはまた特殊な見え方があるかもしれないけれど、僕ら普通の人間は、悟りを開いて帰りがけになるなんてことはまずないんだってことが自分でわかっていれば、まずそれでいいんじゃないか。人は誰しも行きがけの道を行く。そうして迷いながら、悩みながら、ただただ、歩きに歩いていくうちに、ああ、これこそが自分の宿命、歩くべき道だったんだと思うことがあるんじゃないか。「命なりけり」と気づく時がくるんじゃないか。”たぶん、西行の愛好者で、この歌とか「願わくば…」の歌とかがとくに好きな人で、思想家として西行とか人生の指針とかという視点で西行を読もうとする人の典型的な感想ではないかと思います。歌そのものではなく、最初にこのような感想を持ってきたのは、こういう感想がこの歌の周囲にオマケが分厚くまとわりついていることを明らかにしたかったからで、こういう感想が、この歌を読むときの視点を縛ってしまっていると、私が思っていることを明らかにしたかったからです。
 詞書の「あひしりたる人」とは、藤原秀衡のことを指し、この時西行は69歳で、最初の旅から40年ぶりの2度目の奥州への旅に出かけたときの歌です。この旅の目的は1180年に平重衡によって焼き討ちされた東大寺大仏再建のための砂金勧進です。当時の奥州藤原氏の拠点の平泉が、中尊寺金色堂に代表されるような黄金の都であったので、藤原秀衡を目指したのでしょう。『吾妻鏡』には、この旅の途上で源頼朝と鎌倉で会見して、引き出物に拝領した銀の猫を、西行は御所を退出するや、門の外で遊ぶ子供に投げ与えたというエピソードが描かれています。
 初句の「年たけて」の表現は、『和漢朗詠集』に「年長ケテは毎ニ労シク甲子ヲ推ス。夜寒クシテ初メテ共ニ庚申ヲ守ル」と、年をとったため、老いによる衰えに対する嘆きが詠まれている許渾の詩からとられている、と言われています。この歌で西行が「年たけて」と詠んでいるは、老齢であることを強く意識して2度目の奥州への旅に出たことを表現していると言えると思います。第三句の「思ひきや」の表現は、予想外のことが起こることを表わす表現であり、西行は再び奥州に向かうことになるとは思ってもみなかったことであるという気持ちが底にあると思います。これは、『伊勢物語』の次の歌
  忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪ふみ分けて君を見むとは
 小野の山里に隠棲した惟喬親王のもとへ、雪を踏み分けて「昔男」が訪ねるところで詠まれた歌です。業平が敬愛する惟喬親王に会った喜びの表現が、この歌での「思ひきや」で、西行の「思ひきや」は、このようなめぐり会いの驚異、喜び心が込められていると言えます。
第四句の「命なりけり」は、命の存在を詠嘆していて、「小夜の中山」を再び越えることを運命であると捉えているという表現です。西行以前の歌でも「命なりけり」を詠っていますが、例えば、
  春ごとに花の盛りはありなめど あひ見むことは命なりけり     (古今集・春下)
  もみぢ葉を風にまかせてみるよりも 儚きものは命なりけり     (古今集・哀傷・大江千里)
 これらの古今集の和歌では、「命なりけり」は「~は」に連接して結句に置かれているのに対して、西行の「命なりけり」は確たる主語を持たずに第四句置かれていて、構造上違っています。そして、西行の場合は、「命なりけり」という詠嘆に続いて、一見するとそれと何の脈絡もない「小夜の中山」という地名(歌枕)が提示されます。これは、読んでいて、なだらかに詠みくだされてきた上の句から第四句「命なりけり」と展開すると、そこで一旦流れが途切れ、結句「小夜の中山」が繋がってゆくのは、何となくギクシャクして不自然な感じがします。そこが、西行の「命なりけり」の独自性であると思いますが、そこには「命なりけり」の意味が、古今集の二首と異質であることを示している。古今集の二首は命が儚いことを嘆じているのに対して、西行の「命なりけり」は、命の儚さに焦点を合わせるのではなく、命のあったことの感慨がうたわれています。つまり、命が儚いからこそ、命があったことを格別なものであるというところが違います。最初に「小夜の中山」を越えて奥州へ旅をしてから約40年の時が過ぎ、再びこの地に立った時、これまでの人生を振り返り、自分の足で「小夜の中山」を越え勧進に向かうことを運命と捉えていることが、「命なりけり」に凝縮していると言えます。そして、結句の「小夜の中山」は、現在の静岡県、旧東海道の日坂宿と金谷宿の間に位置する峠で歌枕として有名でした。
  甲斐が嶺をさやのも見しかけけれなく 横ほり伏せる小夜の中山   (古今集・東歌)
 「けけれなく」は、「心なく」の東国訛りで、甲斐の山をはっきり見たいのだが、小夜の中山が間に横たわって邪魔をしているという内容で、山に喩えた恋歌と解されています。そこから逢うことかなわない恋の嘆きを詠うものでした。それが西行の歌では、そもそも難所であるということ、そのことからなかなか越えられない、越えると帰ることができるかわからない。そういう境界をなしている。その境界とは、都と辺境の奥州の境界であり、現世とあの世との境界であり、40年前の旅で容易に越えた若き日と、今度の苦労してようやく越えた老体の自分を画す境界でもあったことを表わしています。
 同じ道中で詠まれた
  風になびく富士の煙の空に消えて 行方も知らぬ我が思ひかな
 とともに『新古今集』に収められ、西行晩年の境地を示す歌として並んで扱う人も少なくない歌です。しかし、『新古今集』では、「風になびく…」は雑歌に、「年たけて…」は羈旅に、『西行法師歌集』では恋の部と雑の部と、別々の部に収められています。それをわざわざ並べて扱うのは恣意的かもしれませんが、「命なりけり」と慨嘆する作者の心性は、「行方も知らぬ我が思ひ」へと繋がるという読みをどうしてもしてしまいます。つまり、苦難の旅を強いられてきた旅人が難所の「小夜の中山」をようやくにして越えることができた、という意味合いが強く感じられるようになります。
 山本幸一は、旅での感動という点で若山牧水の歌と相かよう点があると指摘します。
  いわけなく涙ぞくだるあめつちのかかるながめにめぐりあひつつ
  まことわれ永くぞ生きむあめつちのかかるながめをながく見るため
 偶然の出会いでも、それが生命の奥底にとおる出会いとして、その生涯に深い影をおとすこともあるでしょう。そればかりか、それがある人間の一生を決定づけることさえあるかもしれません。岡本かの子の『蔦の門』では、蔦の芽をひきちぎった子供たちを咎めたことがきっかけで、老婢まきと孤独な少女ひろ子との交渉が深まります。「孤独は孤独を牽くのか」と「蔦の門」をもつ家のあるじ「私」は思うのです。老婢と少女との交渉はほとんど運命的といえるほどに、生涯を通じて深まっていきます。それを終始見てきた「私」は感慨深く西行の歌を思い出し、口ずさむのです。それが
  年たけてまた越ゆるべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山
なのです。

