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2021年11月15日 (月)

山根貞男「東映任侠映画120本斬り」

11112_20211115204001  東映の任侠映画というは1960年代後半から10年くらいの間に量産された一連のプログラム・ピクチャーで、マスコミとか偉い識者のセンセイ等の言説では当時の学生運動の盛り上がりと結びつけて全共闘の学生たちの反体制的な情念を受け留めるものとして、アジテーションに「異議なし」と応じるのと同じ声が映画館の中で「健さん」という声がかかって、人気を博したなどと語られている。しかし、リアルタイムで新宿の映画館で見ていた著者によれば、詰めかけていた客の大半は下駄ばきのニイチャンやネエチャンたちで学生らしき人は少数派だったという。明治とも大正とも昭和初期とも特定できないが昔っぽい風景で、着流し姿の男が容易に手にすることができないはずの日本刀を携行し、非道を重ねる悪玉をやっつける。これは、ハリウッド映画の西部劇が歴史的事実の根拠が稀薄なノスタルジックなファンタジーだったのよう同じようなので、高度経済成長のあくせく働く人々の日々の鬱屈を受け留める娯楽だったと指摘する。
 そして、この著作の白眉は、そういう視点で120作もの任侠映画をひとつひとつ語っていること。健さんなどのヒーローを讃美するのでも、単にあらすじを語るのでもなく、それぞれの映画としての楽しみを語っていて、それらを読んでいると、映画をみたくなるところ。例えば、加藤泰という監督の特徴であるローアングル(ローアングルというと、小津安二郎監督の固定ショットが有名だが、それとは印象が違う)で撮られた藤純子の仁義を切る姿の美しさと、その視線の低さが社会のどん底であるやくざの低さに視線を落として世界が見えてくるという没入の感じを見る者に持たせるといったことなど。実際、緋牡丹お龍の、今から見るとちょっと倒錯したような美しさに目を見張ってしまった。

 

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