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2021年6月20日 (日)

西行の歌を読む(8)~花に染む心のいかで残りけん捨て果ててきと思ふ我が身に

  花に染む心のいかで残りけん 捨て果ててきと思ふ我が身に
Booksaigyou5  西行は出家して、しばらくして都を出て、吉野で草庵をむすび暮らしたといいます。その頃の歌ということで、白洲正子は西行が吉野に籠った理由を、待賢門院への思慕から解放されるためだったといいます。彼女の面影を桜にたとえたと。
  うきよには留めおかじと春風の 散らすは花を惜しむなりけり
  諸共にわれをも具して散りぬ花 浮世をいとふ心ある身ぞ
 桜への讃歌は、ついに散る花に最高の美を見出し、死ぬことに生の極限を見ようし、「諸共に…」の歌では、桜と心中したいとまで謳っていると言います。これらの歌を白洲は待賢門院の死を、散る花の美しさに喩えた感情移入していると言います。そこで、この「花に染む…」の歌は、心ゆくまで花に没入し、花に我を忘れている間に、いつしか待賢門院の姿は桜に同化され、花の雲となって昇天する。それによって西行は恋の苦しみから解放される。そういう歌だといいます。私には、それはフィクションの後付けに引きずられているように思います。ただ、和歌の読みが物語を生んで、それが歌の内容を豊かにしていくのは、伊勢物語の例もあるので、否定する気はありません。
 白洲正子の読みは、かなりロマン主義的で主観的な思い入れの強いものだとは思いますが桜の花への没入を詠んでいるということには変わりなく、その没入をどう解釈するかで、白洲は主観的に傾いている。ただし、歌を読むということは、個人が、その時によって、それぞれに意味をとればいいことなので、それが間違っているとは言えません。ただ、それではこの歌の魅力的な味わいが見落とされてしまうおそれがある。
 たとえば、この歌では上の句では「残る」と、下の句では「捨てる」という正反対の方向の動作が対句のように使われています。それが、心の動きの一筋縄にはいかない、あっていったり、こっち向いたりして揺れ動くという動きのダイナミズムを持ち込んでいます。
  あくがるる心はさても山桜 散りなんのや身に帰るべき
 では、花に憧れて心が彷徨い出ることと帰ることとが同じように対句的に使われています。
 この「花に染む…」の歌では、この後で「心はいかで残りけむ」と「いかで」つまり、どうしてという疑問とも反語ともとれる言葉を差し挟んでいます。したがって、最終的には白洲の言うような花への没入を肯定することにはなるのでしょうが、そこに留保のワンクッションが置かれている。そのワンクッションの間の心の揺れ動きが動きとして表現されているのが、この歌ではないかと思います。それだからこと、この歌を読む人は、この動きに導かれて同化するような感覚に捉われる。
 そうすると、読んでいる意味合いが白洲の場合とは違ってくると思います。今この時は桜の木を見ながら、この花の美しさに耽溺していたい。そう思う心、出家をしてすべての執着心を捨て去ったはずの自分自身の中に残っていたことを認めざるをえない。そう自省している。しかし、それに対して、この歌では何とも言っていません。否定も肯定も明らかにしていないのです。花の美しさへの執着を捨てきれないことを嫌悪するでもなく、かといって開き直るでもない。そのどちらでもない姿勢は結びの「我が身に」の「に」という助詞で投げかけるような終わり方をして、断定していないところに表われています。そのどちらでもないところが、強いて言えば、西行の特徴と言えるかもしれません。
 これをどのように解釈するかには、読む人によって分かれると思いますが、とくに決めつけることはないと思います。例えば、花の美しさに感動するだけでなく、人と共に喜び、人と共に泣くという人の心は失わず、感動する心は捨てていないという境地を詠んでいるという解釈。あるいは、花の美しさへの執着に対する徹底的な罪業意識を突き詰めたあげく到達した解脱の境地への道という解釈。こういう結論というよりも、結論の前の中途にいるというところで読んでいる方が似合っていると思います。
Booksaigyou6  少し脱線しますが、西行の待賢門院への思慕という物語では、例えば次の歌
  なにとなく芹と聞くこそあはれなれ 摘みけん人の心知られて
 何となく芹というのは哀れなものである、それを摘んだ人の心が思いやられて、と単純に読むことができますが、この「芹」というのが、源俊頼の「俊頼脳髄」でも芹摘みの故事と紹介されていることです。
  芹つみし昔の人もわがことも 心に物はかなはざりけり
                          (古歌)
 昔、宮中で庭の掃除をしていた男が、にわかに風が吹き上げた御簾のうちで、后が芹を食べているのを垣間見て、ひそかに思いを寄せるようになった。何とかして今一度彼女の顔を見たいと思うが、卑賤の身ではどうすることもできない。もしかしたら気がついてくれる時もあるかもしれないかと、毎日芹を摘んで御簾の傍らに置いていた。それを長年続けていたが、反応はなく、男は恋患いになって死んでしまった。
 西行の歌は、この「芹つみし昔の人」の心を自分の心に重ね合せて詠んだと、そして、この故事の后を待賢門院に擬して詠んだと、例えば、白洲正子などは解釈しているようです。宮中の高貴な女性に思慕する身分違いの武士、叶わぬ恋というのは、作家や論者の魅力的な対象なのだろうと思います

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