 

2021年5月22日 (土)

テート美術館所蔵コンスタブル展(3)~2章 自然に基づく絵画制作

 1802年からコンスタブルは、ロンドンから故郷のサフォークに戻り、太陽の下で自然を描き始めた、ということです。それまで、絵画というものは、アトリエの中、つまり屋内で制作されていた。それは風景画も同じで、アトリエの中で三脚に立てかけられたキャンバスに、外で見た景色を思い出したり、スケッチブックにスケッチした下絵を参考にしたりして、描くのが一般的だったというのです。そこには絵の具の改良など道具の進歩もあったのでしょうが、コンスタブルは、「あらゆる創造力がそこから湧き出る源泉」として自然を捉え、その根源的な本質を探るには戸外で描く必要がある、と考えていたといいます。だから、アトリエで描かれた17世紀のオランダの風景画のような精緻な描き方はできなかったということなのでしょうか。このころから、コンスタブルは故郷の同じような風景の油彩のスケッチを繰り返すように描きます。デダムの谷も彼が何度も描いた対象です。とにかく、そうしているうちに1810年ごろの作品から、らしさが出てくるように見えます。
Costablededam  「デダムの谷の眺め」という1802年の作品です。生産年代は、前のコーナーで見た「教会の入り口、イースト・バーゴルト」よりも前のころのようです。この油絵作品も、油彩のきっちりと色が区画されて絵の具で塗られた形態を明確にするのではなくて、水彩絵の具のようなぼんやりとフワフワしたような感じになっています。それゆえに、風景全体が霞がかかったようなぼんやりした感じになって、遠景の教会のある町は遠く霞んでいるし、下に見下ろす農家の建物もきっちりした建築の存在感が感じられません。また、手前の樹木についても黒く見える幹や枝も墨絵のように薄ぼんやりしていて、樹木のきっちりした輪郭がわかりません。つまり、手前の林は一本一本の木が見えてもいい距離なのに、一部でぼんやりと幹や枝が表れている以外は緑色のフワフワした集まりになっています。そして、同じようにフワフワしたのが空に在って、それが雲です。この作品は、ぼんやりとした色合いで、フワフワ描かれたものによって構成された空間が風景に見えるという作品になっている。そういう作品世界のあらわれとして見ることができるものがコンスタブルの風景画の特徴で、その萌芽を顕著に見ることができるといえると思います。
Costablededam2  「デダムの谷」という1805年頃の作品は、デダムの谷を描いた習作のひとつとして上記の作品と並んで展示されていましたが、同じように画家が一人で自然を眺めているというアングルです。ランガムのガン・ヒル付近から、ストアー渓谷をデダムに向かって見下ろし、さらに遠くにハリッジを望むと説明されています。右側には大きな背の高いニレの木がキャンバスの上までそびえ立ち、中央の広々とした空間と左側の青々としたニレの木や低木が視覚的にバランスをとっています。その間に縁取られた広大な空間は、地平線まで伸びるストアー渓谷の景観です。川の湿地帯の向こうにはデダムの町があり、教会の塔を中心に屋根が高くそびえる小さな都市です。さらに地平線上には、ハリッジとその川、そして一艘の船とその帆があります。構図は、ゲインズバラや同時に展示されている画家たちに通じるところがありますが、画面中央に遠望する空を描くスペースを大きくとっていて、他の画家ならば、背景となる空を主役の位置に描いて、木々を背景、というか空を描くための枠のようにしています。そして、ゲインズブルのように丁寧に描きこまず、多少大雑把目に流れるようにサッと描いています。しかし、残念なことに、主役の位置の空や雲は、それ適するほどの描き込みができていません。それには、この後何年かの成熟が必要だったのでしょう。
Costablemol  「モルヴァーン・ホール、ウォリックシャー」という1890年の作品です、そのようなぼんやりフワフワがより明確に表れてきていると思います。画面手前を横切るように池の水面が配置されていて、庭園の木々や建物が水面にぼんやりと映っています。それがぼんやりフワフワです。そして、薄暗い天気の下で庭園の木々はぼんやりと描かれ緑のフワフワです。そして、上空にはフワフワの雲がまるで建物の影のような形で背景をつくっています。その画面の中央に建物があり、左側の木々の下に沈んだ太陽の光があたって固い輪郭がはっきりと表れています。それが周囲のフワフワと対照となって互いを際立たせています。
