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2021年12月

2021年12月24日 (金)

渡辺浩「日本政治思想史〔17~19世紀〕」

11112_20211224222101  先日読んだ『明治革命・性・文明:政治思想の冒険』が面白かったので、同じ著者の著作。『明治革命・性・文明:政治思想の冒険』の前史を扱ったと言える。書名からは専門的な学術書のように見えるが、全然違う。著者も述べるように、専門知識を前提にしない一般向きに書かれた概説書になっている。とはいっても、無味乾燥な教科書ではない。17世紀から19世紀、ほぼ江戸時代から文明開化期までの、日本の政治思想をいくつかのポイントをあげて、それらを繋いで全体像を描いていく、そのポイントの選び方のセンスの良さと、各ポイントの描き方が単独で取り出しても面白く、本格歴史エッセーと呼ばれるべきものとなっている。
 伊藤仁斎、荻生徂徠といった儒者から海保青陵のような姿勢の経世済民の学者、福沢諭吉といった人たちの思想の概説は単なる紹介の域を超えて、彼らが時代の中で何を考えたかを活き活きと伝えてくれて、丸山真男の『日本政治思想史研究』ではさっぱり分からなかった仁斎の「愛」について、はじめてイメージすることができた。
 徳川幕府の統治体制というのは、強いパワーに裏打ちされた権力支配が安定し定着したもので、そのシステムが安定すると権力がいちいち指示しなくても、末端は権力の意向を忖度して自主的に随従するという、いわば「無為にして治まった」状態を生んでいた。そうなると権力は拡散し、各人は先例通りに動く、外見上は合意による統治の形に見えた。しかし、それが変革を試みたら、絶対と見えていた権力が、実は統治者の慣れによる受忍によって機能していたこと、いわゆる「裸の王様」であったことが暴露される。それがペリー来航と、その後のごたごたで明らかになり、そこから砂の楼閣が崩れるように、わずか15年で瓦解してしまった。だから、安定した支配体制の下では、権力にとって正統性は不可欠ではなく、それを保障する思想は切実に求められなかった。朱子学にしても武士道にしても、思想というのは趣味の域に留まるか、体制に反抗する人々が求めるものでしかなかった。それが、ペリー来航後に支配の安定が崩れると、それが切実なものとなって、例えば朱子学は西洋の文明をとり入れる下地として実体的な機能をもつものとなって、人々の行動の変化に関わっていくものとなっていった。それは、現代から見ると、江戸時代から朱子学は幕府のイデオロギーであったように見えてしまった(丸山真男の著作などは専ら、このような考えを補完するものと言えた)。思想家の事蹟や構想をただ並べただけの凡百の解説書のような思想史の捉え方をする、気楽な現代の思想史の捉え方に対して一石を投じるものでもあり、実はここで取り上げられている、仁斎も徂徠も宣長もそういう問題意識を強く持っていた人々で、彼らの方法論の根幹にかかわるものであったことは、著者が彼らに秘かに共感するところがあったのではないかと感じられる。
 また、上述のように、徳川幕府の統治体制というのは、強いパワーに裏打ちされた権力支配が安定し定着したもので、そのシステムが安定すると権力がいちいち指示しなくても、末端は権力の意向を忖度して自主的に随従するという、いわば「無為にして治まった」状態を生んでいた。そうなると権力は拡散し、各人は先例通りに動く、外見上は合意による統治の形に見えた。そんな体制でペリーが来航して開国を求めるという先例にない事態への対応を迫られた時、当時の幕府中枢である老中阿部正弘は諸大名に意見を求め、禁裏に報告した。幕府独断に人心がついてくるか自信がなかったから、禁裏も諸大名も合意したという正統性を求めたと言える。
他方で、権力の専横から議論による合意を儒学が後押しした。第一に賤しい民にも下問を恥じないのは治者の美徳であるということ、第二に自ら内面を「省察克治」しつつ「講習討論」することは学問・修身の基本であり、同じように広い一致をみた「公論」は「理」に適っている。これが五箇条の誓文の「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」へと至る。
 明治政府の大日本帝国憲法による帝国議会は、西洋的な議会というより上記の五箇条の誓文に表わされた古い「公議」「公論」である面が強いという。そうなると、大日本帝国憲法を改正したことになっている日本国憲法による現在の国会は、帝国議会の場合と同じように、古い「公議」「公論」を引き継いでいることになる。つまり、欧米の議会で行われている議論とは違うものを求められているということになる。それは、問題提起を含んでいると思う。

