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2021年6月28日 (月)

古田徹也「不道徳的倫理学講義─人生にとって運とは何か」

11112_20210628215301  例えば、儒教の『論語』の中で孔子が「忠」とか「孝」という今の日本の社会では当たり前のことを繰り返し説いたのは、それが必要だったから。つまり、当時の社会では、それが当たり前ではなかったからで、500年続いた戦国時代は骨肉という言葉があるように、肉親でも自分以外は他人はすべて敵としないと生き残れないような社会だったから(現代の中国でも、そういうところは残っていると思う)。そこで、孔子は、まずは身近な親を敬うことから始めようと言わざるを得なかった。それだけでも、当時としては革命的で、だからこそ孔子は祖国を追放され、彼の学統は迫害されもした。つまり、倫理というのは、それほど反社会的な過激思想でもあった。これは、古代ギリシャのソクラテスも同じで、善とは何かが分かれば人はよく生きることができる、と説いたことで、死刑となった。こういう時の、善を説くというのは、善とは何かというスタートの時点に、つまり、善を実行しようという動機の時点で議論をすることにならざるを得なかった。例えば、18世紀のカントの「善意志」という考え方。人は善をしようという動機のみが善であるという。人に親切するということは、それが善であるから行うというもので、それ以外の動機、例えば、他人から親切な人であると思われたいといった動機が混じっていれば、それは利己心によるもので偽善でしかない。それは、孔子やソクラテスのように善がなかった社会に善ということを作ろうとする際には、そうせざるを得なかったからだ。しかし、現代の日本の社会からみれば、善だろうが偽善だろうが、親切を受けた側にとっては、どっちだって変わらないと思うだろう。そこでは、善をゴールの時点、つまり結果の時点からも見るということが違う。実際に何が違うかというと、たとえ悪意がなくても結果的に悪いことをしてしまったら、それが悪になるかどうか、ということ。著者は、ギリシャ悲劇のソフォクレスの『オイディプス王』を例にあげる。オイディプスは予言を誤解し養父を殺すことを避けるために旅にでて、偶然、実父と知らず殺してしまう。動機の時点では、オイディプスは善意志を持っていた。しかし、偶然の結果、父を殺してしまう。それを後で知ったとき、彼は自身の目を突いて罪をあがなおうとした。もともとの倫理学であれば、道徳的というべきが倫理的に自身を断罪しようとする。そこに、著者は人間の倫理性の可能性を見ようとする。
 道徳を説いた孔子やソクラテスが迫害されたということは、それだけ社会に対して挑戦的だったということ。いわば当時の一般的な人々に危険と感じられた、それほど彼らの言葉は生きていたと言える。しかし、現代のわれわれには、彼らの言葉は、ありきたりの陳腐な説教にしか聞こえなくなっている。それは、彼らの言葉が危険ではなくなって、常識とか、尊重されるべきタテマエとなっている。しかし、社会の状況は彼らの当時に比べて、果たして、道徳的に向上したと言えるだろうか。むしろ、彼らの言葉は万人が現実の社会で当然果たすべき義務として受けとめられている。そして、その義務に従わない者を、傍から、安全なところから容赦なく叩きのめすための手段となっている。例えば、芸能人や政治家等の不倫や失言に対する袋叩きなんかが典型的だ。それは、彼らの言葉が善をスタートの時点から捉えることが形骸化し、原理主義的な権威になってしまった。
 例えば、最近の池袋で元高級官僚の老人がオートマの自動車を暴走させて母子を死なせてしまった事例について、その運転していた当人は過失はないと証言し、それが確かだとすれば、自己は不可抗力で起こったのであり、運転者に責任はないのであり、それを被害者の家族が謝れというのは単に感情的な復讐心に駆られているということで、そっちの方が道徳的でないということになる。さらに、運転者が家族に謝罪したとすれば、責任がない、つまり罪がないのにあやまるということで嘘つきということで、そのことは道徳的に悪ということになるだろう。
 この議論は理性的な考えて倫理としては正しいのかもしれないが、感覚としては釈然としない。その時、例えば、『オイディプス王』の事例、善を知らなかったわけではなく、本人は善の意志があったにも関わらず、結果として悪となってしまったことについて、オイディプスは自身の自分で目を潰して、罪を自覚する。そこに、原理にとどまらない倫理の可能性を考えようとする。ただし、結果についても、人は責任があるというのではないのは言うまでもない。一義的に決めつける議論には収まらないのだということだ。

 

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