 「製粉所わきの流れ」という1810年の作品です。21×29㎝という小さなサイズの、油絵での下絵だろうと思われる作品です。下絵だからかもしれませんが、これまで見てきた作品とは明らかに異質です。画像では分からないと思いますが、実際の作品を見ると、それまでの作品とは絵の具の塗りのCostablemill 厚さが全然違うのです。まるで水彩画のような油絵作品から、これは絵の具を置くように厚く積み上げるようです。しかも、これ以前の作品では、水彩絵の具が滲んで混ざるような、どんよりした画面だったのが、この画面では、例えば画面上部の空の雲の部分は、白とグレーと空の青の絵の具が混ざっているところもありますが、混ざらないで並べてあって、筆つかいの跡が荒々しく残されていて、それが作品を見る人には、混ざっているように見えるのと、そこにダイナミックな動きを感じさせるようになっています。このような部分は、分厚い塗りと相俟って、後期印象派のファン・ゴッホに似てきているように見えてきます。印象派を想わせる点でもそうなのですが、前のところで「~らしさ」の風景ということを述べましたが、「~らしさ」の風景というのは見る者からは誰が見ても、そう見えるという風景、つまりは客観的に見えるという風景と言えると思います。そのように「~らしく」見えるためには、一定の共通事項を踏まえることが必要と言え、定式化された文法のようなものがあり、それが体系化されたプログラムになっているのがアカデミックな絵画と言うことになるのではないかと思います。それに対して、コンスタブルは、「~らしく見える」という見る者の側から、「私はこう見ている」という個人の主観的(客観に対する)な視点で描いているように見えます。それは、建物らしい建物や樹木らしい樹木がそう見えるようにレイアウトされて絵画の画面を構成して、画面に風景という空間が存在しているように見せるというのではなくて、コンスタブルの目の網膜に映っているのを認識しているのを描いている。それが、風景という実体の存在ではなくて、それを網膜に映している空気とか光の構成を描いている。そこにコンスタブルの風景画の特徴があるように思います。ただし、この時点では、それを自覚しているわけではなく、素人画家の風景の水彩画の世界を昇華させたようなものだと思いますが、それを作品に結晶化する過程にある作品のように思います。
Costableflatford  「フラットフォードの製材所」という1816年頃の作品。1×1.3mという大きなサイズの作品で、会場でも目立っていました。この時期を代表する作品という位置づけなのだろうと思います。この美術展のポスターで使われていることからみても、この展覧会でも、コンスタブルを代表する作品とみなされていると思います。
 ところで、この展覧会ではコンスタブルのライバルとしてターナーの作品も展示し、両者の対決の演出も施しています。二人の違いはいくつもありますが、そのひとつとして、ターナーはイギリスや大陸を旅して、華やかなものを中心に撮影したのとに対して、コンスタブルは家にこもって、地元の限られた地域の風景を、平和で静かな農村風景を中心に描いたということです。このような旅への抵抗感は、彼の作品作りに大きなメリットをもたらしました。旅人は風景の表面的に捉えがちですが、その土地の住人は、外見だけでなく、その土地の歴史、地元の人々の経験や付き合い、その土地に対する思いなど、内的な質も含めて、その風景を熟知しているものです。コンスタブルは、このようにして自分の国を深く考え、あらゆる角度から発想することができたのです。そして、「田舎の生活感」こそが「風景の本質」であるというとこに行き着いたと思います。たしかに、ターナーの作品に、そういう生活感は見られません。
 当時、コンスタブルが故郷のストアー渓谷の風景を描くようになった頃、この地域はまだ文学的な連想ができない素朴なものだったといいます。一部の絵画や版画を除いて、この川についての詩的な記述や地形学的な歴史は書かれていませんでしたし、ストアー川と王族や過去の重要な事件を結びつけるような歴史的なモニュメントの存在を示すものはなかったといいます。しかし、コンスタブルは彼個人の詩的な感情や連想から、ストアー渓谷に自分の理想とするアルカディアを見出した。ストアー渓谷の田園風景は、コンスタブルにとって「ただの野原」ではなく、素朴な田舎の生活は、彼にとって、「優雅な充足感、満足感、引退感」や「安らぎ」の場という感情や連想を起こすものとして捉えられたのではないかと思います。そのためか、彼の風景画は、歴史画のような複雑な構成過程を経て描かれていると思います。彼の大きなサイズの風景画は、しばしば歴史画のような複雑な構成過程を経て描かれており、決して自然界をそのまま写し取ったものではなく、シーンの効果に焦点を当て、大雑把にみえる粗い筆遣いと輪郭をぼやかすような表現で、全体に穏やかで調和して印象のものにしています。例えば、この作品では、イースト・バーグホルトのフラットフォードにある父親の製粉所とその側の川の流れを中心とした水の風景です。中央手前には、佇む馬に子供がまたがって、川には釣り人の姿が見られる。夏の緑の中の静かな静寂、そして鑑賞者の思索を呼び起こすような絵です。