 

 

2021年12月15日 (水)

岡野友彦「院政とは何だったか~『権門体制論』を見直す」

11112_20211215225501  日本史の教科書で、院政とは譲位後の天皇が上皇として権力を握り続けることで、天皇が最高権力者であった律令体制から藤原氏が実権をにぎる摂関政治、そして上皇に権力が移った院政、そして武家政権に移るという説明しかなされていない。どうして院政の上皇が譲位したというだけで天皇に対して権力を持てたかということは分からない。荘園が発達した当時、天皇自身は荘園を持つことはできなかった。なぜなら、公地公民の建前で、天皇は形式的には国内はすべて天皇の土地ということになっているので、その一部をあらためて荘園として天皇の所有とすることは二重に所有することになってしまうので、できなかった。そのかわりに荘園を持つことができたのが天皇を辞めた上皇だった。上皇は日本最大の荘園領主で、天皇は荘園からの収入がなく、父親である上皇の管理する荘園からの収入で生活していた。そのため、天皇は上皇に逆らうことができなかった。
 現代の常識にとらわれる我々は、古代に日本という国家が誕生して以来、今日に至るまで、つねにその時代の政府が税を徴収し、その税収によって国家を運営し、官職である貴族や天皇はそこから給料を得ていたと思ってしまうが、律令制度の国家財政は10世紀末には破綻してしまっていたため、摂関貴族や上皇といった権力者は、それぞれの荘園からの収入を基本的な経済基盤としていた。そこで荘園とは何かということなんだが、それが日本史の教科書では説明できていない。
 例えば、征夷大将軍という官職は、足利家や徳川家という家のものとなって、家の代々の長が相続するものとなっていた。国司などの公地公民制のもとで徴税を担っていた官職も征夷大将軍と同じように藤原氏とか各地の家の所有物のように代々が相続されるようになっていた。そうなると国司の所轄する公地とそこから徴収する税は、見かけ上は私有地と収入と区別がつかなくなる。徴収した税は最終的には中央の国庫に納めるわけだが、公地が荘園という領有にかわったところで、中央に納める税は中央の上皇や摂政関白に寄進するという形に変わる。これは上の方で、逆に下の方では、農民は公地としてあてがわれる口分田から、所有を認められる墾田に変わり(それが荘園)、税を国司に納めることから寄進することに変わる。つまり、律令制度の公地公民とその徴税が荘園制と寄進ということに置き換わったということで、荘園制度は中世ヨーロッパの荘園領主のような大土地所有ではなかった。こうすると、教科書の古代、中世、近世、近代といった時代区分が揺らいでくる。

 

2021年12月13日 (月)

