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2022年3月

2022年3月30日 (水)

没後50年 鏑木清方展(1)

Kaburagipos  3月下旬のある日、朝から、1年に1度の人間ドックを受けた。コロナ感染防止対策のためか手順が大幅に変わり、早朝に受付し、昼前には終わってしまった。いつもなら1日かけるのに、そう思って1日の休みをとっていたので、時間が空いてしまった。それで、何かないかと探していたら、見つけたのが、この展覧会だった。名前だけは耳にしたことがあるから、日本画の世界ではビッグネームなのだろうから、それなりに楽しめると思って、出かけることにした。
 地下鉄竹橋駅を降りて、近代美術館までの堀端の道は、蔓延防止措置が終わったためか、コロナ前とあまり変わらない雰囲気で、歩く人の姿もそこそこ。平日の昼ごろという時間のせいもあって、美術館は、それほど混んでいるわけでもなく、落ち着いて鑑賞できる程度の人の数。若い人は少なく、ほとんどが中高年で落ち着いた雰囲気だった。
 さて、私は鏑木の作品を見た記憶がないので、どういう絵を描く人なのかよく分からなかったので、いつものように主催者の挨拶を引用します。“鏑木清方(1878~1972)の代表作として知られ、長きにわたり所在不明だった「築地明石町」(1927年)と、合わせて三部作となる「新富町」「浜町河岸」(どちらも1930年)は、2018年に再発見され、翌年に当館のコレクションに加わりました。この三部作をはじめとする109件の日本画作品で構成する清方の大規模な回顧展です。浮世絵系の挿絵画家からスタートした清方は、その出自を常に意識しながら、晩年に至るまで、庶民の暮らしや文学、芸能のなかに作品の主題を求め続けました。本展覧会では、そうした清方の関心の「変わらなさ」に注目し、いくつかのテーマに分けて作品を並列的に紹介してゆきます。関東大震災と太平洋戦争を経て、人々の生活も心情も変わっていくなか、あえて不変を貫いた清方の信念と作品は、震災を経験しコロナ禍にあえぐいまの私たちに強く響くことでしょう。”
 この紹介では、どんな絵を描くのかマチイチ分からないので、ネットで検索してみたら、上村松園とならぶ美人画の大家とのこと、上村松園という画家もよく知らないのですが、美人画かあと納得しました。それで、今回の展覧会のチラシには、主催者あいさつで真っ先に言及されていた「築地明石町」が使われていましたが、私の正直な感想として、これが美人?です。もちろん、鏑木が作品を制作した昭和の初めと現在とでは美意識が違うので、当時は美人だったといわれればそれまでです。でも、美人から美人らしさってあるじゃないですか。これは美人ですよ、そういう約束になっています、それを見るものに感じさせる、そういうものが感じられない。例えば、マンガの世界で、ちゃんと顔を描いているわけでなく、省略した記号のような顔でも、マンガのお約束のヒロインですよということになれば、作品を読む人は、それを美少女なり、美人とみなします。そういうお約束を鏑木清方やその作品を好む人たちは私は共有していないと思われるので仕方がないのかもしれません。しかし、描かれた顔を見ていると、睨んでいるような眼が意地が悪そうで、しかも、瞳に生命感が希薄で、口を突きだして、という却って美人ではないように、わざと描かれている。しかも、描き方が淡白すぎるというか、描く人の思い入れたいなものが感じられない、とこれを果たして独立して完結した作品として提示する意志があるように見えないのでした。この展覧会には、100点以上のたくさんの作品が展示され、会場には少なくない人作品を身に来ていましが、私には、ほとんどの作品は立ち止まらせるようなものはなく、並んでいる前を素通りしてしまいそうなものばかりで、何がいいんだろうというこが分からない。私にとって難解な作品ばかりで、会場を通すのに時間がかからず、1800円という入場料を払ったから、というのでもったいないし、そういう意味で焦ったりして、という全体の感想でした。
 展示は、「生活をえがく」「物語をえがく」「小さくえがく」といった3つのテーマに分類して作品を紹介していて、美人画や風俗画、風景画、肖像画といったジャンルで分けるのではなく、あるいは、画家の生涯に沿って編年順に展示するのではなく、作品の中に描かれた題材や表現形式を軸に展示されていました。

 

2022年3月21日 (月)

塩田明彦監督の映画「黄泉がえり」の感想

11113_20220321200901  九州、阿蘇地方のとある地域で死者が次々とそのときの姿でよみがえるという不思議な現象が発生。厚生労働省に勤務する川田(草彅剛)は、故郷でもある現地に向かい、死んだ親友、俊介の恋人だった葵(竹内結子)と再会、調査を開始。最初はSFかホラー映画のような感じで、客観的を装うロングショットを多用し、死者が帰ってくるエピソードを川田が調査していく形で淡々と描写する。それが、後半、葵が死者のよみがえり(映画の最初のところで、恋人の死から立ち直れない彼女がカウンセリングを受け、その帰り道で友人の運転する自動車に便乗する場面が、さりげなく挿入されている。映画の中頃で、その車が崖から転落してペチャンコになったのを警察が発見するシーンがある)だったことが分かる。それは、川田が現地に調査で訪れ、彼女との再会を強く望んだことで、彼女のよみがえりを無意識のうちに思ったためであることに、川田が気づく。それを機に川田は現象の観察者という立場から、当事者に変わるのだ。それとともに画面は、ロングショットからミディアムやバストショットという視線が近くに寄ったり、画面が動き始める。つまり、客観的に見ていられなくなり、参加する視線に変わるということ。それは、実は川田という登場人物だけでなく、映画を見ている観客にも、変化を促すようでもある。映画の観客は画面とは距離をおいて、映画の中で起こっていることとは無関係に、映画館の快適な椅子に座って、ポップコーンを頬張りながらスクリーンを見ている。映画とはそうして楽しむものだが、この映画は、そうではなくて画面に参加しにいらっしゃいと誘っている。そういうことを意図的に試してみることで、映画を見るといは、どういうことかを、さりげなく問いかけていると思う。そういう意味で、とても興味深い映画だとおもう。ちなみに、よみがえりの現象の種明かしのようなことは一切明かされない。

2022年3月17日 (木)