2021年5月20日 (木)

テート美術館所蔵コンスタブル展(2)~1章 イースト・バーゴルトのコンスタブル家

 コンスタブルが描いた家族の肖像画や、習作期の風景画。そして、彼の周辺の画家たちの作品。コンスタブルは、風景画ばかり描いていたのではなく、肖像画も描いていた。しかも、それなりによく描けていると思います。この時代は、写真が普及する前ですから、大英帝国の繁栄で勃興するブルジョワジーや貴族など肖像画のニーズは多く、画家たちは肖像画を描くことで稼ぎを得ることが大きかったと思います。まとまりがあるし、おそらくモデルの特徴をよく掴んでいるように見えるし、それなりのものは描けていると思います。しかし、後世に残してモデルと縁のない私たちのような人たちが、独立した作品として鑑賞するほどのものではないと思います。
Costablechurch  ここで展示されている風景画は水彩です。1800年の最初のころに制作されたものだから、コンスタブルの20代後半のころ、おそらく風景画家として立つ前のころではないかと思います。コンスタブルは23歳のとき、父親の許しを得て、ロイヤル・アカデミー・スクールに入学します。しかし、彼のアカデミーでの経験は、熱心な努力にもかかわらず、実りあるものではなかったといいます。彼はアカデミーという組織を賞賛しながらも、その概念に反発し、その一方でホームシックにもかかった。都会の空は澄んでいないと不満を持ち、子供の頃の平和な風景を切望するようになります。1802年、彼はサフォークに戻り、それ以来、コンスタブルは愛する故郷から離れることはなかった。そこに、ロイヤル・アカデミーという権威のある絵画の世界や、それをとりまくロンドンという都会の文化や環境とは相容れなかったのでしょう。そこに、もともと、マイペースな田舎者とでもいうような自身を自覚したのかもしれません。一点集中とでもいえる、彼の作品の傾向は、そういうところに因っているかもしれないと思えます。例えば、「教会の入り口、イースト・バーゴルト」という1810年に公開された油絵の作品です。茂っている林の木々の枝や葉などの描き方が、よく言えばうまく省略をしている、わるく言えば、ぞんざいで雑に書きなぐっている。生い茂る木の葉は粗く絵の具を塗って、塗りむらが結果として、それを表わしている。しかし、教会のレンガの建物と並んで立っている樹木に大きな違いはないのか、両者に質感の違いは見えません。これは、水彩画を描いてきたからでしょうか。水彩絵の具は油絵の場合とは違って、水に溶け、紙に塗ると滲んだりします。それを利用して、この時代の素人の人たちもスケッチブックを手に水彩画を手早く描くということが行われた。その際には、アトリエで油絵具を塗っては乾くのをまち、その上にまた絵の具を重ねるといった時間をかけるものではなくて、さっと塗ってしまうようなものだったのではないかと思います。それは水彩絵の具の性格から必然的に生まれたPrado2018lorran2 やり方であったように思います。その場合、木の葉の一枚一枚を描くだの、質感の違いを描き分けるには、時間もかかるし、絵の具の絵の具を重ねるようなやり方で可能になるようなもので、水彩画はそれと違って、紙の上にさっと塗り、乾かぬうちに別の色を塗れば、滲んで色が混ざってしまう。そこでは、描いたスケッチの輪郭にさっと塗ってしまう。そういうことになると、紙の上のスケッチの輪郭の上に色が塗り分けられたという、塗り絵のような紙の上の絵の具の色の配置に還元されていくようなものになります。そのセンスで描かれた油絵作品が、これではないかと思えます。だから建築物である教会の石の壁がどっしりとした重量感を感じられず、建物の感じがしないのでした。同時に展示されていた素人画家の描いた風景がと、それほど変わりがないのではないか。少なくとも、私は、それらとこの作品が、はっきりと違うとは言い切れませんでした。おそらく、コンスタブルの画風というのは、そういう人たちの中から生まれてきたものなのではないか、当時の芸術絵画にはジャンルのヒエラルキーがあって、宗教画や歴史画が、その上位に位置して、風景画は下位あったといいます。画家のランクも宗教画や歴史画を描く画家が高位で、風景画家は下に見られていた。だから、一般的に画家たちは宗教画や歴史画を描き、そこで評価を得ることを目指していたといいます。そういう時代に、風景画のみを描いたコンスタブルやターナーは、当時の常識からは外れた、いわばアウトローだったと説明されていました。それは、幼少のころからアカデミックな教育を受けたわけではなく、画家の修業を始めたのかが比較的遅い年齢だったことも原因していたのかもしれないと思います。いったん商業の世界に足を踏みいれてから、画家を志したということで、商人という画家とは違う人々の中で過ごしたところで、アカデミズムとは異質な、その文化的な素地を作ったのではないか。たとえば、歴史画に最高の価値を置くアカデミズムでは、歴史画を描くための教育をするようになっています。歴史の場面を描くには、例えば背景の風景では、実際の風景では歴史の場面であることが分かる風景でなくてはならず、それが分かる風景を描くことが必要になります。それは、実際の風景ではなくて、それらしいと見る者が分かる風景で、「~らしさ」を見る者に感じさせるものを描くことが優先されるわけです。「~らしさ」を感じるというのは、誰が見てもそうだと分かるというもので、それは一種の理想的な姿で、形態が明確であるということです。しかし、コンスタブルのこの作品を見ていると、建物が建物らしく、周囲の木々とは区別されるようには見えません。つまり、そういうものとして描かれていないのです。それは、コンスタブルには、そういうアカデミズムの影響を受けた理想化させるような視点で風景が見えていなかった。むしろ、理想から離れた個性的なものとして見えたのではないか。そういう見え方は、ここで展示されているような素人の愛好家や画家たちの見え方から生まれてきたものではなかったのかと思えたのでした。
Costablegains  参考に、トマス・ゲインズバラの「休憩中の農民がいる風景」の方が、よほど風景画らしさがあると思います。木の葉の一枚一枚をきちんと描いているし、丁寧さが違います。むしろ、こっちの方がよく見えます。コンスタブルの拙さということもありますが、彼がアカデミズムに寄っていないとも言えると思います。ここで、ターナーの水彩もありましたが、これもパッとしない感じで、あまり差があるようには見えませんでした。

