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2022年1月23日 (日)

塚谷泰生、ピーター・バラカン「ふしぎな日本人─外国人に理解されないのはなぜか」

11112_20220123222701  自分の意見を強く主張しない日本人の引っ込み思案な性格は、外国人には理解しがたいという。この要因となる日本の集団主義は、世界にも稀なほど高度な労働集約で行われる稲作に起源がある。
 稲はもともと熱帯・亜熱帯の農作物で、温帯気候の日本には適さなかったのが、徐々に品種改良により寒冷地栽培ができるようになった。しかし、そこには無理があったために、日本での稲作には多くの困難が伴うものとなった。例えば、熱帯のタイやインドでは、水田に種を直播きして収穫を待てばよく、二期作や三期作ができるので、仮に台風等で一度不作になっても、年内に再度収穫がある。だから、一度の不作でも飢えることはない。これに対して、日本は1年に1度しか作れないので、稲作の失敗は飢えに直結してしまう。だから失敗は許されない。
 日本には火山が多いので土地は火山灰土で痩せている。しかも酸性土壌で、養分が少ないうえに水田では水の確保も必要なのに、軽石のようなものだから、水を溜めておきにくい。そこで、表土を突き固めて水が抜けにくくする必要がある。そういう田んぼを単につくるだけでなく、水を確保するための灌漑、治水を集団作業で行わなければならない。このような田んぼや水といった準備が整ったら、農作業、例えば田植えだ。品種改良された日本の稲はひ弱なので雑草との生存競争に勝てない。だから、ある程度成長した苗で田んぼに植えて、種の状態の雑草に対してスタート時点で競争の優位を作り出す。そうしないと日光の吸収などで収量に影響する。この田植えを短期間で集中的にしなければならないので。集落総出で、集団で一気に終わらせる。地形、地質、気候に恵まれていない日本の農業は個人で稲作ができないほど労力が必要なため、集団で働くことを前提とせざるをえない。つまり、個人では生きて行けなかった。毎年の梅雨の具合とか夏場の気温、度重なる台風の襲来、収穫時期ら米が穫れるかどうかで、生命が脅かされる危険をはらんでいたのが日本のコメ作りだった。集団で取組み、失敗しないようにお互いを監視しながら、リスクを最小限にとどめるための仕組みが常に必要とされた。集団の中で誰かが勝手な行動をしたり手を抜いたりして機能しないと、それが連鎖して全体に影響を及ぼし、最悪の場合は収穫ができずに全滅してしまう。このことを全員が認識して互いを監視してまで、すべてを厳格に着実に計画通りに作業する必要があった。
 そのような集団、いわゆるムラでみんなでいることで、ようやく食べていくことができた。その結果共同で稲作することが生活、生命の基点となって、個人の幸せとか利益というより、その食料・お金の生産組織である集団の利益の利益が優先されるようになったのは無理もない。集団の組織が暗黙のルールを用意し、人々はその中におとなしく収まっていればよかった。欧米のように、議論とか個人の考える訓練をしてこなかったのは、必要なかった、むしろ邪魔であったからだ。
 ちなみにヨーロッパの農業は、広大な平地と豊かな土壌に恵まれ、端的にいえば好きな時に種を蒔いて、収穫を待てばよかった。だから、個人個人が各自バラバラで、すきなように農作業して収穫ができた。そこには、個人を主張できる余裕があった、と日本の側から言うことができる。著者は、グローバルな視点で、このような日本の文化は守りの姿勢で、ヨーロッパのような攻撃的な文化には競争に負けてしまうという。私には、著者の視点はヨーロッパの人から見て、日本の特徴を説明するのに、とても説得的だが、あくまで視点はヨーロッパ的というバイアスがあると思う。いい意味でも悪い意味でも。

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