岡野友彦「院政とは何だったか~『権門体制論』を見直す」
日本史の教科書で、院政とは譲位後の天皇が上皇として権力を握り続けることで、天皇が最高権力者であった律令体制から藤原氏が実権をにぎる摂関政治、そして上皇に権力が移った院政、そして武家政権に移るという説明しかなされていない。どうして院政の上皇が譲位したというだけで天皇に対して権力を持てたかということは分からない。荘園が発達した当時、天皇自身は荘園を持つことはできなかった。なぜなら、公地公民の建前で、天皇は形式的には国内はすべて天皇の土地ということになっているので、その一部をあらためて荘園として天皇の所有とすることは二重に所有することになってしまうので、できなかった。そのかわりに荘園を持つことができたのが天皇を辞めた上皇だった。上皇は日本最大の荘園領主で、天皇は荘園からの収入がなく、父親である上皇の管理する荘園からの収入で生活していた。そのため、天皇は上皇に逆らうことができなかった。
現代の常識にとらわれる我々は、古代に日本という国家が誕生して以来、今日に至るまで、つねにその時代の政府が税を徴収し、その税収によって国家を運営し、官職である貴族や天皇はそこから給料を得ていたと思ってしまうが、律令制度の国家財政は10世紀末には破綻してしまっていたため、摂関貴族や上皇といった権力者は、それぞれの荘園からの収入を基本的な経済基盤としていた。そこで荘園とは何かということなんだが、それが日本史の教科書では説明できていない。
例えば、征夷大将軍という官職は、足利家や徳川家という家のものとなって、家の代々の長が相続するものとなっていた。国司などの公地公民制のもとで徴税を担っていた官職も征夷大将軍と同じように藤原氏とか各地の家の所有物のように代々が相続されるようになっていた。そうなると国司の所轄する公地とそこから徴収する税は、見かけ上は私有地と収入と区別がつかなくなる。徴収した税は最終的には中央の国庫に納めるわけだが、公地が荘園という領有にかわったところで、中央に納める税は中央の上皇や摂政関白に寄進するという形に変わる。これは上の方で、逆に下の方では、農民は公地としてあてがわれる口分田から、所有を認められる墾田に変わり(それが荘園)、税を国司に納めることから寄進することに変わる。つまり、律令制度の公地公民とその徴税が荘園制と寄進ということに置き換わったということで、荘園制度は中世ヨーロッパの荘園領主のような大土地所有ではなかった。こうすると、教科書の古代、中世、近世、近代といった時代区分が揺らいでくる。
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