西行の歌を読む(7)~年たけてまた越ゆるべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山
あづまのかたへ、あひしりたる人のもとへまかりけるに、さやの中山見しことの昔に成りたりける、思出られて
年たけてまた越ゆるべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山 吉本隆明は「15歳の寺子屋 ひとり」で、この歌について、次のような感想を述べています。“西行も、やはり人生を長い旅路に重ねています。「小夜の中山」というのは、東海道の難所でした。この歌を詠んだ時、西行は69歳。かつて若い頃に越えたところを、そんな高齢になってまた越えようとしている。「命なりけり」というのは、そういう自分の人生を振り返っての感慨だと思うけど、僕が今読むと、「それが自分の宿命だったんだ」というような少し重い意味で響いてくる。生きていくことは、たぶん誰にとっても行きがけの道なんですよ。立派な人にはまた特殊な見え方があるかもしれないけれど、僕ら普通の人間は、悟りを開いて帰りがけになるなんてことはまずないんだってことが自分でわかっていれば、まずそれでいいんじゃないか。人は誰しも行きがけの道を行く。そうして迷いながら、悩みながら、ただただ、歩きに歩いていくうちに、ああ、これこそが自分の宿命、歩くべき道だったんだと思うことがあるんじゃないか。「命なりけり」と気づく時がくるんじゃないか。”たぶん、西行の愛好者で、この歌とか「願わくば…」の歌とかがとくに好きな人で、思想家として西行とか人生の指針とかという視点で西行を読もうとする人の典型的な感想ではないかと思います。歌そのものではなく、最初にこのような感想を持ってきたのは、こういう感想がこの歌の周囲にオマケが分厚くまとわりついていることを明らかにしたかったからで、こういう感想が、この歌を読むときの視点を縛ってしまっていると、私が思っていることを明らかにしたかったからです。
詞書の「あひしりたる人」とは、藤原秀衡のことを指し、この時西行は69歳で、最初の旅から40年ぶりの2度目の奥州への旅に出かけたときの歌です。この旅の目的は1180年に平重衡によって焼き討ちされた東大寺大仏再建のための砂金勧進です。当時の奥州藤原氏の拠点の平泉が、中尊寺金色堂に代表されるような黄金の都であったので、藤原秀衡を目指したのでしょう。『吾妻鏡』には、この旅の途上で源頼朝と鎌倉で会見して、引き出物に拝領した銀の猫を、西行は御所を退出するや、門の外で遊ぶ子供に投げ与えたというエピソードが描かれています。
初句の「年たけて」の表現は、『和漢朗詠集』に「年長ケテは毎ニ労シク甲子ヲ推ス。夜寒クシテ初メテ共ニ庚申ヲ守ル」と、年をとったため、老いによる衰えに対する嘆きが詠まれている許渾の詩からとられている、と言われています。この歌で西行が「年たけて」と詠んでいるは、老齢であることを強く意識して2度目の奥州への旅に出たことを表現していると言えると思います。第三句の「思ひきや」の表現は、予想外のことが起こることを表わす表現であり、西行は再び奥州に向かうことになるとは思ってもみなかったことであるという気持ちが底にあると思います。これは、『伊勢物語』の次の歌
忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪ふみ分けて君を見むとは
小野の山里に隠棲した惟喬親王のもとへ、雪を踏み分けて「昔男」が訪ねるところで詠まれた歌です。業平が敬愛する惟喬親王に会った喜びの表現が、この歌での「思ひきや」で、西行の「思ひきや」は、このようなめぐり会いの驚異、喜び心が込められていると言えます。
第四句の「命なりけり」は、命の存在を詠嘆していて、「小夜の中山」を再び越えることを運命であると捉えているという表現です。西行以前の歌でも「命なりけり」を詠っていますが、例えば、
春ごとに花の盛りはありなめど あひ見むことは命なりけり (古今集・春下)
もみぢ葉を風にまかせてみるよりも 儚きものは命なりけり (古今集・哀傷・大江千里)
