小坂井敏晶「格差という虚構」
刺激的なタイトルだが、格差が重大な問題として扱われている。その格差というのは平等と対比して考察されている。とはいえ、各個人はそれぞれ違う、言い換えれば差がある。そこで、結果の平等ではなく機会の平等をうたう。つまり、均等な機会を万民に与え、自由競争をさせる。その結果生まれる差か公平だという。能力や功績に応じた収入と地位を保障する原理、これをメリトクラシーとよび、法の下の平等も同じ考えによる。本書はこのメリトクラシーの欺瞞を暴き出していく。かつては強力な身分制度により、階級間の移動は困難だった。それに比べれば、個人の能力によって地位が決まるメリトクラシーは一見正当なものに思える。しかし、この考え方の根本となる「個人の能力」などと言えるものは存在しない。個人の能力が違うからその結果として成果に差が生じるのではなく、そもそも格差があって、その格差を正当化し、公平であると説明するために能力というツールが生まれたのだという。その分析のプロセスで、格差にまつわる言説をひとつひとつ解体していく。どうしたら格差が無くなるか、どのような世の中にしていくべきか、そんなことは語られない。人間がひとりひとり違う以上、格差はなくならないし、格差が小さくなれば嫉妬や苦しみはむしろ大きくなる。それよりも、格差が社会においてどのように受容・隠蔽および反発されていくのか、前提となる仕組みを明らかにしていく。
では、そもそも格差があるという、どういうことか。人間というのは他者との比較を通じてアイデンティティを育むものだ。他者との差が「私」をつくる。だから格差のない社会に人間は生きられない。そこで格差を減らせば、その小さくなった違いに人はますます固執する。つまり、格差で生まれる苦しみは減らない。格差は、人間が社会をつくり、そこで生存する生き物であることと切り離すことはできない。シニカルな議論が続くが、そこで、どうすればいいか。著者なりの結論に興味がある人は、手に取って読んでほしい。ここで簡単に要約してしまうと、おそらく著者の真意は伝わらないだろうと思う。
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