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2022年1月

2022年1月27日 (木)

八木雄二「『神』と『私』の哲学~キリスト教とギリシャ哲学が織りなす中世」

11112_20220127210601  この本のユニークなところは二つある。一つはヨーロッパの言語と日本語のことばの構造の違いに焦点をあてて哲学とか科学というものを考えようとしたこと。言葉の構造というのはものごとを考える道筋だから。この点については、本の帯にも、そういうことが書かれているので、この本を読めば誰でも気が付くこと。もうひとつは、私には、こっちの方がストンときたのだが、そういうヨーロッパの物事を考える道筋から、哲学という考えることをどうして昔の人は始めたのかの、著者なりの物語を考えたということ。それは、私には、とても腑に落ちる、というか共感できるものであったということ。それは、従来の哲学の著作は完成品として哲学を扱っていたのに対して、この本では仕掛品か、あるいは原材料を想像してみようとした点にある。
 例えば、ヨーロッパ哲学の源流と言えるギリシャ哲学。古代ギリシャは小アジアの集落の連合のようなものだった。隣にはペルシアという大帝国が圧倒的な力で迫っていた。当時のペルシアは石造りの神殿や王宮を持ち、正確な暦を持っていた。数えきれない人々と、麦の生産、分配が統制されていた。そのうえ天文的知識をはじめとする古代メソポタミア文明以来の高度な文化を持っていた。これに対して当時のギリシャは神殿もーすら木製だった(アテナイのパルテノン神殿はペルシアとの戦争に勝利した後に、国威を示すために造られた)。ギリシャ人たちは、まともに立ち向かっても敵わないことは明らかで、ペルシアの圧倒的な力の源に、自分たちの知らない知識があることに気が付いていた。その知識を自国のものとしなければ、いつペルシアが牙をむいて自分たちを征服してくるか分からなかった。ギリシャ人はペルシアの脅威に接しながら、それでもペルシアから多くの知識や知恵を学び、数世紀をかけて自分たちの言葉(ロゴス)に置き換えて吸収し、科学や哲学を生みだしていった。
 これは幕末の黒船襲来によって強力な大砲という日本が太刀打ちできない強力な武器に表われたヨーロッパの脅威に直面し、必死になって先進技術や知識を吸収し、列強の侵略を免れるための交渉のために彼らの言葉や考え方、知恵を、日本人も駆使できるように努力を重ねたのと同じではないか。つまり、哲学というのが有閑階級が暇潰しにやっていて、たまたまできちゃったようなものではなくて、必要に迫られて止むに已まれず生みだされたものだった。

 

2022年1月23日 (日)

塚谷泰生、ピーター・バラカン「ふしぎな日本人─外国人に理解されないのはなぜか」

11112_20220123222701  自分の意見を強く主張しない日本人の引っ込み思案な性格は、外国人には理解しがたいという。この要因となる日本の集団主義は、世界にも稀なほど高度な労働集約で行われる稲作に起源がある。
 稲はもともと熱帯・亜熱帯の農作物で、温帯気候の日本には適さなかったのが、徐々に品種改良により寒冷地栽培ができるようになった。しかし、そこには無理があったために、日本での稲作には多くの困難が伴うものとなった。例えば、熱帯のタイやインドでは、水田に種を直播きして収穫を待てばよく、二期作や三期作ができるので、仮に台風等で一度不作になっても、年内に再度収穫がある。だから、一度の不作でも飢えることはない。これに対して、日本は1年に1度しか作れないので、稲作の失敗は飢えに直結してしまう。だから失敗は許されない。
 日本には火山が多いので土地は火山灰土で痩せている。しかも酸性土壌で、養分が少ないうえに水田では水の確保も必要なのに、軽石のようなものだから、水を溜めておきにくい。そこで、表土を突き固めて水が抜けにくくする必要がある。そういう田んぼを単につくるだけでなく、水を確保するための灌漑、治水を集団作業で行わなければならない。このような田んぼや水といった準備が整ったら、農作業、例えば田植えだ。品種改良された日本の稲はひ弱なので雑草との生存競争に勝てない。だから、ある程度成長した苗で田んぼに植えて、種の状態の雑草に対してスタート時点で競争の優位を作り出す。そうしないと日光の吸収などで収量に影響する。この田植えを短期間で集中的にしなければならないので。集落総出で、集団で一気に終わらせる。地形、地質、気候に恵まれていない日本の農業は個人で稲作ができないほど労力が必要なため、集団で働くことを前提とせざるをえない。つまり、個人では生きて行けなかった。毎年の梅雨の具合とか夏場の気温、度重なる台風の襲来、収穫時期ら米が穫れるかどうかで、生命が脅かされる危険をはらんでいたのが日本のコメ作りだった。集団で取組み、失敗しないようにお互いを監視しながら、リスクを最小限にとどめるための仕組みが常に必要とされた。集団の中で誰かが勝手な行動をしたり手を抜いたりして機能しないと、それが連鎖して全体に影響を及ぼし、最悪の場合は収穫ができずに全滅してしまう。このことを全員が認識して互いを監視してまで、すべてを厳格に着実に計画通りに作業する必要があった。
 そのような集団、いわゆるムラでみんなでいることで、ようやく食べていくことができた。その結果共同で稲作することが生活、生命の基点となって、個人の幸せとか利益というより、その食料・お金の生産組織である集団の利益の利益が優先されるようになったのは無理もない。集団の組織が暗黙のルールを用意し、人々はその中におとなしく収まっていればよかった。欧米のように、議論とか個人の考える訓練をしてこなかったのは、必要なかった、むしろ邪魔であったからだ。
 ちなみにヨーロッパの農業は、広大な平地と豊かな土壌に恵まれ、端的にいえば好きな時に種を蒔いて、収穫を待てばよかった。だから、個人個人が各自バラバラで、すきなように農作業して収穫ができた。そこには、個人を主張できる余裕があった、と日本の側から言うことができる。著者は、グローバルな視点で、このような日本の文化は守りの姿勢で、ヨーロッパのような攻撃的な文化には競争に負けてしまうという。私には、著者の視点はヨーロッパの人から見て、日本の特徴を説明するのに、とても説得的だが、あくまで視点はヨーロッパ的というバイアスがあると思う。いい意味でも悪い意味でも。

