古田徹也「いつもの言葉を哲学する」
新聞に連載したコラムをまとめたもので、それぞれのコラムは一話完結だが、それぞれの話は生活の具体的場面で息づく言葉のありようをエピソードとして取り上げている。そこに底流する著者の姿勢は、言語とは生きた文化遺産であり、言葉を用いるということはそれ自体、人々の生活のかたちの一部である、ということ。他方で、多くの言葉には物事に対する特定の見方が含まれているということ。言葉というものには、このような特徴があるために、ここで、言葉の古い用法や誤った用法などに触れることによって、普段は気に留めていなかった物事に注目したり、それを従来とは異なる仕方で捉える機会を得ることができる。
そういう言葉の機能は反面で行き過ぎると、普段用いられる語彙や表現形式といったものに対する過度の規格化や「お約束」の蔓延といった事態を招く。この事態が言葉の平板化や応答の形骸化を招き、言葉の勢いや熱量といったものが物事の真偽や価値の代用品となるに至る。昨今の「炎上」という現象は、その現代的なあらわれだろうと思う。
このような言語をめぐる危機的な状況を見据え、応答の形骸化すなわち、ありがちな言葉(常套句)を小気味よくやり取りするような思考停止ではなく、反対に迷いながら意識的にしっくりくる言葉を手探りすることを提示する。この模索の際には、われわれは自分にとって既知の言葉の中で迷う。つまり、しっくりくる言葉の選択は、自分がこれまでの生活の中で出会い、馴染み、使用してきたものの中から。それゆえ、言葉の探索は自ずと、これまでの自分自身の来歴と、自分が営んできた生活のかたちを振り返ることになる。
これって、「自分の言葉」で語るということと同じだよな、と思う。
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