伊藤聡「日本像の起源─つくられる〈日本的なるもの〉」

11112_20220317212301  〈日本固有〉であることを求める日本人の強迫的な思い、これは近現代日本人特有の感情ではなく、古代・中世・近世の人々も、多かれ少なかれ同じような思いに囚われていた。この著作は、〈日本固有〉であることにこだわる心性を歴史的にたどってみせる。
 まず日本の自国意識が中国に対する劣等感に起源するという指摘が、豊富な素材を通して語られる。歴史を通じて日本は中国の影響を受け続けてきた。日本文化を構成するあらゆるものには、何らかの形で中国文化の影響の痕跡がある。このことは日本人の中国への崇拝・大国視として現れる。一方で、文化的〈負債〉=劣等感となって蓄積することになった。そのような負債感情が、吉備真備や徐福・楊貴妃の説話を生み出した。吉備真備が遣唐使で唐に渡り、その才を妬まれイジメに遭うが、機転により、やりこめてしまうという説話で、この真備入唐説話のポイントは、真備が本場中国で、中国的教養によって中国人をやり込める点にある。とはいえ、このような説話を構想するだけで、中国への劣等感が克服できるわけではない。
 そこに天竺をもちだして、これと直結しているという論理で劣等感を克服しようとする。インド大陸の一部が流れてきて日本国になったとか、和語(日本語)は梵語と同質の言語であるとかいうのも、日本をインドと結びつける、あるいは同一視することで、ようやく中国文化に匹敵できると考えた。日本人にとってインドは半ば空想の世界であって、だからこそさまざまに自国の文化と結びつけることができた。しかし、大陸の人々にとってインドは実在する国のひとつで、そのような意識を日本人が共有できるようになるには、戦国時代まで待たなくてはならなかったのです。
 戦国時代、近世を経て、日本人の意識は変質する。著者はその典型例という「やまとだましい」という言葉の意味の変化を紹介する。著者はこれを「人間力」と意訳してみせたが、平安時代の「やまとだましい」と「才(ざえ)」とを対比的にとりあげ「才」は漢学の素養という当時の実務能力を指し、これに対して「やまとだましい」は「人間力」として今日の学歴主義・業績主義の対立語として用いることとよく似た扱いをしている。平安貴族で「才」の代表が菅原道真ならば、「やまとだましい」し藤原氏の世襲エリートがあてはまる。それが、戦国を経て近世になると「武の国」という新しい自国像が「やまとだましい」を「勇武」の意味へと変えていった。戦国時代は武という能力が剥き出しでサバイバルゲームを繰り広げ、それに勝ち残った人々が開いた江戸時代は、武士を「戦う人」としての属性を保ったまま、治者にスライドさせようとした社会だった。本来ならば、他の東アジアの国々のように為政者である武士を文民化してしまえばよい(例えば中国の士大夫)はずが、統治の正当性を軍事的優越に置いていた幕藩体制においては、平和な時代が続いていても、武人であることを否定することはできなかった。
 「武士」としての特性を残しつつ、中国的な「士大夫」の資格を持たせる道を模索した代表が、軍学者で且つ儒者でもあった山鹿素行だった。素行は武士たちに、武の担い手として農・工・商を威服させると同時に、彼らの道徳的模範たるべしと説いた。これが素行のいう「士道」だった。ただ、基本的に暴力を是とする日本の武士に、中国の「士大夫」のような見識・態度を期待するには無理があったので、代わりに彼は日常生活の細部にわたる規律正しい生活を送るよう求めることになった。言ってみれば、一挙手一投足にわたる厳しい校則を課すことで生徒の生活を律しようとするようなもの。それが近代の明治社会では、富国強兵政策のもとで、戦争に強いという意味で、日本人全体が「武(サムライ)」とされ、対外イメージを作っていった。一方、中国への劣等感は国権主義的な中国大陸への進出を駆り立てることになった。
 全体を通して共通しているのは、他者の存在の希薄さだということではないか。つまり、中国に対するコンプレックスが対抗意識となって「日本」ということを意識するにしても、それを中国や周辺の他国に届けようとは考えられなかった。日本優位を説くような言説は、あくまで日本国内という内輪でのみ語られてきたということ。そして、看過できないことは、そういう傾向は古代よりも近代以降に、より顕著になってきている。

 

 

2022年3月16日 (水)

生誕110年 香月泰男展(5)~第4章 新たな展開の予感(1969~74)

Kazukiblue  1960年代の香月の作品はモノクロームで必要最小限に単純化された形と評されていたのが、この頃、少しずつピンポイントで明るい色が使われ始め、大作で赤や青や白が印象的な作品が描かれました。
 「青の太陽」という1969年の作品です。画家の説明によると、満州に駐屯していた時、匍匐前進の訓練の際に目にした蟻の姿から、大陸の広い大地に巣穴を掘る蟻の視点に立つと、地の底から穴を通して空を仰ぎ見る。地中の闇を穴を通して空の青がみえる。地中の闇の黒い世界を穿って青い光が射し込む。この青い空が太陽に見立てられている。その青が印象的だが、それを印象的にしているのが、黒のグラデーションと、その塗り重ねの境界線のザラザラした感じ、その粒々な感じが蟻が群れているようにも見えてくる。
Kazukifire  「業火」という1969年の作品です。自身の解説では奉天から北上する列車の窓から見た兵舎が燃える炎を描いたものだということです。題名の「業火」というのは地獄の炎です。苛酷な収容所で生き残った後ろめたさとして、彼の内面に燃え盛るものでもあった。そのいうものとして炎を描いたと解説されています。速水御舟の「炎舞」で描かれる炎と同じような形のパターンを、香月は執拗に繰り返し、さらにマチエールで立体的に積み重ねて、炎の赤の鮮やかさの印象を強めます。私には、炎というより、赤のパターンの繰り返しの鮮やかさという作品ではないかと思います。