2021年5月19日 (水)

古田徹也「はじめてのウィトゲンシュタイン」

11112_20210519214501  論説とか評論といった文章を読むということは、書かれている言葉の意味を押さえて、ストーリーをロジカルに追いかけて、文章全体の内容を理解し、情報として取り込むということだろうと思う。哲学書を読むというのは、そういう読みではないということを、そういう読みが通用しない「論理学哲学論考」から教えられた。書かれている言葉の意味を発見し、その文章を追いかけるというより、新しく発見した意味で文章を作るように読むと新しい世界が開ける。まるで詩を読むようなものだ。だって、この本にはストーリーがもともとなかったといっていい、だから、読む人がストーリーを作りながら読んでいくしかない。そういう、「論理学哲学論考」について、序文に“語り得ないものは、語るべきではない”という言葉によって、言葉で語りうるもの、つまり、言葉とそれが表わすものを数学のように一部の隙なくロジカルに構築したものと解説されるケースが多かった。いわゆる論理実証主義がその典型。そして、ウィトゲンシュタインは実は言語には“語り得ないもの”に対して開かれていることに気づき言語ゲームという後期思想に移行したという解説になる。ところが、この著者は、たしかに「論理学哲学論考」は語り得るものと語り得ないものを分けようという試みではあるが、ウィトゲンシュタイン自身は語り得ないものを語ることに挑んでいた、という。だから、彼は論理実証主義を批判し、むしろ同時代のハイデガーの姿勢をリスペクトしていたという。そういう視点で、「論理学哲学論考」の試みを考えると、“語り得ないものは、語るべきではない”ということは、そのために語り得ないものを特定しなければならない。その特定こそは語り得ないものを語ることに他ならない。つまり、そもそも矛盾を抱えている。そう考えると、「論理学哲学論考」の試みは最初から無駄であることを分かってのことであるともいえる。そう考えると後期思想は転回ではなく、「論理学哲学論考」から連続していると考えることもできることになる。何か、ウィトゲンシュタインの哲学は、シジフォスの神話を想わせる。

2021年5月17日 (月)