笹澤豊「〈権利〉の選択」

11112_20211213224801  「権利」という日本語を普段使っているが、これは外来語であり、英語では「right」だ。ところで、単にrightの意味を考えると「正しい」というのが本筋だ。たしかに権利に当たる「right」には正しいとか正義という意味合いが含意されている。しかし、日本語の「権利」という語には、「権」は力という意味合いで、「利」は利害とか利益の意味合いで、正しいという本意が抜け落ちてしまっている。そのことに疑問を持ったことから始まって、実は「権利」という日本語はrightの実態の深層を突いていたのではないかという結論に辿り着く。その議論がなんとスリリングだったことか。「えっ?こんなだった?」という嘆息が洩れてしまうほど。
 「権利」という訳をした一人に加藤弘之がいる。加藤はrightを「利を保護する力」という意味に捉えた。国家が人民の利を保護する、利の侵害から護る機能を認めるということを認めたからだという。これは、近代国家の市民の所有権や自由競争を封建的な横槍から護ったという外形と重複するところがある。しかし、この考え方では自然権といういわば天賦人権論とは結びつかない。これに対して、福沢諭吉は『学問のすすめ』の中でrightに「権理」の語を充てる。人民の権(力)には理(正当性)があるという自然法の考え方を意識してのものだった。福沢は、その後『国会論』において、天賦人権論といえども、それを受け容れようとしない勢力に対しては、力によって対抗するのは当然であり、それはつまり「理」を受け容れることを迫る力であると言った。そこに至って、福沢はrightの訳語を「権理」から「権利」に替えた。ここで、福沢はrightに含意されていた正しいを排除する。実際のところ、明治政府のリーダーたちは富国強兵という目標を掲げた。これはrightの人間は平等に配慮され尊重されねばならないという立場と対立することになる。しかし、当時の人々は、この富国強兵に乗っかることが自己の利益の増大につながると判断して、政府を支持した。そして、その人々の判断が独り歩きして昭和初期には却って政府を煽って戦争への道を踏ませてしまうに至る。ここで、国家を支配するのは最も力のある者という「権」が多数である人民、大衆でありうることに繋がる。これは言ってみれば、実は人民主権ということになる。福沢は、そういう在り方を洞察したからこそ、「権理」を「権利」に替えたのだと著者は分析する。そうであるとすれば、rightに基づく人民主権というのは建前に過ぎず、実際は前述のような利をベースにしてパワーゲームだったということになる。天賦人権論はそういう実体を隠蔽するフィクションとして機能していたという意外な結末に導かれる。
 もっとも、このような概観はフィルターをかけた読みによるもので、この著作の議論は、よく言えば精緻、悪く言うと細かすぎて読み通すには根気が必要で、読者に忍耐力を要求するものであることは否定できない。

 

2021年12月 9日 (木)

小坂井敏晶「格差という虚構」

11112_20211209215501  刺激的なタイトルだが、格差が重大な問題として扱われている。その格差というのは平等と対比して考察されている。とはいえ、各個人はそれぞれ違う、言い換えれば差がある。そこで、結果の平等ではなく機会の平等をうたう。つまり、均等な機会を万民に与え、自由競争をさせる。その結果生まれる差か公平だという。能力や功績に応じた収入と地位を保障する原理、これをメリトクラシーとよび、法の下の平等も同じ考えによる。本書はこのメリトクラシーの欺瞞を暴き出していく。かつては強力な身分制度により、階級間の移動は困難だった。それに比べれば、個人の能力によって地位が決まるメリトクラシーは一見正当なものに思える。しかし、この考え方の根本となる「個人の能力」などと言えるものは存在しない。個人の能力が違うからその結果として成果に差が生じるのではなく、そもそも格差があって、その格差を正当化し、公平であると説明するために能力というツールが生まれたのだという。その分析のプロセスで、格差にまつわる言説をひとつひとつ解体していく。どうしたら格差が無くなるか、どのような世の中にしていくべきか、そんなことは語られない。人間がひとりひとり違う以上、格差はなくならないし、格差が小さくなれば嫉妬や苦しみはむしろ大きくなる。それよりも、格差が社会においてどのように受容・隠蔽および反発されていくのか、前提となる仕組みを明らかにしていく。
 では、そもそも格差があるという、どういうことか。人間というのは他者との比較を通じてアイデンティティを育むものだ。他者との差が「私」をつくる。だから格差のない社会に人間は生きられない。そこで格差を減らせば、その小さくなった違いに人はますます固執する。つまり、格差で生まれる苦しみは減らない。格差は、人間が社会をつくり、そこで生存する生き物であることと切り離すことはできない。シニカルな議論が続くが、そこで、どうすればいいか。著者なりの結論に興味がある人は、手に取って読んでほしい。ここで簡単に要約してしまうと、おそらく著者の真意は伝わらないだろうと思う。

 

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