Kazukisunri  「日の出」「月の出」の2作品は、どちらも1974年に描かれました。花札の坊主のようなパターンの作品です。そういうパターンがあるからこそ、「日の出」の赤、「月の出」の白の色彩の輝き、そして、それぞれ日の光や月の光に映える背景の色彩とそのグラデーション、さらに凹凸によって生まれる陰影。それらが、日の出や月の出の時々刻々と光が変化していく動きが、画面に再現されるように見ることが出来ます。
 さて、最初にも少し書きましたが、香月の代表作であり、この展覧会の目玉である「シベリア・シリーズ」は、太平洋戦争とシベリア抑留の想像を絶する過酷な体験を絵画化したとされ、香月は20年以上に渡り、戦争の悲惨さ無意味さを自身の絵筆で後世に伝えるいわばライフワークとして制作したとされています。一見したところ画面の大半を墨色が覆い、何が描いてあるのか理解できない作品が多く、作品を安易に「人に理解されたくない」一方で、「やはり分かってもらいたい」という相反する気持ちの葛藤を解決する策として香月自身の言葉による解説が加えられたといいます自身の言葉による解説が加えられた。展示にも、作品の解説と香月自身による解説と二つのキャプションが付せられていました。たしかに、香月の「シベリア・シリーズ」というのは、そういう作品なんだろうな、という作品のマーケティングがひとつのイメージとして定着しているということがよく分かりました。私としては、むしろ、そういうのは邪魔に近く、これらの作品は造形的な面白さ Kazukimoon があり、それ以上に、展示作品の大半が黒一色で会場が暗黒の世界になってしまうかというと、そんなことはなく、単調で飽きてしまうこともありませんでした。もし、「シベリア・シリーズ」が戦争の過酷な体験を絵画化しただけなら、その描かれた事象に感情を動かされはしても、単調な画面には飽きて、今回の展示のように57点も続けて見せられると食傷してしまうものだろうと思います。飽きたなどというと不謹慎と言われてしまいそうな雰囲気を余計に感じてしまう。そういうところが、見るのに体力がいるとか、通してみると疲れてしまう、という感想が生まれたりする。そういう雰囲気というか物語があるように、この作品についての言説などを見る限り、感じられるところがあります。しかし、そういう雰囲気とか物語は、戦争体験といったものを、ある程度実感として共有されているからこそ生きているもので、そういうものは世代が代わると失われていくもので、私のような戦後生まれの人間にはリアリティがありません。だから、語り継ぐべきという主張もありますが、作品を見るために、わざわざそこまで苦労して勉強するまでするかというと、それほど真摯でもありません。しかし、そんなことを言っていたら、作品の門戸は高くなって、見る人を戦争についての意識の高い人に限ってしまうことになりかねません。しかし、そんな意識など全くなくて、単に、作品を見て楽しみたいという私にも、この展覧会は面白かったです。例えば、展示作品の大半が黒一色で会場が暗黒の世界になってしまうかというと、そんなことはなく、単調で飽きてしまうこともありませんでした。それは、香月の独特の手法で、黒の絵の具に木の炭やその他の粉末を混ぜて塗面に凸凹を着けたりすることによって、作品それぞれの黒の色合いが微妙にくすんだものとなり、作品ごとにその具合がちがってきて、あるいは、凸凹がつけられたことによる陰影がうまれ、それが黒の見え方を作品ごとに、あるいは光の当たり具合によって、印象が変わってくるということ。それらが、作品が一堂に並んでいるために、却って、その違いを対比的に見ることが出来て、作品を見る順番を変えると、対比的にその違いの見え方が変わってくるという、繰り返し展示を見ても新たな発見があるので、疲れを感じる暇もないほどでした。「シベリア・シリーズ」などというより「黒のシリーズ」とか「黒のバリエィション」とでも言ってあげたいほどでした。
Iketatsumask3  また、造形面でも「シベリア・シリーズ」で頻出する独特の「顔」は、現代で言えば奈良美智の不機嫌な少女のようなキャラクター・ピースとも考えられると思います。香月の「顔」は表情とか個性をなくした非人間的なものとして描かれているばかりかといえば、「復員〈タラップ〉」という作品では、表情のなかった石像のような「顔」の口を開けさせ、目のところにわざとらしく真ん丸の涙の粒を1個2個描いてみせて、「顔」をパロディのように描いて滑稽味を作り出しています。これは、香月自身が「顔」をキャラクターとして意識して使っていたことを示しているのではないでしようか。あるいは、個々の作品のところで何度も触れましたが、香月の作品は描かれる対象とその背景の画面上の主従関係が逆転し、例えば人物がであれば、中心の人物がオマケのような存在で、背景の方が塗面に陰影が深くて何かが描かれている、その意味を探りたくなるという、従来の作品の見方の発想の転換を迫るところもあって、これなどは、私には革命的と言ってもいいと思えるほどです。美術史の知識があるわけではありませんが、近代以降の抽象的な方向に向かっていた現代美術に反抗するようにポップ・カルチャーが出てきたように聞いていますが、香月の作品を見ていると、抽象化の傾向がありながら、画家自身が見るものに分かってもらうための説明を作品に付してみたり、「顔」のようなキャラクター・ピースを考えてみたりと、抽象画とポップ・アートの両方の要素をもっていた、つまり、両者の橋渡しのような在り方をしている。そのように、先入観なしに作品を取り上げて、単に見るということからの面白さが沢山あると思います。