2022年1月20日 (木)

田口茂「現象学という思考 〈自明なもの〉の知へ」

11112_20220120221601  何の疑いもなく「確か」だと思われていることは、当たり前なことだから殊更に「確か」であると言われることはなく、そのような言わずもがなの「確か」を探究しようとするのが現象学というものだ、という。
 たとえば、科学も、当たり前を探究する。リンゴが木から落ちるのは当たり前で、誰もが知っている。しかし、この当たり前の事実を重力という力によって説明するということは、決して自明ではない。科学は自明なことを事実として前提した上で、そこに潜んでいる新たな事実を明るみにだす。これに対して、リンゴが木から落ちるのなぜ当たり前と思えるのか、を問うのが現象学の姿勢だという。ここで、当たり前、つまり「確か」であるということを絶対的に追究したものとしてデカルトの方法的懐疑がある。「確か」なものを究極に追究して「我思うゆえに我あり」に行き着いたというが、釈然としない。そうではなく、われわれが「確か」であるとは、どのような状態を指しているのか。例えば、人が自転車に乗っている時、ペダルを漕いだりハンドルを左右に動かしていたりという複雑な身体運動を意識しているわけではない。この意識は当たり前ゆえに言わずもがな、確かであるという信頼ゆえに、あえて問わない、つまり意識として現われてこない。このときのような、人が事物や経験に対して、どのように向かい合っているかという構造が現象学のテーマとなってくる。それは、人と事物との関係であり、人と人との関係である。
 フッサールの現象学の解説というと竹田青嗣の著作に、たいへん世話になったが、竹田の解説では私つまり主観が事物つまり客観をどのように認識するのかという議論になって、新カント派の主観論と見分けがつかなくなるところがあった。この著作の説明では、カントの物自体と現象という考え方とは、そもそも異質であるということがはっきり分かる(カントはデカルトの究極の系譜を引き継いでいるだろうから)。でも、この著作の解説では、フッサールからハイデガーやシェーラーに連なっていくことが分からなくなった。
 哲学の専門用語を使っていないので、読み易いが、考えさせられる、というより考えながら読む著作だと思う。

2022年1月12日 (水)

古田徹也「いつもの言葉を哲学する」

11112_20220112224801  新聞に連載したコラムをまとめたもので、それぞれのコラムは一話完結だが、それぞれの話は生活の具体的場面で息づく言葉のありようをエピソードとして取り上げている。そこに底流する著者の姿勢は、言語とは生きた文化遺産であり、言葉を用いるということはそれ自体、人々の生活のかたちの一部である、ということ。他方で、多くの言葉には物事に対する特定の見方が含まれているということ。言葉というものには、このような特徴があるために、ここで、言葉の古い用法や誤った用法などに触れることによって、普段は気に留めていなかった物事に注目したり、それを従来とは異なる仕方で捉える機会を得ることができる。
 そういう言葉の機能は反面で行き過ぎると、普段用いられる語彙や表現形式といったものに対する過度の規格化や「お約束」の蔓延といった事態を招く。この事態が言葉の平板化や応答の形骸化を招き、言葉の勢いや熱量といったものが物事の真偽や価値の代用品となるに至る。昨今の「炎上」という現象は、その現代的なあらわれだろうと思う。
 このような言語をめぐる危機的な状況を見据え、応答の形骸化すなわち、ありがちな言葉(常套句)を小気味よくやり取りするような思考停止ではなく、反対に迷いながら意識的にしっくりくる言葉を手探りすることを提示する。この模索の際には、われわれは自分にとって既知の言葉の中で迷う。つまり、しっくりくる言葉の選択は、自分がこれまでの生活の中で出会い、馴染み、使用してきたものの中から。それゆえ、言葉の探索は自ずと、これまでの自分自身の来歴と、自分が営んできた生活のかたちを振り返ることになる。
これって、「自分の言葉」で語るということと同じだよな、と思う。

