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2021年7月27日 (火)

西行の歌を読む(11)~春風の花を散らすと見る夢はさめても胸のさわぐなりけり

   夢中落花と云事を、清和院の斎院にて人々よみけるに
  春風の花を散らすと見る夢は さめても胸のさわぐなりけり
 この歌について、小林秀雄は“私達の胸中にも何ものかが騒ぐならば、西行の空観は、私達のうちに生きてゐるわけでせう。まるで虚空から花が振って来る様な歌だ。厭人も厭世もありはしない。この悲しみは生命に溢れてゐます。この歌を美しいと感ずる限り、私達はめいめいの美的経験のうちに、空即是色の教へを感得してゐるわけではないか。(小林秀雄「私の人生観」)”と書いている。この小林の言葉をもとに山本幸一は、落花の風景に魅せられた耽美の体験が、覚醒した者の胸に鼓動している。そういうことを受け入れ、のびのびと詠嘆する。そういう高い境地の歌だと言います。その風景は情緒をふるえさせるとともに、知恵を目覚めされる。そして再び心情のさやぐ風景へと高められていく。詩心と思念との融合によって達成されたひとつの境地だと言っています。しかし、このような表現の境地は、なにも西行の独創というのではなく、春─花─散る─夢というような符号、連想の系統が和歌表現の伝統として存在していたと言います。
 例えば『万葉集』の山部赤人の歌
  春の野にすみれ採みにと来しわれそ野をなつかしみ一夜ねにける
 そして、『古今集』では紀貫之の歌
  春の野にわかなつまむとこしものを ちりかふ花にみちはまどひぬ
  やどりして春の山べにねたる夜は 夢のうちにも花ぞちりける
 『古今集』では上記の二首がひとつづきに並んで収められていて、制作年代も詠まれた場所も別々のこの二首が時間的に場面が進行するような情趣の流れが感じられるように構成されています。『万葉集』の山部赤人の歌の「すみれ」は、紀貫之の歌の「わかな」に引き継がれ、赤人の歌では生活の一部であったすみれ摘みは、紀貫之の歌では、平安時代の貴族社会では行事として形式化つれ、しかも季節の循環を区切る行事の世界から埒外に脱け出た個人の情感が「ちりかふ花にみちはまどひぬ」という表現に表われています。さらに、「夢のうちにも」という甘美な情趣に身も心もつつまれた表現に至るのです。
 西行の独自性とは、この伝統に思念の裏付けを加えたことだと言います。「さめても胸のさわぐなりけり」という表現は、夢の中にまどろんでいることから脱け出して、目覚めているわけです。そこでは趣向ということに留まっていないというわけです。
 ここで、この歌の詞書を見てみましょう。「夢中落花と云事を、清和院の斎院にて人々よみけるに」というのは、この歌は夢中落花のテーマで、人々が集まったところで詠まれたというもので、実際に夢を見ていたというのではなく、そういうことを観念として詠んでいるという歌です。また、詞書の「清和院の斎院」というのは待賢門院の皇女の上西門院(統子内親王)というひとで、西行の憧れの女性と言われる待賢門院を偲ばせる美しい女性だったと言われています。そのサロンで詠まれたということは、夢中落花を今は亡き待賢門院を夢に見るということと重ね合せて、この歌の「さめても胸のさわぐなりけり」を待賢門院を夢に見て、胸が騒ぐという物語を起こすという読みもできる可能性もあるので、西行は、そういう読まれ方も考えていると、私には思います。私には、そういう意図的なところ、ある意味ケレンに近いところが、後の世の現代の私のような人間にとっての親しみ易さになっていると思います。

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