2022年3月15日 (火)

生誕110年 香月泰男展(4)~第3章 シベリア・シリーズの画家(1950~68)

 本格的に「シベリア・シリーズ」の制作に傾注した時期で、展示は、ほとんどが「シベリア・シリーズ」の作品です。
Kazukinorth 「北へ西へ」という1959年の作品です。香月自身が、初めて「私の顔」を描いた記念すべき作品であると明言している作品だということです。列車の鉄格子の向こうにひしめく、あの香月独特の「顔」「顔」「顔」。終戦後,奉天を出発した兵士で満杯の列車は、行き先も告げられないまま、来る日も来る日も北へと走り続けた。この「顔」はパターン化されて、「シベリア・シリーズ」の代名詞のようなものとなります。美術のデッサンの練習で扱う面取りした彫像の顔のように表情がなく、顔の形がパターン化されて個性もなくなっています。この顔を鉄格子の暗闇の中から、顔だけを浮き上がらせることで、「シベリア・シリーズ」というタイトルからも、見る者はものがたりを想像することを触発されます。規格品であるはずの鉄格子が不規則に描かれているのも、ものがたりの雰囲気を高めています。このように、シンプルでありながら、分かりやすく、洗練されたデザインとなっていると思います。それだけに、私には、あまりにもあからさまというか、あざといとも言ってよい、ちょっと演劇でいう新劇風の大仰でわざとらしい演技を見せられているようでもあります。香月自身は制作しているときに、こんなに簡単に分かられてしまっていいのか、という逡巡がなかったのかという疑念を覚えました。それとも、この作品が発表されてから半世紀以上経っているのを見ているからこそ言えるのであって、発表当時は、一般的なイメージとは異なるものだったのか、そのあたりはよく分かりませんが、当時の世相を伝えるドキュメントの挿絵に使ってもおかしくないほど、それほど分かりやすい、と思います。もしかしたら、そういうデザインを作ることができたのが香月という画家の才能の特徴なのかもしれません。すくなくとも、この人は描写とか表現の人ではなくて、デザインの人だったというままが如実に示された作品だと思います。
Kazukidomoi  「ダモイ」という1959年の作品、ダモイというのはロシア語でДОМОЙ(この文字が画面左下に書かれています)で家へ、自宅へ、故郷へ、故国へという方向性を伴う副詞です。文字という記号をデザインで用いるのはよくある手法で、顔をパターン化して記号のように使用しているのであれば、記号そのものである文字を用いれば、さらに分かりやすいものとなります。望郷の想いのような形にしにくいものであれば、文字で直接的に伝えた方がわかりやすい。香月という画家は作品を見る者にとってはサービス満点の画家と言えるのではないでしょうか。この作品で注目すべきは、例えば、画面の右手の人物の黒と背景の黒の塗り分け、そして、人物の黒が前にも述べたマチエールの技法で塗られていて、表面に凹凸ができていて、その凹凸によって右手の袖を前にして身体を抱えるような姿勢をしていることを、表わしていることです。つまり、マチエールの凸凹やそれによって生みだされる陰影が意味のある形態や模様を作りだしているということです。
Kazukihorron2  「ホロンバイル」という1960年の作品で、1944年にも同名の作品を制作しています。ホロンバイルはモンゴル北方の大草原の地名で、牛や馬の死骸がそのまま放置され、腐敗し風化して白骨化している景色を描いたと説明されています。そういう説明がなく、虚心坦懐に画面を見れば、黄土色の下地に黒い図形がポツリポツリあるという抽象画に得てしまうでしょう。しかし、そう見ても、この作品は面白い。黄土色と黒というたった2色のモノクロームのような色使いで、黄土色による余白をたっぷりとって黒い斑点のようなのが中央付近のポツリポツリあるという構成が、緊張感があるでもなく、かといって何も関係がないようなダラけた感じでもない。そこで、黄土色の下地の背景がマチエールで模様のようなものが浮かび上がってきて、こっちの方に視線を導かれてしまう。地と図という画面の区別の方法がありますが、この作品では、地が図のための背景になるのではなく、地がむしろ前面に出て表現的になっている。ここでは、図は地を効果的に生かすためのスパイス程度のものになっている。これは、伝統的な西洋絵画の画面構成の伝統から外れたものであろうし、これが香月の作品の突出したユニークな点で、彼のマチエールの技法は、この傾向で、この後も進化していき、この画面構成の特徴が深化されていきます。
Kazukideath  「涅槃」という1960年の作品です。多くの「顔」と合掌する手が描かれています。「顔」と合掌の組み合わせがパターンのように繰り返される中、一人だけ顔を覆う人物がアクセントとなっています。それだけでなく、合掌のなかには左右対称ではなく、かすかに斜めを向いて手の甲が見えているものがあります。実際に合掌を組んでみると、自然な状態でゆったりと合掌すると、人体の構造上、掌は必ず胸の真正面で合わさり、斜めを向くことは起こりません。合掌の形が歪むのは、余分な力が入ってしまった時です。物語的な想像をすれば、戦友の亡骸を囲む捕虜たちは平静な心境ではないはずで、その他にも厳しい寒さという要素も加わって、合掌する手は強張ってしまうでしょう。その結果、合掌の形が歪んでしまう。この作品では、合掌という手の身振りをパターン化し、そのパターンの微妙な変化によって、感情を表わすことが行われています。
Kazukisyuujin  「囚」という1965年の作品です。ここで、少しおさらいしておきますが、香月の作品の画面は基本的には3つの絵具の層からできています。第一層は、黄土色を薄く塗った下地です。ついで周辺に「余白」を残しながらその上に日本画の画材である方解末をまぜた黄土色を塗り重ねます。これが第二層です。そして第三層はモチーフを描く部分で、これには木炭の粉を油で練りあげた黒の絵具をペインティングナイフでこすりつけるようなやり方で造形していったとも、あるいはあらかじめモチーフを黒の油絵具で造形し、その上に木炭粉を置いていったとも言われているようです。この木炭粉の使用については、黒を主体にしたモノクロームに近い色調と油絵具のテリを消したマチエール(絵肌)が特徴です。と説明されています。
Kazukistar  「星〈有刺鉄線〉夏」という1966年の作品です。真っ暗な画面の下半分は有刺鉄線の刺の規則的な並びで、上半分が夜空の星という無秩序な点の並びで、上下の部分に金属的な輝きをする点のようなものを対比的に配置しているという、とてもスマートなデザインを感じさせる作品です。この作品だけを取り出して、ポスター等に使っても、結構通用するのではないかと思えるほどです。「シベリア・シリーズ」は黒で塗り固められたような作品ばかりですが、このような作品もあるので、全体が暗い気持ちになるわけではないのです。この作品の下半分は「荊」という1965年の作品とダブります。どちらも、背景の地だけで対象となっているはずの荊の刺は背景のアクセントになっている程度で、香月の「シベリア・シリーズ」の特徴を、もっともよく出しているのは、こういう作品ではないかと思います。
Kazukireturn  「復員〈タラップ〉」という1967年の作品です。抑留者たちが復員し舞鶴港に到着し、船のタラップを降りる場面です。闇から浮かび上がる抑留者の顔と手は、木炭の粉を塗り込んだ黒色の層をペインティングナイフで削って形づくられたそうです。この作品に特徴的なのは、「顔」のパターンです。この作品では、口をあけて、目から涙を流しています。故国に帰還できた喜びを表わすためと思いますが。しかし、その構成は「北へ西へ」とそれほど変わりません。しかし、この作品では、顔に代わって手が人々の個性を表わしているようで、「北へ西へ」のようなシリーズの他の作品と一線を画しています。出迎えの人々に降りかける手、タラップの手すりに添えた手のほか、出迎えの者との抱擁を待ちきれないように横に広げられた手、目頭を覆う手。これらが対角線構図の巧みに整理されて、画面にリズムを作りだしています。
 「〈私の〉地球」という1968年の作品。「伐」という1964年の作品と構図がよく似ている作品です。「伐」が伐採した切り株を上から見たものですが、「〈私の〉地球」の黒い歪んだ楕円の枠のようなものは、「伐」の切り株のようにも見えます。香月の作品は一見抽象的でも、シベリア・シリーズでは画家本人の説明が付されていて、題名や説明から何が描かれているかを画面を見て納得できるのですが、この作品はそうでもないようです。“周囲の山の彼方に5つの方向がある。ホロンバイル、シベリア、インパール、ガダルカナルそしてサンフランシスコ。いまわしい戦争にまつわる地名に囲まれた山陰の小さな町。ここが私の空であKazukiearth り、大地だ。ここで死にたい。ここの土になりたいと思う。思い通りの家の、思い通りの仕事場で絵を描くことが出来る。それが私の地球である。”という画家本人の説明は、ここで挙げられている地名は、画面の上下左右に文字で書かれている。画家にとっての私の地球は、山間の盆地のような山村で、空から見れば切り株のような穴ぼこで、その形状だけをみればアンフォルメルのような形です。というよりも、ここで何度も触れていますが、絵の具に粉状のものを混ぜてマチエールのように盛り上げて、凹凸をつけて、そこに陰影の模様をつけて、「伐」では、その陰影から見えてくるものが光の変化で動くように得るのが楽しいのですが、「〈私の〉地球」ではナイフで削って手が描かれています。これは横になって瞑想する香月自身の手であると言われています。ということは、シベリア・シリーズでは珍しく画家自身が画面に描かれている作品と言えるかもしれません。