これらの古今集の和歌では、「命なりけり」は「~は」に連接して結句に置かれているのに対して、西行の「命なりけり」は確たる主語を持たずに第四句置かれていて、構造上違っています。そして、西行の場合は、「命なりけり」という詠嘆に続いて、一見するとそれと何の脈絡もない「小夜の中山」という地名(歌枕)が提示されます。これは、読んでいて、なだらかに詠みくだされてきた上の句から第四句「命なりけり」と展開すると、そこで一旦流れが途切れ、結句「小夜の中山」が繋がってゆくのは、何となくギクシャクして不自然な感じがします。そこが、西行の「命なりけり」の独自性であると思いますが、そこには「命なりけり」の意味が、古今集の二首と異質であることを示している。古今集の二首は命が儚いことを嘆じているのに対して、西行の「命なりけり」は、命の儚さに焦点を合わせるのではなく、命のあったことの感慨がうたわれています。つまり、命が儚いからこそ、命があったことを格別なものであるというところが違います。最初に「小夜の中山」を越えて奥州へ旅をしてから約40年の時が過ぎ、再びこの地に立った時、これまでの人生を振り返り、自分の足で「小夜の中山」を越え勧進に向かうことを運命と捉えていることが、「命なりけり」に凝縮していると言えます。そして、結句の「小夜の中山」は、現在の静岡県、旧東海道の日坂宿と金谷宿の間に位置する峠で歌枕として有名でした。
甲斐が嶺をさやのも見しかけけれなく 横ほり伏せる小夜の中山 (古今集・東歌)
「けけれなく」は、「心なく」の東国訛りで、甲斐の山をはっきり見たいのだが、小夜の中山が間に横たわって邪魔をしているという内容で、山に喩えた恋歌と解されています。そこから逢うことかなわない恋の嘆きを詠うものでした。それが西行の歌では、そもそも難所であるということ、そのことからなかなか越えられない、越えると帰ることができるかわからない。そういう境界をなしている。その境界とは、都と辺境の奥州の境界であり、現世とあの世との境界であり、40年前の旅で容易に越えた若き日と、今度の苦労してようやく越えた老体の自分を画す境界でもあったことを表わしています。
同じ道中で詠まれた
風になびく富士の煙の空に消えて 行方も知らぬ我が思ひかな
とともに『新古今集』に収められ、西行晩年の境地を示す歌として並んで扱う人も少なくない歌です。しかし、『新古今集』では、「風になびく…」は雑歌に、「年たけて…」は羈旅に、『西行法師歌集』では恋の部と雑の部と、別々の部に収められています。それをわざわざ並べて扱うのは恣意的かもしれませんが、「命なりけり」と慨嘆する作者の心性は、「行方も知らぬ我が思ひ」へと繋がるという読みをどうしてもしてしまいます。つまり、苦難の旅を強いられてきた旅人が難所の「小夜の中山」をようやくにして越えることができた、という意味合いが強く感じられるようになります。
山本幸一は、旅での感動という点で若山牧水の歌と相かよう点があると指摘します。
いわけなく涙ぞくだるあめつちのかかるながめにめぐりあひつつ
まことわれ永くぞ生きむあめつちのかかるながめをながく見るため
偶然の出会いでも、それが生命の奥底にとおる出会いとして、その生涯に深い影をおとすこともあるでしょう。そればかりか、それがある人間の一生を決定づけることさえあるかもしれません。岡本かの子の『蔦の門』では、蔦の芽をひきちぎった子供たちを咎めたことがきっかけで、老婢まきと孤独な少女ひろ子との交渉が深まります。「孤独は孤独を牽くのか」と「蔦の門」をもつ家のあるじ「私」は思うのです。老婢と少女との交渉はほとんど運命的といえるほどに、生涯を通じて深まっていきます。それを終始見てきた「私」は感慨深く西行の歌を思い出し、口ずさむのです。それが
年たけてまた越ゆるべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山
なのです。
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