菅賀江留郎「冤罪と人類─道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」
戦前や戦中や戦後に起った冤罪事件を調べ、何故そういう事が起きたかを調べたノンフィクション。静岡県で戦争中におこった連続殺人事件「浜松事件」と戦後6年目に起きた冤罪事件「二俣事件」を取り上げる。「浜松事件」の事件解決に偶然に貢献した刑事が脚光を浴びることになる。しかし、彼の声価は戦時下の内務省と司法省の警察権力をめぐる対立が生みだした虚像だった。その後、敗戦と占領によって内務省は解体され、警察が再編されるなかでその虚像が一人歩きを始める。その刑事は、期待を集めるなかで次々と重大事件を解決したのだが、手段は拷問による自白、証拠の捏造、供述調書の創作という冤罪によるものだった。この本で取り上げた「二俣事件」はその典型だった。
能力もあり、正義感の強く仲間思いだった刑事が、当時の治安状況や警察の事情からうけたプレッシャーと独り歩きした虚像に押し流されるように、彼は善意のうちに冤罪に手を染めていった。
どうしてそんなことになったのか、その要因がこの本の副題にある道徳感情なのだと著者は指摘する。人間の本性の一部をなす道徳感情は、人類の進化の過程で獲得した心の性質。それは、仲間を救っておけば、自分が危険に遭ったときに助けてもらえるという互助の心性だ。これが言語によって抽象化、一般化されたときに社会的サンクションに変化する。しきたりとか慣習等と言われる道徳感情のシステム化だ。しかし、この道徳感情は時として短絡に走り、自己破壊的に作用してしまう。変な喩えかもしれないが、5.15事件や2.26事件の青年将校たちは私心なく純粋に国を憂いたがゆえに、責任を感じることも感情も良心の呵責もなく、まともな感覚があればとてもできないことでもやってしまえた、と著者は言う。
つまり、人は誰でも道徳感情をもっているがゆえに、冤罪の加害者になりえるのだということになる。著者は、それを防ぐためには、多様性の中にいること、つまり自分とは異なる意見をつねに脇に置いて独善の歯止めとすることだという。そこで民主的プロセスというものの意義を再認識させられることになると思う。
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