 

2022年3月14日 (月)

生誕110年 香月泰男展(3)~第2章 新たな造形を求めて(1950~58)

 シベリア抑留を終えて復員したあと、戦後の生活を始めて、作品生活を再開したころの作品です。
Kazukigrass  「草上」という1950年の作品です。前章の「釣り床」や「砂上」に連なる後ろ姿の人物を描いた作品です。人物の頭部と腕が地平線上に、まるで風景のように描かれています。香月は、生身の人体を描かず、このポーズの木彫を制作し、それを描いたと解説されていました。会場では、その木彫も展示されていました。そのように現実の生身の少年を描かなかったことについて、次のように解説されていました。おそらく対象となる少年は香月の心の中の存在であり、実在するものではない。心象としての少年を描くにあたり、木彫として実体化してと思われる。心象は、目に見え手に触れることのできる対象となり、「静物」としての取扱いが可能となる。ここにおいて、画面を構成する他の要素とのバランスや配置を具体的に考えることができるようになり、画家は自在に構想を展開する。逆光の効果や地平線との関係、背景の青空などの風景画的な要素も取り込むことが可能となり、現実とも異なる心象とも異なる特異な少年像が打ち出された。このような解説の内容については、ある程度納得できます。香月という画家は、作品の画面を構成するデザインを重視し、人物もその構成要素のひとつでしかなかった。だから、他の事物と同じように扱いために、人物の存在感を取り除きたかった。その試みとして、木彫を描いたということでしょうか。それは、作品の中の人物の描き方に注目するだけでなく、画面全体を見ると、そう思えてきます。私は、この作品を見て、ヴァロットンのVallootnball 「ボール」という作品を思い出しました。一見、ボールを無邪気に追いかける少女を詩情豊かに描いた作品ですが、どこか落ち着きません。全体をよく見通してみると、緑色の大きな影のあちらとこちらとでは明らかに視点が違っています。手前の少女は上から見下ろしているのに、奥の二人の女性は横から見ています。気づかなければ、通り過ぎてしまうものが、いったん気付いてしまうと無視できなくなります。エドガー・ポーの「群集の人」のような印象です。そんな不条理な不気味さをいうのは不似合いですが、ここでヴァロットンがやっているのは、だまし絵のようなものです。それを可能にするためには、に写実に描き込んだ様式では不可能で、画面を単純化させて、作品を見る人がシンプルに見ることができることが必要です。そしても画面に操作を加えることになるのですから、単純化、見もっと言えば図案化したほうが操作を加えやすくなります。図案化されれば、見るものはそれなりに想像力を働かせて、それを見る人なりに、というよりはパターンに従って現実に当て嵌めて見るようになります。だから、この作品の平坦な空間表現とパターン化した事物というは、そのために格好の手段となってくるわけです。この作品では、ヴァロットンのような騙し絵のような要素はありませんが、画面の上から3分の1のところで水平に区切られたブルーとグリーンの対比の鮮やかさはどうでしょうか。ブルーもグリーンも少し暗めの色合いなのに、見る者には夏の太陽の強い光に映えて鮮やかに映ってきます。それに加えて、グリーンの部分に広げられた真っ白なシャツが目に鮮やかです。この作品では、この3色の対比と構成により鮮明な印象を見る者に与えるところに特徴がある。そこで、後ろ姿の人物で、これが画面にスパイスのような機能をしています。作品を見る者は、どうしても人物の姿に視線を向けがちです。そこで、3色の対比を直接見ようとしない。つまり、画面全体の構成やその効果が間接的に見る者に及ばされる。見る者は最初は、それに気づかず、そう言えばブルーとグリーンと白が鮮やかだった、と気づく。それだけ、印象は深くなる。この時、人物に存在感があると、見る者は人物しか見なくなって、全体としての画面に気づかなくなるおそれがある。
Kazukirobou  この後ろ姿の人物は「路傍」という1956年につながって行きます。モノクロームの色調で、「シベリア・シリーズ」に近いスタイルになってきています。画面左手の背を向けた3人の人物の姿は、「草上」の人物とよく似ていて、このほとんど同じ3人の後ろ姿で、それぞれの個性も感情もうかがい知ることができません。この3人の人物はコピー・アンド・ペーストしたように違いが分かりません。画面右奥の人物は、3人の後ろ姿に向き合うように正面の姿ですが、顔はよくわかりません。黒っぽい後ろ姿の3人に対して、この人物は白色で、3人の人物に語りかけるように、演劇的な身振りで両手を大きく広げています。しかし、見る者は、そのような身振りが意味する行為や感情よりも、特定の角度から見る顔の形そのものにあったのではないかと思います。雄弁な両手の描写も、垂直と水平で構成された画面の角に対角線をとり入れた画面を引き締めています。また、後ろ姿の黒とこちら向きの仰々しい身振り人物の白とが強いコントラストをくっています。しかも、「草上」に比べて、絵の具の塗りが少しずつ薄塗りになってきています。それゆえに、画面の平面性がさらに強くなってきていて、デザインの性格が進んできていると思います。
Kazukiwalkaround  「散歩」という1952年の作品です。香月は、このころ、身近な草花や台所の食材など、日常の身辺のありふれたものを取り上げた小品を好んで描いたそうです。この作品では、犬を連れた散歩している時の犬に注目した描いた作品と言えます。この作品で特徴的なのは、犬の姿を描くときの視点の低さです。この作品では、犬と同じ視点に立っている。しかも、かなり近い距離で犬の姿を捉えている。このころの一連の日常の身辺のありふれたものを取り上げた小品は、同じように接眼レンズの写真のように対象物に接近して、小さい画面にいっぱいに捉えていて、しかも対象の全部まで行かず一部とか届かない視線で、捉えて描いています。そこで、作品を見る者が意識するのは描いている者の視線で、誰が描いているのか、という視点の限られたところです。これ以前の香月の作品では画面の全体の構成という作品で、視線というものは意識されませんでした。そこで、香月は視点を意識した作品を何点も描きまました。
Kazukihand  「電車の中の手」という1953年の作品など、電車のポールを掴んだ手という人の一部のみを描いた作品もそうです。この作品では対象を面で構成する傾向が強く、電車のポールを掴む角ばった手はもはや彫刻みたいですが、「草上」の人物のように絵画の制作に当たって彫刻を彫り、それを描くことがありましたが、この作品の手はもはや、そんな手順を踏まなくても、慣れた手つきで描けるようになっている。そして、この描かれた手はキュビスム的な面で構成されて、物的に見える傾向がさらに進んでいます。そして、この時期、香月は絵具に日本画の画材や木炭を混ぜるなど技法の実験にも取り組んだということ、方解石の粉末である方解末を絵具に混ぜ、色数を抑える画風を模索していたといいます。つまり、方解末の混入による黄土色のマットな下地に、木炭粉で描く方法に辿り着いたそうです。この技法がこの作品でも使われで、画面表面がザラザラした感じで、描かれた手が手触りで物の質感が感じられるものとなっています。
そこで、身につけた視点による描写を複数組み合わせて画面を構成したのが、前で紹介した「路傍」という作品です。この「路傍」は平面的が描き方をしていますが、複数の視点が加わったために、劇的な要素が加わって、画面が複雑になったと思います。
Kazukiwall  「左官」という1956年の「シベリア・シリーズ」の作品です。収容所の浴場建設の煉瓦積みをしたとき模様を描いた作品と解説されています。画面の下3分の2は一面黒っぽく塗られており、微かに、それが積まれた煉瓦であることは分かりますが、作品を見る者には黒い空間に画面が浸食されて、人物の顔がある部分もやがて浸食されてしまうだろうという感じがします。そこに、不安というか、おそれのような感じが漂ってきます。人物には顔が描かれていますが、茶色っぽい顔の男の手に握られた煉瓦と煉瓦鏝、さらに、顔の輪郭には影のようなもうひとつの輪郭があり、何だか亡霊のようにも見えます。この顔は、鴨居玲という画家の晩年の「1982年 私」という作品に描かれた幽霊のような自画像とそっくりです。
Kazukitrack  「乗客」という1957年の作品で、「シベリア・シリーズ」の一作です。いよいよ、らしくなってきたというか、未だ黒の画面に占める比重は、それほど大きくありませんが、茶色とも黄土色ともとれる鈍い色をベースに黒で、顔や頭蓋骨などが描かれている。画家による説明では、収容所への移動でトラックに乗せられていたときの様子だそうです。この作品は、一度大きな描き直しを経ていて、当初は、トラックの4つの座席にデスマスクのような顔が描かれていたのが、描き直しによって、左下の男は骸骨に、右上の男は動物の頭蓋骨に変えられました。横顔で描かれていた左上の男は九九塗りつぶされてわずかな輪郭を留め、ジャン・フォートリエの「人質」シリーズを想わせるものとなりました。右下の男だけが顔が残り、手前にハンドルが描かれたことで、彼がソ連兵の運転手で、車中で唯一死に接していない存在であるためだということです。下のバンパーの部分は黒く塗りつぶされ、左上部と呼応されるようになりました。このように説明されると、何が描かれているかよく分かります。この人の作品は、一見、抽象画ともとれるところはありますが、実は分かりやすい物語的な題材をデザイン的に、いろいろいじって作られたところがあると思います。そして、以前から試みていた方解末を混ぜた黄土色の下地を用いて、その上に粉末状の木炭を練り上げた絵の具を押し付けてゆく技法を、ここで完成させたと言います。全体にくすんだ感じで、薄塗りなのに、黒の部分が盛り上がって、見た目の陰影が深く刻まれる感じがします。それだけでなく、人の顔が物化するのがさらに進むように見えます。
Kazukifalcon  「鷹」という1958年の作品です。この作品では、「乗客」で紹介した技法の効果がよく表われてくるようになります。つまり、方解末を混ぜたり、粉末状の木炭を絵の具に練り上げた結果、塗った表面がザラザラしていくる以上に凸凹がうまれ、それが、この小さな画像でも分かるように顕著になってきました。「鷹」という題名ですが、その鷹は画面の4分の1くらいで、後は余白といっていいような、黒く塗りつぶされたり、黄土色の背景の部分です。では、その部分は単なる余白かというと、そうでもない。日本画でいう余白の効果を狙っているかというと、それでもない。この余白の部分は、形が明確な鷹の部分以上に何らかの表現を感じさせるところがあります。見る者の立場から言うと、想像力を刺激されるといってもよいのではないか。それは、第3章の「シベリア・シリーズ」の展示ではっきりすることになるでしょう。

 

2022年3月12日 (土)

生誕110年 香月泰男展(2)~第1章 逆光のなかのファンタジー(1931~49)