廣松渉「今こそマルクスを読み返す」

11112_20210517205801  再読のはずなんだが、内容をすっかり忘れていて初めて読んだと同じ。その時は、廣松版の『ドイツ・イデオロギー』が、旧版の岩波文庫のマルエン全集からのと内容が全く違っていて、目から鱗の落ちる思いがして、この人の本を読むと、『資本論』の道が開けるのではないかと思って手に取った、ということだけ覚えている。簡単に言うと、この人の説く『資本論』は資本主義批判で、それは労働者が賃金奴隷の状況にあるというシステム。賃金奴隷制度というのは賃金を反対給付とする形の雇用制度であり。労働者は賃金と交換に労働力という商品を提供する。そもそも、働くということは人が生きて行くということと同じことであり、それが商品となって売り買いされるものになってしまったことが、賃金奴隷制度に陥った。そのために、『資本論』は商品とは何か、それがどのように形成されたかに遡って分析をしたものとする。そういう構成は、マルクスがまだ若くライン新聞の記者だった頃の『ユダヤ人問題によせて』で展開した、ユダヤ人を差別することに賛成するか反対するかという議論ではなく、差別を生じさせるメカニズムを作り変える必要があるといついったものと同じ構成だという。宇野弘蔵の経済学理論として捉えるのではなく、社会変革の理論として理論構成する読みが純粋に理論となっている(いわゆるマルクス主義の革命の著作では、やたら扇情的だけれど、理論になっていなかったり、マルクスの事が全く分かっていなかったりするのとは違う)。
 そういう分析をしながら、現在では世界的な大企業をみれば、マルクスの分析した資本家は存在しない。というのも、企業の持ち主である株主は、労働者の年金を集めた機関投資家のような組織が主体になっている。それゆえ、現代の資本主義社会は、資本家がいなくなり、労働者だけが存在するものになっているという。それは、結果的に社会主義の体制に外形的にはよく似たモノになっているという。この分析は、今の社会の分断への視点として一元化したゆえの分極化というのは、とてもありうると思った

 

2021年5月16日 (日)

テート美術館所蔵コンスタブル展(1)

Costablepos  3月下旬 三菱一号館美術館で見てきたテート美術館所蔵コンスタブル展の感想をまとめました。
 コロナ感染の拡大に伴い、一昨年までのような都心への出張もしなくなり、外出もままならず、美術館に行く機会がなくなってしまった。美術館を訪れたのは、ほぼ1年ぶりとなった。他にも行きたい美術展はあったのだが、日時指定の前売り入場券を買わなくてはならないということになっていて、予定がはっきりしないので、それは断念しました。それで、次善ということで、コンスタブル展に行くことにしました。この展覧会も日時指定の前売り券を買った人が優先的に入場できるらしいのですが、予約状況をネットで見たら空いてそうなので、飛び込みでも大丈夫だろうと思いました。コロナ対策で混雑を避けるため入場人数を制限しているためでしょうが、実際に行ってみたら、展覧会が始まったばかりの時期ということもあって、それほど混雑してはいませんでした。一つの作品の展示に常時1人がいる程度の混み具合で、お喋りは控えるように事前注意の掲示もあり、静かに作品を見ることができました。ただ、コンスタブルの作品は、比較的小さなサイズのものが多かったので、作品の前に立つと、他の人の鑑賞の邪魔をしてしまうのではないかと気を遣いがちで、なかなか落ち着いて心ゆくまで作品に対峙するとまでは行きませんでした。久し振りの展覧会で、こちらもブランクが空いたこともあり、リラックスまではいきませんでした。
 まず、コンスタブルという画家の照会も兼ねて主宰者のあいさつを引用します。“19世紀イギリスの画家ジョン・コンスタブル(1776~1837年)は、一歳年長のJ.M.W.ターナーとともに自国の風景画を刷新し、その評価を引き上げたことで知られます。ターナーが絶えず各地を旅して、国内外の景観を膨大な数の素描に収めたのとは対照的に、コンスタブルは、ひたすら自身の生活や家庭環境と密接に結びつく場所を描きました。故郷サフォーク州の田園風景をはじめとして、家族や友人と過ごしたソールズベリー、ハムステッド、ブライトンなどの光景を写した生気あふれる作品の数々は、この画家が何を慈しみ、大切に育んだのかを雄弁に物語ってやみません。日本では35年ぶりとなる本回顧展では、世界有数の良質なコンスタブルの作品群を収蔵するテート美術館から、ロイヤル・アカデミー展で発表された大型の風景画や再評価の進む肖像画などの油彩画、水彩画、素描およそ40点にくわえて、同時代の画家の作品約20点をご紹介します。国内で所蔵される秀作を含む全85点を通じて、ひたむきな探求の末にコンスタブルが豊かに実らせた瑞々しい風景画の世界を展覧します。”このあいさつ文では、コンスタブルは、サフォーク州というロンドンの東方の田舎の風景を描いて、日本人が“ふるさと”という共通イメージを仮構しているのと同じようにイングランド人の共有しているかのような故郷のイメージを具体化したような風景を作品に描き、当時の人々にそういうイメージを創った人というようなことを、私は言外に深読みしました。実際、コンスタブルのとくに初期の風景画は、当時の同時代の凡庸な風景画との違いが分からないような作品で、あいさつ文で述べられているような称揚すべき作品とは、とても思えないものと、私には見えました。ハッキリ言って日曜画家の上手い人程度の作品にしか見えませんでした。展示されている作品を見て回って、同時代の画家たちと何が違うのか、考え悩みました。詳しくは、これから具体的に作品を見ていきながら、述べていきたいと思います。

 

2021年5月 8日 (土)

