田口茂「現象学という思考 〈自明なもの〉の知へ」
何の疑いもなく「確か」だと思われていることは、当たり前なことだから殊更に「確か」であると言われることはなく、そのような言わずもがなの「確か」を探究しようとするのが現象学というものだ、という。
たとえば、科学も、当たり前を探究する。リンゴが木から落ちるのは当たり前で、誰もが知っている。しかし、この当たり前の事実を重力という力によって説明するということは、決して自明ではない。科学は自明なことを事実として前提した上で、そこに潜んでいる新たな事実を明るみにだす。これに対して、リンゴが木から落ちるのなぜ当たり前と思えるのか、を問うのが現象学の姿勢だという。ここで、当たり前、つまり「確か」であるということを絶対的に追究したものとしてデカルトの方法的懐疑がある。「確か」なものを究極に追究して「我思うゆえに我あり」に行き着いたというが、釈然としない。そうではなく、われわれが「確か」であるとは、どのような状態を指しているのか。例えば、人が自転車に乗っている時、ペダルを漕いだりハンドルを左右に動かしていたりという複雑な身体運動を意識しているわけではない。この意識は当たり前ゆえに言わずもがな、確かであるという信頼ゆえに、あえて問わない、つまり意識として現われてこない。このときのような、人が事物や経験に対して、どのように向かい合っているかという構造が現象学のテーマとなってくる。それは、人と事物との関係であり、人と人との関係である。
フッサールの現象学の解説というと竹田青嗣の著作に、たいへん世話になったが、竹田の解説では私つまり主観が事物つまり客観をどのように認識するのかという議論になって、新カント派の主観論と見分けがつかなくなるところがあった。この著作の説明では、カントの物自体と現象という考え方とは、そもそも異質であるということがはっきり分かる(カントはデカルトの究極の系譜を引き継いでいるだろうから)。でも、この著作の解説では、フッサールからハイデガーやシェーラーに連なっていくことが分からなくなった。
哲学の専門用語を使っていないので、読み易いが、考えさせられる、というより考えながら読む著作だと思う。
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