Kazukigrandfather 香月が代表作「シベリア・シリーズ」に至る前の時期、習作期です。最初に展示されていたのは、香月が東京美術学校の1年生のときに制作した「祖父」という作品です。ゴッホの晩年の自画像に、スタイルといい、色調といい、そっくりです。また、その5年後の卒業作品の「二人座像」はピカソの“青の時代”に好んで描かれた痩せ細った青年像によく似ていると思います。たったこれだけで決めつけてしまうのは早計かもしれませんが、展示されていた同時期の作品を見ている限りでは、この時期、香月は自身の個性を見つけ出せていないように見えます。というより、自分が描きたいというよりも、西欧の画家の作品をとり入れて要領よく作品を仕上げているように見えます。どちらのKazukitwo 作品も人物を描いた作品ですが、私には、その対象の人物への愛が作品からは感じられないのです。人物の人となりを描き込もうとか、表情を生きいきと表わそうというとこはなくて、描かれている人物の顔は能面のように無表情で生気は感じられません。それよりも、作品のスタイルというか、人物の形というもの、それを作品画面にどのようにデザインするか、構成するかということが関心の中心となっている。そして、ここで香月がお手本にしているゴッホにしても、ピカソにしても対象を写実するという画家ではなくて、すでに画家が描く前に言葉等でイメージができていて、それに従って、対象の形をとり入れて、作品を構成していくというタイプの画家であることも、香月の傾向を示唆しているように思えます。このような書き方をすると、香月を否定的に見ているように思われるかもしれませんが、彼はオリジナルに作品を創造するというより、いろいろ素材を構成して画面をデザインしていくタイプの作家であったことを、当初から見せていたのではないかと思ったからです。
Kazukirabbit  「兎」という1939年の作品です。これまでの作品に比べて、何か変わったという印象で、後の彼の作品に通じるとこが表われ始めた作品であると思います。まず、明らかに全体の基調色が黒で、おそらくそれを意識した色使いがなされているにもかかわらず、暗い印象がありません。これは、色を何らかの雰囲気とか感情を象徴的に表現するようには使われていないからで、香月の作品では、色に何らかの意味が付託されことがなく、ただ色という素材して即物的に使われている。変な喩えかもしれませんが、川久保玲のブランド「コム・デ・ギャルソン」の即物的で表面的な黒に通じるところがあるように、私には思えます。後年の「シベリア・シリーズ」では余計な情報がまとわりついているため、そういう先入観なしに見ることのできるこの作品の方がむしろ、そういう黒の特徴がよく見えてくると思えるのです。そして、タイトルにもなっている兎が平面的でただの黒面に白くとり残された兎の形の平面になっている。それだけでは、あんまりなので、というのでもないのかもしれませんが、塗面をパレットナイフで引っ掻いて、マンガの動線のような作為が加えられている。そんな兎に対して、背景となっている兎の入れられた箱や窓のある部屋の方がリアルに描かれている。画面を地と図に分けるとしたら、普通の作品は図が中心でテーマなどというのは図にあるのでしょうが、香月の作品はむしろ図が空虚で地の方に重点が置かれる傾向が強いと思います。この作品でも、描き込が背景のほうが強い。
Kazukigate  「門・石垣」という1940年の作品です。香月の作品には、窓とか扉から何かが覗いているという構図の作品が少なくありませんが、これはその最初期のものだろうと思います。後年の作品なら、この門の向こうに開かれている空間Hammerinterior4 には男の顔といった図が見えているはずですが、この作品では図ではなく地であるはずの石垣が描かれている。つまり、図が不在で地ばかりの作品となっている。この作品全体はハンマースホイの室内風景を描いた作品に似ているところがありますが、ハンマースホイの室内を描いた作品では人物が不在であることがかえって強く意識されて不在ということがテーマとなっているところがありますが、香月のこの作品では、人物がいるとかいないとかいったことは、最初から想定されていません。それよりも、矩形で画面が構成されているということ、白黒を基調とした画面に石垣のグリーンを帯びた色が緊張感を生み出しているということに重点が置かれている、ということが特徴的だと思います。
 「ホロンパイル」という1943年の作品です。モンゴル地方の大草原の地名で、応酬された軍隊の駐屯中、カンヴァスの代わりに麻袋を解いた布に描かれた作品だそうです。ここで描かれた人物はデ・キリコの描く人形みたいです。もっとも、この前に展示されている「釣り床」という作品の坊主頭の少年の描かれ方もよく似ていて、後ろ姿を形態として描くというようにして、人の形態を描いている。この時の人物の表情などは視野に入ってこない。「シベリア・シKazukihorron リーズ」を過剰に言葉で意味づけする立場の人なら、ここに画家の孤独とか死の影を見出すかもしれませんが、私には、香月という画家にとっては、人間の感情とか表情とかいう情緒的なものはどうでもよく、即物的な形だけが興味の対象で、本人もそのことが自覚できてきたということではないかと思います。Kazukitsuri 「ホロンバイル」では、異国のエキゾチックな風景の中で、そういうことが追求しやすかったのでないか、そのせいか、とても自然に見えます。そういうとこから、後年の「シベリア・シリーズ」について極限の体験の精華と言われることもあるようですが、図よりも地を描くという性向の香月としては、国内の光景はそこで生きてきたこともあって意味とか情緒と完全に切り離すことは難しいのに対して、モンゴルとかシベリアの光景は異国であり、収容所の光景は意味とか情緒には馴染みにくいであろうから、完全に即物的に捉えて描くことができた。つまり、素材として利用することができた。その意味で扱いやすかった。それに気づいたのが「シベリア・シリーズ」だったように、見ていて思えてきます。
Kazukigrave  「埋葬」という1948年の作品で、「シベリア・シリーズ」の一作です。顔を白布で覆われた遺体を穴の中に安置しようとしている人物の、うつむいた黒い頭頂の3分の2ほどがこちらに向けられています。手前には墓穴を掘るのに使ったのであろう、スコップの一部が見えています。これは,シベリアの収容所で栄養失調と過労のため亡くなった兵士の遺体を埋葬している場面です。黒一色の「シベリア・シリーズ」の他の作品とは違って、この作品は暖かな色が基調となっていますが、作品についての香月の解説では、私は異郷の冷たい土の下に葬られる戦友を、ことさら暖かな色で描いた、期しています。

2022年3月11日 (金)

生誕110年 香月泰男展(1)

Kazukipos  新型コロナ・ウィルスの感染が拡大し、その防止策として外出の自粛が励行され、人の集まる場所である美術館なども対応を迫られることなどもあって、私の場合は勤めも在宅勤務が多くなり、外出そのものの機会も大幅に減ってしまって、まして美術館を訪れることもなくなってしまいました。今回、美術展を見に行きましたが、約1年ぶりのことです。久し振りという感が強かったです。そのせいか、以前より、疲れました。今回は、運転免許の更新のために勤めを休み、そのついでに行ってきました。コロナ感染対策の蔓延防止措置の期間中であり、美術館のホームページには入館に際しての注意事項が掲載されていたりしましたが、実際に訪れてみたら、平日の午前中という時間帯でもあり、訪れる人もなく閑散としてると思っていたら、そこそこ入館者がいて、コロナの感染が広まった一昨年以前と、それほど変わりないのではないかと思えるほどでした。
 いつものように、香月泰男という画家の紹介がてら、主催者のあいさつを引用します。
 生誕110年を記念して香月泰男展を開催いたします。
 明治が大正に移り変わる直前の1911(明治44)年に山口県大津郡三隅村(現在の山口県長門市三隅)に生まれた香月泰男は、1974(昭和49)年に故郷三隅の自宅で心筋梗塞のために62歳で急逝するまで、旺盛な創作活動を展開し、独自の画境に到達し、20世紀中葉における日本美術に大きな足跡を残しました。
 戦前、1934年に東京美術学校(現・東京藝術大学)油画科で学ぶ学生時代に国画会展に初入選し画壇デビューを果たします。まさに日本におけるモダニズムが、反動や逸脱を含みながらも、同時代のグローバルな実験精神との共鳴を伴いつつ、多種多様に開花しようとする兆しをみせていた時代でした。若き画家もその影響を受けながら、早くも1940年代初めには特異なアングルからの画面構成による、大胆な抽象化をほどこした作品群を生み出しています。
 しかし、1941年に太平洋戦争が勃発し、画家は、1943年に招集され、当時の満州国ハイラル市に赴きます。1945年の日本の敗戦によって、シベリアに2年間抑留されることになります。その間、制作は中断を余儀なくされました。
 帰国後の「雨(牛)」は、のちに生涯の代表作となる「シベリア・シリーズ」の第1作と位置づけられることになります。牛と犬が左右に配された画面の中心部分には空虚で赤土色の色面が広がり、画面全体に雨が降り注いでいます。中国大陸での戦争体験を暗示するものの、まさに一瞬のうちに嘱目した光景を回想し、内面で普遍化した作品でした。
 本展では、2007(平成19)年から2012年度まで6年をかけてすべての修復を終えた「シベリア・シリーズ」全57点を展示いたします。それ以外の油彩画、素描などを加え、約150点を並べる回顧展となります。生誕から1世紀以上の時の流れは、この戦後美術の「レジェンド(伝説)」のひとつである記念碑的なシリーズを「大きな物語」の枠組みからゆるやかに解放し、ひとつひとつの作品誕生の際のまなざしや、画家の創作の原点を確認させてくれる絶好の機会になると思います。
 このあいさつはそれほどではありませんが、この展覧会を紹介する「美術手帳」の文章などは“50年代後半、黒色と黄土色の重厚な絵肌に到達した香月は、極限状態で感じた苦痛や郷愁、死者への鎮魂の思いをこめて太平洋戦争とシベリア抑留の体験を描き、「シベリアの画家」として評価を確立。”という書き方をしています。しかし、実際に、会場で展示されていた作品を見ていると、そういう形容とはどこか食い違う印象を受けます。たしかに黒を基調とした、モノクロームに近い作品が多く、会場全体を見回すと黒一色のようですが、そこに重苦しさのようなものは感じられませんでした。むしろ、お洒落なデザインというような、少し尖がっていながも落ち着いた雰囲気のようなものが感じられました。その意味で、香月の作品というのは、彼自身の体験を物語として、作品に物語のイメージでそれらしい感情の言葉を纏わせて見てしまうところがある。もっとも、香月自身も、そういう見られ方を巧みに利用して、見る者に効果を与えることを意図して画面を作っているところがある。そういうのではないか、というのが私の見た香月の作品の印象です。何か、まどろっこしい言い方で、分かりにくいかもしれません。それは、これから展示されていた作品を見ながら具体的に話していきたいと思います。

