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2022年2月16日 (水)

松村圭一郎「くらしのアナキズム」

11112_20220216215501  アナキズムというと、どうしてもキナ臭い無政府主義のイメージが強い。しかしその本来の意味は、秩序を暴力的に破壊することではなく、国家や支配権力の強制力が働かない状態で、私たちが自律的に暮らしのすべてを担うことができるのか、その自助自立の生き方を探っていく考え方である。例えば鶴見俊輔は、アナキズムをこう定義している。「権力による強制なしに人間がたがいに助けあって生きてゆくことを理想とする思想」。その可能性が社会習慣の中に埋もれているのだとすれば、アナキズムの手がかりは必然的に「くらし」の中にあることになる。「公(おおやけ)」とか「公共」といえば、お上のやることだと信じられてきた。今度はそれを企業など別のだれかにゆだねようとしている。ぼくらはどこかで自分たちには問題に対処する能力も責任もないと思っている。でも、ほんとうにそれはふつうの生活者には手の届かないものなのか。アナキズムには、国にたよらずとも、自分たちで「公共」をつくり、守ることができるという確信がある。国の政治家は、所詮、法律を作って、予算をつけるくらいしかできない。その政策や法律を実のあるものとして現実化できるのは、日々の暮らしを営んでいる一人ひとりだ。介護現場で高齢者をケアするのも、震災後の復興でがれきを片づけるのも、虐待に苦しむ子どもに手をさしのべるのも、政治家ではない。その典型的な現われは、大災害の被災地で、被害直後は政府の救済策など間に合うはずがない。そこで人々は自力で助け合う。例えば、阪神大震災で救助された人々の大半は自衛隊や消防の救助ではなく、近所の人々の協力による救助だったという。そう、政治は、人びとの暮らしの中にある。しかるに、いつからか、政治が政治家だけのやる仕事だと、限定された領域に押しこめられてきた。それで投票率が上がらないのは、あたりまえだ。投票に行っても、世の中は変わらない。政治が政治家だけのものなら、その実感は間違っていない。
 日々の暮らしを助け合って生きていくこと自体が政治であるというアナキズムの考え方に立てば、民主主義という制度は、国家が政治を人々の日々の暮らしから取り上げて政治家というエリートのものにしてしまっているシステムだという。
 我々が従来イメージしていたキナ臭い無政府主義では、目前の国家を否定して、かりに転覆してしまったとしても、その後にはそれに代わる別な権力が現われるだけだという。それは過去のいくつもの革命の事例が証明している。
 アナキズムは政治学とか政治思想の側面から語られていたが、著者は人類学の視点に立つ例えば、ジェームス・スコットの『反穀物の人類史』を紹介する。人類最古の文明とされるメソポタミアで、どのように農業や国家が誕生したのか。紀元前1万年前ころの新石器革命で農業が生まれたことで生産力が増大し国家が誕生したという常識を覆した。つまり、狩猟採集や遊牧の移動生活は、初期の農業に比べて少ない労働で健康に暮らせていた。その後、農耕が始まるが、国家の成立は、そこから4千年後。その間、人口は増えていないという。国家の誕生は農耕が始まって生産が増えて人口増加したためではなく、気候変動により乾燥化が進行し、土地が干上がって農地が減って、灌漑などの直接生産に結びつかない人々が必要になって人口の集中がおこったために、だったという。国家が成立すると非生産的な管理に携わる人を食べさせるため農家の余剰生産物が多く必要になり、その確保のために、国家は戦争による略奪をするようになり、その結果、国家の拡大・成長が始まる。つまり、まとまった人口と生産があって国家ができたのではなく、国家が周辺の人々を強制的にかき集めて存在し得たということだ。
 そうなると、国家の成立を説明した社会契約説が嘘だったことが分かる。例えば、ホッブスの「万人の万人による闘争」という自然状態で、人々が安全と平和のために相互に契約して国家をつくったということ。それが、実際には、国家は国を守る仕組みではなく、人々から労働力と富を奪い取り、戦争をもたらすといった災厄のような存在だった。
 人類学のフィールドワークでも、いわゆる未開地帯で、国家とか文明から外れた地域の部落とかあるいは非定住の人々が平和で安全に暮らしている状態を観察している。例えば、アマゾン奥地の文明の届かない地域の人々が「万人の万人による闘争」の状態にはなっていない。
それじゃあ、国家というのは何なのだろうと考えたくなる。そして、そういう国家観を前提にした歴史の嘘とまではいかないが、先入観ということを意識してしまう。
 レヴィ=ストロースは『悲しき熱帯』の中でアマゾンの先住民の首長ついて書いている。首長は集団の遊動生活の全責任を負う。さまざまな必要な決定を行い、人々に指示を出し、近隣集団との外交ともいえる政治協定を結ぶ。しかし、他方で、首長は明確に定められた権限も、公に認められた権威も、差さえとして持っていない。首長の権力の根源は人々の同意だという。つまり、さまざまな意思決定も、指示も集団の人々が賛成する限りにおいて可能となる。だから、首長がすべきことは、権力を振るうことではなく、人々の同意を維持することである。だから、首長というのは割に合わない仕事で、実際の首長たちは、その地位を自慢するどころか、重い責務を嘆いていたという。これは、アマゾンに限ったことではなく、世界中で同じような首長が見られるという。リーダーが人々によって選ばれ、その同意の範囲で意思決定や指示といった役割を果たす。これは、民主主義のリーダーの模範的な姿ではないだろうか。
 重要なのは、その話し合いの場に参加するすべての人が、自分の意見を無視されたという怨恨を残さないように、「全会一致」で意思決定されるということである。もちろん、じっさいの決定に、全員が100%満足するということはあり得ない。問題は、不満をどう分かち合い、納得するか、ということだ。つねに重要なのは、言葉の力である。その言葉をうまく使える者、中庸性を体現する者が威信をもつ。リーダーに求められるのは、場が粉糾しないよう、弁舌の力で、二項対立を中庸的な解決に導く力なのである。とこで、民主的な話し合いで結論を求めるとき、常用されるのが多数決だ。しかし、そもそも採決に多数決を使う「多数派民主主義」が可能になるのは、「決定事項を実行に移すことができる強制力をもった装置」があるからだ。強制力を独占する国家がないような場合、「採決」は勝者と敗者を生み出し、コミュニティを破壊しかねない。
 そう考えると、人類学的な視点からは、民主主義は古代ギリシャ・ローマに遡る西洋の伝統だという考えは否定される。それは、むしろ世界の様々な場所で名もなき人々が暮らしのなかで実践してきたもの(日本にも「ムラ」という共同体にその残滓を見出すことができる)だ。だから、近代西洋に起源をもつ近代的な民主主義国家というのは、世界に共通する民主主義を歪めた畸形と言ってもいい。
 最近の例でいえば、新型コロナ・ウィルスの感染対策において、欧米のいわゆる民主主義国家では緊急事態かどうかは知らないが、きわめて強制的な施策を強行した(その点では、中国も欧米も似ている。欧米が中国を批判するのは近親憎悪に見えないだろうか?)。これに対して、日本の場合は、リーダーシップが曖昧だとか何をやりたいのかハッキリしないなどと批判されながらも、人々の暗黙でも合意に基づく自発的な行動で感染拡大を抑えてしまった。
 こういう視点はとても新鮮だった。

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