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2021年5月 1日 (土)

西行の歌を読む(5)~世の中を捨てて捨てえぬ心地して 都離れぬ我が身なりけり

   世の中を捨てて捨てえぬ心地して 都離れぬ我が身なりけり 出家して間もない頃の作品だそうです。世の中を捨てたつもりだが、どうにも捨てられないでいる私だ。こうしてまだ心には都のことが懐かしく忍ばれるのだから、という現代訳で親しまれている歌です。似たような歌を下にあげておきます。これは出家に際して詠んだ歌で『詞華集』によみ人知らずでおさめられたそうです。
   身を捨つる人はことに捨つるかは 捨てぬ人こそ捨つるなりけれ
 「捨つ」という語を畳み掛けるように繰り返して、捨てることの微妙な差異を表現しています。同時に、繰り返すことで反復のリズム感をつくりだし、ある種の軽さ・俳諧味を感じさせる。そういうところに、これらの歌の共通性があります。一般に西行の活躍した時代は藤原定家と同じ『新古今集』の時代と呼ばれます。その『新古今集』の特色のひとつとして、初句切、三句切、体言止などの句法があります。西郷信綱は、この句切れから生まれるリズムについて、五・七・五の上の句と七・七の下の句に一首が分れ、上の句と下の句とが互いに反発・照応し独特なリズムを生み出すと指摘していす。この歌では、上の句は「かは」という疑問形で区切られています。そして、下の句は「けり」という詠嘆の助動詞で結ばれています。「けり」の詠嘆というのは、それまで気付かずにいたことに初めて気付いた気持ちを表す用法で、その驚きが強いとき、詠嘆の意が生ずるのです。この歌は上の句で問いかけ、それに対して、自分で答えを見つけたという自問自答の体裁をとっています。その回答は、自分で気づき、驚いたということは、気づくまでに時間がかかっていることを示唆しています。上の句と下の句では時間の隔たりがある。つまり、直接スムーズに繋がっていない。その隔たりが内省しているという思索的なものを感じさせるようになっている。このような自問自答の体裁の歌は、西行の作風の特徴のひとつと思います。
 この歌に影響を与えたと思える次の歌には、自問自答の体裁はありません。
   心には心をそふと思ひしに身は身をしぼるものにぞありける
                         源俊頼「散木奇歌集」
 それでは
   世の中を捨てて捨てえぬ心地して 都離れぬ我が身なりけり
 に戻りましょう。『山家集』には、この歌と前後して「捨てる」ということにこだわった歌が並べられています。
 前には
   捨てたれど隠れて住まぬ人になれば なほ世にあるに似たるなりけり
 後には
   捨てし折の心をさらに新ためて 見る世の人に別れ果てなん
 このように何首も、捨てる捨てないという歌が並んでいるのを見ると、読者は、西行が出家に際して深刻に悩んだということを想像することに導かれます。捨てるべきか捨てざるべきかという二者択一をめぐる問いに、青年西行は、数年を費す切実な課題だったという物語を生むことになります。この頃、つまり出家前後の西行の歌に独白あるいは自問自答の表現形式をもつものが比較的多いのは、この時期、彼が、身の在り方や心の在り方について深刻な思いを巡らした。そこから、数多く詠まれた西行の歌に内面の思索の跡を見いだすようになる。数多く詠まれた自問自答や独白の、しかも流麗さや優美さを欠いた一見拙い歌が、論理的、思弁的に聞こえてくる。それが、それまでになかった内省的な印象を読者に与え、今までの和歌との差別化を生んだのだと思います。

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