 

2022年3月10日 (木)

國分功一郎「暇と退屈の倫理学」

11112_20220310220901  アルチュール・ランボーはフランス・コミューンに参加し市街戦を闘い、その後19歳で「地獄の季節」を発表したあと、詩作をやめてしまい、アフリカに渡り商売人となったが、それまでの前半生と違ってパッとしない人生を送った。ロマン主義的な生の輝きに満ちた人生をわずか20年足らずで燃焼し尽くし、その後は余生という人もいる。彼の前半生のような生命を燃焼し尽くすような輝きに満ちた人生こそが本来の人の生き方と憧れる人は少なくない。現代でも生き甲斐を求める人にも、そういう姿勢が残っていると思う。そのような考え方は俗流の人生哲学などで、不完全燃焼の人生、具体的には日常に埋没した惰性のような人生などと批判する。そこに人が抱くのは退屈だと。
 著者は、それに対して退屈が非本来的と評されていることに疑問を提出し、それを様々な方向から考察していく。簡単にまとめると、動物は退屈することがないのは、その能力の目一杯を使い果たして、ようやく生存できているからである。元々、人間も動物と同じよう生存していたが、定住することによって能力を温存しても生存できるようになり、そこに退屈が生まれる余地ができた。その後、近代社会となり経済が成長するにつれて、退屈を生む時間を余暇として、そこに消費を売り込むという市場が生まれた。つまり、最初に述べた退屈は近代社会の成長とともに生まれたもので、それを批判するのは、一種の近代社会に対する反動と言えなくもないということだ。しかし、だからといって、人間が元々の能力を目一杯、ぎりぎりのところで生存する本来の姿が理想だと言えるか。
 ここで、著者は本来の姿だからよしとすることに疑義を呈する。本来という議論は、よしとするという判断が先に在って、それを正当化するための後付けの理屈にすぎない。その証拠に本来と非本来の区切り方によって、どれが本来かが変わってくるからだ。例えば、動物のように目一杯のところで生存しているのと一線を画しているが人間なのだから、退屈することこそが人間と動物の違いで、退屈が本来なのだと言うことだってできる。
 そこで、今、われわれが現実に退屈するとはどういうことかを、分析していく。
まず退屈を二つに分けて考える。ひとつは何かによって退屈させられること。例えば例えば、田舎のローカル線で列車に乗り遅れて、次の列車まで4時間ある。駅前には何もなく、スマホのような時間つぶしのできるものを何も持っていない。これは意味のないと感じてしまう時間に放りだされる状態だという。だから、鉄オタのローカル線マニアが同じ駅で4時間待たされても、そこに意味を見出すので退屈しない。もうひとつは何かに際して退屈すること。ひとつ目の退屈のような特定の何かによって退屈させられるのではなく、何がその人を退屈させているか明瞭でない、なんとなく。いつのまにか、気がついたら退屈している。そういう退屈だ。ちょっと分かりにくいかもしれなないが、著者は、これは我々が普段最もよく経験する退屈だという。何かに際して退屈する、その何かには生きることを当てはめてもいいからだ。ひとつめの退屈は意味を見つければ退屈は克服できる。この意味を見つける、あるいは新しい意味を創り出すというのは、人間もっている可能性につながると言うこともありうる。
 これに対してふたつめの方は、人は普段、この退屈を生きている。そこには安定があり、人はそういう安定の中で生きている。たとえば、将来を思い悩む大学生にとって、自分に何ができるか、どんな仕事があるか、といったことを考えるのは苦しい。しかも何をしていいのか分からない。おそらくそんなとき退屈にとらわれる。それにはとても耐えられない。だから、それよりもましに思えるものにとびつく。たとえば、「資格をとっておけば安心だ」という世間の声。とりあえず資格取得に一生懸命になれば、苦しさを忘れることができる。そうして資格取得の決断を下す。決断してしまえば快適である。周囲からも「一生懸命頑張っているね」と褒めてもらえる。しかし、それは好きで、やりたくて物事に打ち込むこととは訳が違う。自分の奥底から響いてくる声から逃れるための自己欺瞞と言ってもいい。おそらく、多くの人々は、こういう欺瞞をなんとかやり過ごして生きている。そのために退屈と気晴らしとの混じり合いの中で生きている。さらに著者は言う。そもそも、大学生が思い悩むのは「考える」ということを大切にするということがある。しかし、人間の生活というのは考えないで済むことを目指して作られてきたのだと指摘する。その典型的なものが習慣というものだ。
 何かお先真っ暗だ。しかし、これはパンドラの箱なんだろうなと思う。つまり、ここまでで、パンドラの箱をあけてあらゆる災いの源が飛び出していったのが、これまでの議論で箱の底に希望が残されていた。ということがこの著作の結論で、それは議論のプロセスだろうということだ。だから、この著作の題名が「倫理学」となっているのだと思う。

 

2022年3月 8日 (火)

