北澤憲昭「眼の神殿 『美術』受容史ノート」
先日読んだ佐藤道信「〈日本美術〉誕生」は明治政府の近代化政策のなかで「美術」という概念が導入され、それに対抗するように従来の日本の書画が日本美術として制度化された現象を明らかにしたが、この著作は、そのベーシックなところ、M・ウェーバーならエートスとでも言っただろうレベルで考察している。これは、今、読んでいる私の視点でそうなるのだけれど、実際は、この著作が日本美術というのが元からあったのではなく、西洋の「美術」が近代に日本に入って来たのに対抗するために創られたものだとして従来の常識を転換してしまい、その影響で佐藤の著作が書かれたという。
著者は「美術」を制度という側面から見る。つまり、「美術」という語のもとに在来の絵画や彫刻などの制作技術が統合され、その美術のあり方が博覧会、博物館、学校などを通じて体系化され、規範化され、一般化されることで、美術と非美術との境界が設定され、さらにそのような規範への適応が制作物への評価を決し、さらには、そのような規範が公認され、自発的に遵守され、反復され、伝承され、起源が忘却され、ついには規範の内面化が行われるといった事態=様態、という。これは、国家による権力をつかった統合が重なる。明治以前の大和絵、花鳥画、文人画、浮世絵、などは、それぞれがバラバラで統合され体系化された「美術」という制度はなかった。西洋化に対抗して「日本美術」を創ったのは国粋主義、いわばナショナリズムの潮流によるものだが、「美術」という枠組みに乗った上で、それをした。具体的に言うと、例えば、展示の形態は屏風とか掛け軸とか襖絵とかいった生活の一部だったのが、西洋絵画のように額装され、展示場でガラス越しに見る形態に変容していく。ガラス越しというのがシンボリックで、手を触れることができるような身近さではなく、距離を隔てる、つまり見る者と見られる物という主-客の分離という近代的な観察-鑑賞の姿勢が生まれている。それは、当代の作品だけでなく、過去の作品に対しても「美術史」という制度に統合されていく。美術史というのは単なる歴史ではなくて「美術」という制度の面で歴史を再編成したものだからだ。例えば、明治以前で一般的だった書画というような書と絵画を区別なく見ていたのが、美術史から書は排除される。
このように「日本美術」が、成立において矛盾を抱えているという指摘。そして、発表から年月を隔てた後年の読者である私の穿った読みでは、矛盾を内包していることでダイナミックな発展の可能性を潜ませているのではなく、実際の日本画の大家たちを見回せば、その成立当初の大観や春草たちが輩出したが、その後、彼らを凌ぐような人は現われず、下降線を辿っているといってよい。もともと原語の「美術」は西洋では日常語であり、美術という制度も西洋の生活にルーツを持っている。それが昇華されたのが美術で、生活の変化に伴い美術も変化をしてきた。それに対して、日本の「美術」は生活から切り離された、いわばオベリスクのような純粋化された制度として輸入され、それが定着すると自己完結した規範のように固定化してしまった。だから時代の変化とは切り離され、根を持たない植物のように立ち枯れのような状態となった。おそらく、著者はそういう問題意識をもっていたように思う。
でも、オベリスクのように輸入された概念とか制度は「美術」に限ったわけではないと妄想する。例えば、「自由」「権利」「権利」・・・まだまだたくさんある。
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