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2021年6月 5日 (土)

大熊玄「善とは何か 西田幾多郎『善の研究』講義」

11112_20210605184001  西田幾多郎の「善の研究」第3章善を、その全文を逐一註釈した、アンチョコのような本。「善の研究」は、若い頃に、岩波文庫の旧版を読んだが、翻訳の哲学書に較べて、日本語で書かれているというのが全然違うというのがよく分かって、すごく読みやすかった。概念を几帳面に定義して論理を丁寧に追いかけなくても、スラスラと筋を追えてしまうのが心地よかった。母語というのは、こんなにも違うのかと思った。19世紀の近代哲学の大きな潮流である大陸系の観念論と英米系の経験論の対立を相対的な視点から結局おんなじことを言っているんじゃないのと言っていたと思っていた。しかし、その具体的内容は覚えていない。この註釈では、「善の研究」は題名の通り、善を研究した著作で、第3章善がその中心になっているという。西田の言う「善」は「行為」であり、「行為」の動機として人間の欲求があり、欲求を満たすために人間は「行為」を「意志」する。しかし、意志よりも著者は「意思」を重視する。「意思」には行為の前に人間が思い浮かぶ様々な思念があり、行為の「像」(イメージ)がある。こうした「意思」の下で「行為」が為される。西田にとって「意思」と「行為」は一体のものとなっている。主観・客観の区別ないあるがままの経験が西田哲学の鍵概念となる「純粋経験」である。したがって、「善」を導く「意志」・「意思」・「行為」は主客未分の「純粋経験」に等しいことになる。
 ということは、何が善で、何が悪であるかという善悪を分かつのは神様のような他律的な基準ではなく、人自身にあることになる。そのとき、何が善となるかについて明確には述べていない。その基準があるとすれば、それは他律になってしまうから、あくまでも自律的に分かたれるということは客観的な既設の基準を認めることができないことになる。そこでは、何が善かという分からないということと、どこが違うのかという実践面での疑問に答えることはできないことになる。それは、おのずと善と悪は分かたれるということになってしまうだろうな、というところだろうか。西田かにすれば、そういう疑問は見当外れというなのか、読んでいて、他にも疑問が湧き上がってきた。それだけ刺激を受けたということかもしれない。

 

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