無料ブログはココログ

« 廣松渉「今こそマルクスを読み返す」 | トップページ | テート美術館所蔵コンスタブル展(2)~1章 イースト・バーゴルトのコンスタブル家 »

2021年5月19日 (水)

古田徹也「はじめてのウィトゲンシュタイン」

11112_20210519214501  論説とか評論といった文章を読むということは、書かれている言葉の意味を押さえて、ストーリーをロジカルに追いかけて、文章全体の内容を理解し、情報として取り込むということだろうと思う。哲学書を読むというのは、そういう読みではないということを、そういう読みが通用しない「論理学哲学論考」から教えられた。書かれている言葉の意味を発見し、その文章を追いかけるというより、新しく発見した意味で文章を作るように読むと新しい世界が開ける。まるで詩を読むようなものだ。だって、この本にはストーリーがもともとなかったといっていい、だから、読む人がストーリーを作りながら読んでいくしかない。そういう、「論理学哲学論考」について、序文に“語り得ないものは、語るべきではない”という言葉によって、言葉で語りうるもの、つまり、言葉とそれが表わすものを数学のように一部の隙なくロジカルに構築したものと解説されるケースが多かった。いわゆる論理実証主義がその典型。そして、ウィトゲンシュタインは実は言語には“語り得ないもの”に対して開かれていることに気づき言語ゲームという後期思想に移行したという解説になる。ところが、この著者は、たしかに「論理学哲学論考」は語り得るものと語り得ないものを分けようという試みではあるが、ウィトゲンシュタイン自身は語り得ないものを語ることに挑んでいた、という。だから、彼は論理実証主義を批判し、むしろ同時代のハイデガーの姿勢をリスペクトしていたという。そういう視点で、「論理学哲学論考」の試みを考えると、“語り得ないものは、語るべきではない”ということは、そのために語り得ないものを特定しなければならない。その特定こそは語り得ないものを語ることに他ならない。つまり、そもそも矛盾を抱えている。そう考えると、「論理学哲学論考」の試みは最初から無駄であることを分かってのことであるともいえる。そう考えると後期思想は転回ではなく、「論理学哲学論考」から連続していると考えることもできることになる。何か、ウィトゲンシュタインの哲学は、シジフォスの神話を想わせる。

« 廣松渉「今こそマルクスを読み返す」 | トップページ | テート美術館所蔵コンスタブル展(2)~1章 イースト・バーゴルトのコンスタブル家 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 廣松渉「今こそマルクスを読み返す」 | トップページ | テート美術館所蔵コンスタブル展(2)~1章 イースト・バーゴルトのコンスタブル家 »