大木毅「日独伊三国同盟『根拠なき確信』と『無責任』の果てに」
第二次世界大戦前夜の日独防共協定から日独伊三国軍事同盟の締結となり、対米宣戦に至ってしまう、ドイツに惑わされ、利害損失を十分に計算することなく、枢軸国と結び米英と戦うに至るまでの経緯を物語風にまとめたもの。著者は、これを主役のいない物語という。長期的な見通しも、確固たる戦略もない脇役が、次から次へと立ち現われ、ただ状況に翻弄されるなか、利己的に動き回る。その行く先が奈落の底であるとも知らず。皇国の存亡、国運の浮沈といったことを、当時の政府や軍部の指導者たちはしばしば口にしたが、心の底では国が滅びるなどありえないと高を括って、国益よりも自身や組織の保身、あるいは功名心を優先した。歴史家の加藤陽子が、破滅の回避のチャンスはいくらでもあったのに、自覚でも無自覚でも、それらのすべてチャンスをことごとく外していってしまったのを、彼らは受け身で対していたと分析した。この著作では、それを群集の集団心理のような個人が主体的責任を持ち得ない行動の積み重ねとして描写する。
しかし、これは現代の日本でも、それを批判できるのか、とも投げかけている。例えば、バブルの頃には、日本経済の繁栄は永遠に続く、地価は右肩上がりのままだといったあり得ない言説が真顔で唱えられていた。それほどの誤謬でなくても、親方日の丸意識もとに税金を浪費する政治家や官僚は、後を絶たない。最近の政策論議などもそうだが、国家財政が破綻し、彼らを養えなくなる事態が来ないという保証などどこにもないという危機感を自覚しているとは到底見えない。この著作で取り上げられている戦前のリーダーたちと、どこが違うのだろうか、と思ってしまう。ただし、そんなことを思っているということは他人事となってしまう、言われても反論しようもないのだが。
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