西行の歌を読む(6)~あくがるる心はさても山桜 散りなんのや身に帰るべき

  あくがるる心はさても山桜 散りなんのや身に帰るべき
Booksaigyou4  この歌の現代語訳は、たとえば、このようなものがあります。“花にあこがれ、さまよい出る心はそれとして留めることができないとしても、山桜が散ったあとには、私の身体に戻って来るものだろうか。”これは、使われている単語は現代の言葉でしょうが、文章は意味不明で、何を言っているのか分かりません。それでも、西行の桜を詠んだ歌というと、この歌はセレクションされることが多いようで、おそらく「あくがるる心はさても山桜」というストレートに心情を吐露したように見える表現の雰囲気が気に入られてしまったのでしょう。
 「あくがるる」という言葉は、あるべき場所を意味した古代語「あく」から「離る(かる)」ことを言い、そこから、心が何かに惹かれてその方向にさ迷い出ることや、心が落ち着かずいらいらすることという意味になるそうです。したがって、「あくがるる心」は、心が体から遊離していくことを意味します。「空になる心は春の霞にて世にあらじと思ひ立つかな」の「空になる心」と同じような遊離魂感覚による表現です。
 久保田淳の「西行の『うかれ出る心』 について」では、次のように説明されています。
 花月への讃歌や旅の歌、更には出家前後の一連の述懐歌の基調を成すものを、もしも「うかれいづる心」乃至「あくがる心」という風に表現できるとすれば、これは方向の上ではこれ (王朝女房文学に代表される、恋歌の基調をなす「物思ひ」という、内へ内へと沈潜し屈折してゆく心理)とは正反対の志向、即ち外へ外へと駆り立てられ浮動する心理ということができる。しかしながら、外へ浮動するといっても、それは身体の外へということであって、自己の喪失を意味するものではない。むしろ、身体から切り離されて自己の心だけが純粋な形で取り出され、曝されるという点では、心理的傾向は身体の苦痛まで伴いかねない恋歌の懐悩の場合よりも一層強められていることに注意すべきである。かれは「うかる」といい、「あくがる」といいながら、うかれ、あくがれて忘我の境に遊んでいるのではない。いな、うかれ、あくがるという状態において最も純粋に自らの心、我と対しているのである
 この「あくがるる心」は、内へ内へと沈潜し屈折してゆく「物思ふ」という心理状態とは正反対の志向を示すものですが、二つは何等矛盾するものではなく、深い「物思ひ」の果てにうかれ出た「心」が、やがては「身」に戻り、それが以前よりも激しい「物思ひ」を「心」に強いるというように、西行の「あくがるる心」は円環的な構造において捉えらるものと考えてもいいものです。
 この歌が収められた『山家集』では、この歌の前後には
  吉野山梢の花を見し日より 心は身にも添はずなりにき
  花見ればそのいわれとはなけれども 心の中ぞ苦しかりける
の2首が並べられています。「吉野山梢の花を…」の歌では「梢の花」は「梢」と「来ずえ」を掛けた表現で、来ずという遠さを含んでいて、詠者の住んでいる都からはるばると吉野山まで花を訪ねてやってきた意味を含んでいます。何日もの旅を経て遠くの尾根に花らしい白いものを見いだしたその一瞬に、「心は身にも添はずなりにき」という心が身体から離れて、私は私でなくなる。また、「花見れば…」の歌では、「そのいわれとはなけれども 心の中ぞ苦しかりける」では、忘我の状態の心の中が苦しいとしています。花が心を苦しめているのではなく、私自身が私を苦しめている。それは心と身体と私が分裂しているからこそ言えることでしょう。
 この2首に前後を挟まれて位置しているこの「あくがるる…」の歌は、山桜に憧れるあまりに、心を奪われ忘我の状態となります。「さても山桜」に「さても止まず」を掛けて、そのように花に心奪われること自体は、自分の性情だからやむをえない、とあきらめてしまっています。それでもせめて花が散ったら、身体から離れて浮遊する心が「(我が」身」に帰ってくるのかと自問自答するのです。
 なお、花が散った後で心が身に帰ることについて、西行は次のような歌も詠んでいます。
  散るを見て帰る心や桜花 昔にかはるしるしなるらん
 「散るを見て帰る心」は、花が取り終わる見届けために、花への心残りは静まってくることを表現しています。
 あるいはまた、次のような歌もうたっています。
  散る花を惜しむ心や留まりてまた来む春の種となるべき
 花を惜しむ心が花の散った木の下にそのまま留まると表現しています。
 なお、山折哲雄によれば、このような遊離魂感覚は、日本人に精神の根底に流れるものだとして、近代短歌の石川啄木の短歌にも見られると指摘します。
  不来方のお城の草に寝ころびて
  空に吸はれし
  十五の心
 啄木が盛岡中学でストライキをおこし、退学するころの作で、少年の青臭い倨傲の自我が、真青にひろがる空のかなたに吸いこまれて、一瞬希薄になっている。この「空に吸はれし 十五の心」が、自分のからだから遊離していく心、あるいは遊離していく心の残像であった。

 

2021年5月 3日 (月)

