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2022年1月 5日 (水)

佐藤道信「〈日本美術〉誕生 近代日本の『ことば』と戦略」

11112_20220105203801  絵を見て、いい絵だというとき、なぜか?という問いは、根源的な問いだが、いわゆる“専門家”はそういう問いが一番困る。それは知識の前提以前の「そういうことになっている」ことを問われるからだ。それが「絵画」とは何かというようなことで、絵を描く画家はそんなことを考えないかもしれないが、「いい絵だ」と語る場合には、そういうことを突きつけられる。そこには、語る人の主体が問われる。そういうのを形づくっているのは語りの文法というもので、「日本画」という前提が日本の歴史の中で、「日本美術」は明治期、「絵画」他多くの用語とともに形成されてきたことを明らかにしようとした著作。
 もともと日本には「美術」という概念はなかった。「美術」は 1873 年のウィーン万博に参加するためにドイツ語を翻訳した造語だという。明治政府は殖産興業の一環としてジャポニスムを外貨獲得の手段として美術工芸品をアピールするため海外の博覧会に積極的に参加した。その主務官庁は商工省であり農商務省であり、主に扱ったのは彫刻や陶磁器などの工芸品や浮世絵で、これらは産業として扱われた。江戸時代では、これらは職人により製作されていたので、後に工芸品として区分された。こういう動きとは別に同時期にナショナリズムが生まれ、西洋の芸術という高尚なものに該当するものとして「日本美術」を西洋の美術に対抗するものとして考えられた。その「日本美術」の対象となったのは、大名お抱えなど武士向けの狩野派や文人画や朝廷や公家、寺社向けの大和絵、これらは職人というより武士やそれに近い人が制作していた。伝統的絵画とされ、宮内省や文部省が管轄した。それが伝統文化とされたり、教育の対象として捉えられていった。この二つに分けられたことが現代では、浮世絵や工芸品は書画骨董として扱われ、学校の美術の時間に教えられるものは日本画や西洋絵画が美術として扱われるように二極分化していった。つまり、「日本美術」というのは、美術とは何かという本質を問い概念を形成したのではなく、士農工商の身分や役所の管轄の区分を引き継いで、それらの寄合として作られたといえる。それゆえ、画壇という狭い世界のなかで政治的な権力闘争が作品の評価に連動する(例えば岡倉天心の東京美術学校の追放により大観や春草らの朦朧体が否定された)。それが太平洋戦争の敗戦により、戦前の旧体制が否定され、戦前は近代、戦後は現代と区分され、近代の日本画は画壇で捨てられ、画家のなかでは伝統が断絶される。それにしたがって、近代日本画は美術から骨董の扱いに移されていった。それが高度経済成長のころに地方を中心に美術館が多数設立され、近代美術品がコレクションの対象となって歴史的な文化財として扱われるようになる。
 これは、西洋における「絵画」は、一貫して普遍的に絵画であり、例えば、イギリスで絵画に対してイギリス画というジャンルがつくられることはなかった。その対比が「日本画」の人工的なところと、ご都合主義ともいえるところが目立つのだった。そこで、最初のところの問いについて、専門家は答えることができないということに行き着くのだろうと、私は思うのだ。

 

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