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2021年5月17日 (月)

廣松渉「今こそマルクスを読み返す」

11112_20210517205801  再読のはずなんだが、内容をすっかり忘れていて初めて読んだと同じ。その時は、廣松版の『ドイツ・イデオロギー』が、旧版の岩波文庫のマルエン全集からのと内容が全く違っていて、目から鱗の落ちる思いがして、この人の本を読むと、『資本論』の道が開けるのではないかと思って手に取った、ということだけ覚えている。簡単に言うと、この人の説く『資本論』は資本主義批判で、それは労働者が賃金奴隷の状況にあるというシステム。賃金奴隷制度というのは賃金を反対給付とする形の雇用制度であり。労働者は賃金と交換に労働力という商品を提供する。そもそも、働くということは人が生きて行くということと同じことであり、それが商品となって売り買いされるものになってしまったことが、賃金奴隷制度に陥った。そのために、『資本論』は商品とは何か、それがどのように形成されたかに遡って分析をしたものとする。そういう構成は、マルクスがまだ若くライン新聞の記者だった頃の『ユダヤ人問題によせて』で展開した、ユダヤ人を差別することに賛成するか反対するかという議論ではなく、差別を生じさせるメカニズムを作り変える必要があるといついったものと同じ構成だという。宇野弘蔵の経済学理論として捉えるのではなく、社会変革の理論として理論構成する読みが純粋に理論となっている(いわゆるマルクス主義の革命の著作では、やたら扇情的だけれど、理論になっていなかったり、マルクスの事が全く分かっていなかったりするのとは違う)。
 そういう分析をしながら、現在では世界的な大企業をみれば、マルクスの分析した資本家は存在しない。というのも、企業の持ち主である株主は、労働者の年金を集めた機関投資家のような組織が主体になっている。それゆえ、現代の資本主義社会は、資本家がいなくなり、労働者だけが存在するものになっているという。それは、結果的に社会主義の体制に外形的にはよく似たモノになっているという。この分析は、今の社会の分断への視点として一元化したゆえの分極化というのは、とてもありうると思った

 

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