 

2022年1月 7日 (金)

「自立」は「依存」の反対ではなく、そのパターンのひとつ

 「自立」とか「独立」といっても、そもそも人は1人だけで生きていけるわけではない。実は膨大なものに依存しているのに、「私は何にも依存していない」と感じられる状態が「自立」といわれる状態。依存先がたくさんあって、ひとつひとつへの依存度を浅くすると、何にも依存していないかのように錯覚できてしまう(古田徹也『いつもの言葉を哲学する』)。これは、企業の事業戦略としてみれば、納得しやすいと思う。例えば、ある自動車メーカーの傘下にはいって、もっぱらそのメーカーに部品を納入している下請会社は、その自動車メーカーに依存している。これに対して、同じ部品を1社ではなく複数の自動車メーカーに偏りなく納めている会社は独立系と言われる。自立した人というのも、この独立系の会社と同じように、依存先を単一にするリスクを避けて分散させている人のことだと思う。だから、自立の反対は依存ではない。

2022年1月 5日 (水)

佐藤道信「〈日本美術〉誕生 近代日本の『ことば』と戦略」

11112_20220105203801  絵を見て、いい絵だというとき、なぜか?という問いは、根源的な問いだが、いわゆる“専門家”はそういう問いが一番困る。それは知識の前提以前の「そういうことになっている」ことを問われるからだ。それが「絵画」とは何かというようなことで、絵を描く画家はそんなことを考えないかもしれないが、「いい絵だ」と語る場合には、そういうことを突きつけられる。そこには、語る人の主体が問われる。そういうのを形づくっているのは語りの文法というもので、「日本画」という前提が日本の歴史の中で、「日本美術」は明治期、「絵画」他多くの用語とともに形成されてきたことを明らかにしようとした著作。
 もともと日本には「美術」という概念はなかった。「美術」は 1873 年のウィーン万博に参加するためにドイツ語を翻訳した造語だという。明治政府は殖産興業の一環としてジャポニスムを外貨獲得の手段として美術工芸品をアピールするため海外の博覧会に積極的に参加した。その主務官庁は商工省であり農商務省であり、主に扱ったのは彫刻や陶磁器などの工芸品や浮世絵で、これらは産業として扱われた。江戸時代では、これらは職人により製作されていたので、後に工芸品として区分された。こういう動きとは別に同時期にナショナリズムが生まれ、西洋の芸術という高尚なものに該当するものとして「日本美術」を西洋の美術に対抗するものとして考えられた。その「日本美術」の対象となったのは、大名お抱えなど武士向けの狩野派や文人画や朝廷や公家、寺社向けの大和絵、これらは職人というより武士やそれに近い人が制作していた。伝統的絵画とされ、宮内省や文部省が管轄した。それが伝統文化とされたり、教育の対象として捉えられていった。この二つに分けられたことが現代では、浮世絵や工芸品は書画骨董として扱われ、学校の美術の時間に教えられるものは日本画や西洋絵画が美術として扱われるように二極分化していった。つまり、「日本美術」というのは、美術とは何かという本質を問い概念を形成したのではなく、士農工商の身分や役所の管轄の区分を引き継いで、それらの寄合として作られたといえる。それゆえ、画壇という狭い世界のなかで政治的な権力闘争が作品の評価に連動する(例えば岡倉天心の東京美術学校の追放により大観や春草らの朦朧体が否定された)。それが太平洋戦争の敗戦により、戦前の旧体制が否定され、戦前は近代、戦後は現代と区分され、近代の日本画は画壇で捨てられ、画家のなかでは伝統が断絶される。それにしたがって、近代日本画は美術から骨董の扱いに移されていった。それが高度経済成長のころに地方を中心に美術館が多数設立され、近代美術品がコレクションの対象となって歴史的な文化財として扱われるようになる。
 これは、西洋における「絵画」は、一貫して普遍的に絵画であり、例えば、イギリスで絵画に対してイギリス画というジャンルがつくられることはなかった。その対比が「日本画」の人工的なところと、ご都合主義ともいえるところが目立つのだった。そこで、最初のところの問いについて、専門家は答えることができないということに行き着くのだろうと、私は思うのだ。

 

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