神津朝夫「知っておきたいマルクス『資本論』」

11112_20210503165301  マルクスの『資本論』を、人間の社会や歴史について、その現段階である資本主義の下での人間の存在について深く考察し、広い視野から、そのなかに資本主義を位置付けたものだとしている。その点で、いわゆるマルクス主義による革命理論でも経済理論でもなく、資本主義の発生と歴史を主軸にして、あくまで『資本論』第1巻の記述に寄り添った入門書となっている。簡潔な内容でページ数も切り詰めた小さな著作だが、入門書としては、これほど丁寧に『資本論』の理論構成から外れることなく分かるように書かれていて、しかも上述の著者の意図もちゃんと反映している。
 ただし、これは私の感想で、著者は自ら入門書であるとことわっているが、ここまで忠実に資本論に沿っていると、初めての人には、それほど易しいと言えるか疑問におもうところがある。例えば、「哲学入門」という本は数多あるが、そういう題名で個人的な雑事や心情を垂れ流した本は別にして、誠実に哲学の入門的な説明をしようとした本というのは、却って哲学書の原典よりも理解するのが難しい場合が多い(哲学入門には、何度も痛い目に遭わされた)。この本も、ある程度資本論の原本を読んでいて、多少の内容に親しんでいる人にとっては、ああいうことが書かれてあったのかと、資本論の内容を整理反芻して理解し直すのにとても便利で、例えば、使用価値と交換価値の説明など、マルクスの場合、流通過程すら資本の生成、商品の生産へと場面が移ると定義がその途中でブレることがあって、混乱してしまうのだが、この本では、それがすっきり整理されている。いってみれば再入門の書籍として、とてもいい本だと思う。入門書って、実は、そういう読み方が本来的なのかもしれないと思った。

2021年5月 1日 (土)

西行の歌を読む(5)~世の中を捨てて捨てえぬ心地して 都離れぬ我が身なりけり

   世の中を捨てて捨てえぬ心地して 都離れぬ我が身なりけり 出家して間もない頃の作品だそうです。世の中を捨てたつもりだが、どうにも捨てられないでいる私だ。こうしてまだ心には都のことが懐かしく忍ばれるのだから、という現代訳で親しまれている歌です。似たような歌を下にあげておきます。これは出家に際して詠んだ歌で『詞華集』によみ人知らずでおさめられたそうです。
   身を捨つる人はことに捨つるかは 捨てぬ人こそ捨つるなりけれ
 「捨つ」という語を畳み掛けるように繰り返して、捨てることの微妙な差異を表現しています。同時に、繰り返すことで反復のリズム感をつくりだし、ある種の軽さ・俳諧味を感じさせる。そういうところに、これらの歌の共通性があります。一般に西行の活躍した時代は藤原定家と同じ『新古今集』の時代と呼ばれます。その『新古今集』の特色のひとつとして、初句切、三句切、体言止などの句法があります。西郷信綱は、この句切れから生まれるリズムについて、五・七・五の上の句と七・七の下の句に一首が分れ、上の句と下の句とが互いに反発・照応し独特なリズムを生み出すと指摘していす。この歌では、上の句は「かは」という疑問形で区切られています。そして、下の句は「けり」という詠嘆の助動詞で結ばれています。「けり」の詠嘆というのは、それまで気付かずにいたことに初めて気付いた気持ちを表す用法で、その驚きが強いとき、詠嘆の意が生ずるのです。この歌は上の句で問いかけ、それに対して、自分で答えを見つけたという自問自答の体裁をとっています。その回答は、自分で気づき、驚いたということは、気づくまでに時間がかかっていることを示唆しています。上の句と下の句では時間の隔たりがある。つまり、直接スムーズに繋がっていない。その隔たりが内省しているという思索的なものを感じさせるようになっている。このような自問自答の体裁の歌は、西行の作風の特徴のひとつと思います。
 この歌に影響を与えたと思える次の歌には、自問自答の体裁はありません。
   心には心をそふと思ひしに身は身をしぼるものにぞありける
                         源俊頼「散木奇歌集」
 それでは
   世の中を捨てて捨てえぬ心地して 都離れぬ我が身なりけり
 に戻りましょう。『山家集』には、この歌と前後して「捨てる」ということにこだわった歌が並べられています。
 前には
   捨てたれど隠れて住まぬ人になれば なほ世にあるに似たるなりけり
 後には
   捨てし折の心をさらに新ためて 見る世の人に別れ果てなん
 このように何首も、捨てる捨てないという歌が並んでいるのを見ると、読者は、西行が出家に際して深刻に悩んだということを想像することに導かれます。捨てるべきか捨てざるべきかという二者択一をめぐる問いに、青年西行は、数年を費す切実な課題だったという物語を生むことになります。この頃、つまり出家前後の西行の歌に独白あるいは自問自答の表現形式をもつものが比較的多いのは、この時期、彼が、身の在り方や心の在り方について深刻な思いを巡らした。そこから、数多く詠まれた西行の歌に内面の思索の跡を見いだすようになる。数多く詠まれた自問自答や独白の、しかも流麗さや優美さを欠いた一見拙い歌が、論理的、思弁的に聞こえてくる。それが、それまでになかった内省的な印象を読者に与え、今までの和歌との差別化を生んだのだと思います。

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