辻本雅史「江戸の学びと思想家たち」

11112_20220308201401  江戸時代の思想家をとり上げた本といえる、それぞれの思想家の思想を綿密に解説するのではなく、彼らがとった学びのスタイルと利用したメディアに注目して論じていることが本書の大きな特徴。本書が注目するのは彼らの学び方であり、受容のされ方で、ここに注目することで本書は思想だけはなく、江戸時代の社会のあり方にまで考察を広めている。それが、とても今日深いもので、それぞれの思想家の姿が生きいきと蘇ってくるようで、その思想も過去の遺産ではなくアクチュアルに生きているものとして見えてくる。
 何よりも、序章と第1章で示される、近代とは異質の江戸時代の教育のあり方がなんとも面白い。最初に、評論家の唐木順三が明治20年前後の生まれを境にして、明治の知識人には切断線があると述べたことを紹介する。具体的に言えば、森鴎外や夏目漱石、幸田露伴、内村鑑三、西田幾多郎といった「明治第一世代」とその後続の「大正教養派」を形成する世代との間だ。第一世代は「四書五経の素読」をうけた世代であり、そこには「形式と型と規範」が保持されていたという。素読とは漢文の基礎学習でテキストを繰り返し暗唱することだが、それは「己を空しくする体験」という。素読を通して、古典を身体化し、いわば自己は古典と一体化した中で形成される。そこには、自分一個の小さな自己を超えた普遍につながる大きな自己が想定されていた。漢学ではそれを道と表現して、路に達することが学問の目標とされていた。これに対して、明治第二世代以降の教養派は、西洋の近代的自己を各人固有の個性に見出し、その内面を近代読書(黙読)によって内容を理解する読書によって満たす。そこには身体性を伴った「型」が入る余地はなかった。このような人々を育てたのが、近代的な学校教育だという。
 そこで、我々には当たり前のような学校教育とは、異質な、我々から見れば別物と言ってもいい江戸時代の教育の姿を本書は明らかにしていく。おそらく著者は明言の説明はしていないが、ここには、ミシェル・フーコーの近代国家の権力装置として人々の統合に機能した学校教育に対する批判的な視線があったと思う。それほどに江戸時代の教育の姿は生き生きとして、魅力的に映る。
 江戸時代に民衆の日常生活にまで文字が普及したのは兵農分離の影響だという。それ以前の中世では農民が武器を持ったり、武士が村で農耕をしたりと兵農未分だった。そのため領主は、武力反乱に備えて、領地で直接的な人身支配が必要だった。しかし江戸時代になると刀狩り等によって兵農分離が進み、支配層は領地から離れて都市に集住する。都市に在住する「兵」が空間的に隔たった村の「農」を支配するためには、明文化した法令や文書が欠かせなくなる。そこで、支配する方もされる方も文字が読めることが必要不可欠になった。そこで村をまとめる村役人は年貢の納入の責任も負わされた。年貢は収穫高によって計算されるので、高度な計算と書記の能力が求められた。一方、都市では貨幣経済が発達し、村もそれにのみこまれていく。そこで作物を都市の商人相手に一方的に買い叩かれないために、農民にも文字と計算の能力が必要となった。つまり、普通の人々も読み書きや計算ができなければ、生活できなくなっていた。そこで、民衆は寺子屋あるいは手習で学んだ。手習塾では、まず書き方が教えられた。書き方というのは、単に文字が書けるというだけではない、文書作成上の約束事や文字を書くことに関連した知識の学習を含んでいた。ちなに、儒学ではまずは素読(読み)から始まるが、庶民向けの手習塾ではまずは「書き」が重視された。このように庶民は書くことの規格を身につけた。江戸の町は全国各地から人が集まり、訛りや方言で話し言葉での意思疎通には支障があっても、文書は規格化されていたためスムースに情報が伝わった。これは、フーコーの言うような、権力による上からの指示が末端まで伝わる言葉の統一を強制するというのではなくて、江戸時代の日本では、民衆の生活レベルで地域を超えた広範囲の経済や情報の流れがつくられ、そのために自然と文書という言語形態の規格化・共通化が形成されたということになる。そういう社会では、メディアとして出版事業が成長したり、民衆が学問への志向が生まれて行った。そして、学者は中国なら科挙に合格して国の保護を受けることを目指すのだが、日本では門人を集め私塾を営むことで生活をするものとなった。そこには競争が生まれる。他の塾と同じことをしていれば、門人を増やすことはできないので、差別化が必要となる。そこで、思想のオリジナリティーが自然と求められるようになっていく。それが、江戸時代の個性的な思想家の出現の背景となった。これは、中国の学者が科挙に合格するため、決まったことだけを身に着けることとは異なる方向性だった。
 こういう分析、とてもよく分かる。そこから、その具体例として何人かの思想家を取り上げて紹介している。ただし、その選び方に著者の意図が垣間見えてくる。例えば、江戸時代の儒学といえば、当時の公的な権威であったはずの幕府お抱えの林家は取り上げられていないで、著者がまず取り上げたのは山崎闇斎。江戸初期に儒学を学ぶ上で問題になったのが、中国の古典語で書かれた経書をいかに読むのかということで、朱子学が『大学』『中庸』『論語』『孟子』を「四書」と言って重視し、その注釈書「四書集註」を、林羅山を含めた儒者たちは、この四書や四書集註に訓点をつける作業を進めた。これによって四書を日本語で「読める」ようにしたのだ。このような儒者の態度に反発したのが闇斎で、彼は集註への些末な注釈に終始する学問のあり方こそ朱子の真意を見失わせるとして批判した。学説の解釈のではなく朱子が学んだのと同じ学びを追体験することで、その真意を己の身に身体化しようとした。闇斎が求めたのは、ゆるぎない心の確立とその方法だった。その特徴は他者との関係性(五倫)の中で日々正しく実践できる心の在り方を探究した。そして、彼は体認自得した朱子の真意の伝達者となって、理論的というより生身の身体に直に迫るような感覚的な語りで語った。これを講釈という。このような闇斎の思想と方法は、江戸初期の武士にとっては、学問の勉強というのではなく、剣術等の修業と似ていて、受け入れやすかった。それゆえ大名や武士たちに広まった。
 一方、伊藤仁斎は京都の裕福な商家の家に生まれ、町衆の文化の中に育ち、儒学に没頭した仁斎は、家業を弟に譲って学問に専念した。仁斎には闇斎の一途な姿勢は頑迷固陋に映った。仁斎は仲間と「同志会」を開く。後に「古義堂」と呼ばれる学問塾の始まりで、ここでは仲間が輪番で講義をし、それをもとに討論する「輪講」という形式がとられた。闇斎の「講釈」が大学の講義のように師が一方的に語る講釈に対して、「輪講」は連歌や和歌の会などに近いもので門人らと指定の区別なく議論するというゼミナールのようなもの、これは闇斎のスタイルの対極にあるものでもあります。そういうところから生まれた仁斎の思想は、仁斎の思想は「人倫日用」の言葉に要約される。つまり他者との日常的な関係性こそが人間をつくり上げるのであり、朱子学のような形而上学ではなく、いま眼の前のその人といかに正しく交わるかという問いこそが、孔子の問いであるという。このような思想や仁斎の塾のスタイルは武士だけでなく、学問ではあるのだが風雅に似た趣もあったため、京都の町衆や公家などにも身分の別なく、門人を得ることができた。
 この他に、荻生徂徠、貝原益軒、石田梅岩、本居宣長、平田篤胤といった人々が紹介されるが、単に思想の内容を羅列するだけでなく、どのように考え、どのように伝えたか、そして、どのような人々に受け入れられたかで、彼らの思想の特徴を明らかにして行った。
 著者が江戸時代の教育や思想を紹介するベースには近代の学校教育や大学での学問研究に対する批判的な姿勢があると思うが、それは制度の機能不全という表面的なものではなく、それらの制度が担ってきた近代の知そのものが歴史的に不適合を起こしているためだという。その要因の一つがコミュニケーション在り方が変わり、人間の関係性が変容しつつあり、それに伴い人の意識や行動も変わりつつある。その一環である知のつくり方/つくられ方も例外ではない。そんな中で、著者は言う。直接的な人と人との触れ合いを妨げる行動様式は、人類の本来の属性に反することである。人類は他者とつながり、群れを成して社会システム築き完成させることで、進化してきたのだから。とすれば、身体性の希薄化が進む中で知の身体性の復権を求めるバネが、どこかで強まってくるのではないか。
 とはいえ、著者は江戸時代に戻れと言っているのではないだろう。それは、本書で江戸時代の社会には、それなりの必然性があり、その社会の人々の求めに応えるように、本書で紹介された知がつくられた説明されているからだ。その先、読者が自分で考えることだろう。そういう意味で、面白い本だと思う。

2022年3月 6日 (日)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2021(8)~年次総会

 カレンダーを空けておいてください。バークシャーは、4月29日(金)から5月1日(火)まで、オマハで毎年恒例の年次総会を開催します。詳細は、A-1、A-2ページをご覧ください。オマハはあなたのお越しをお待ちしています。
 この手紙の最後に、売り込みをしよう。「いとこ」のジミー・バフェットがデザインしたポンツーン型の「パーティー」ボートが、バークシャー社の子会社であるフォレスト・リバー社によって製造されることになりました。このボートは、4月29日に開催されるバークシャーのバーゲン・バザーで紹介される予定です。そして、株主の皆様には、2日間だけ、ジミーの傑作を10%割引でお買い求めいただけます。バーゲン好きの会長は、家族で使うボートを購入することになる。ご一緒にどうぞ。

 これで、2021年の株主への手紙の翻訳を終わります。拙い訳にお付き合いいただき、ありがとうございました。

2022年3月 5日 (土)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2021(7)~感謝

感謝
 私が初めて投資教室を開いたのは、70年前のことです。以来、ほぼ毎年、あらゆる年齢の生徒たちと楽しく仕事をしてきましたが、2018年に70年間続けていたことから「引退」しました。
 その際、最も苦労したのは、私の孫のような小学校5年生のクラスでした。11歳の子どもたちは、私がコカ・コーラとその有名な秘密の処方の話をするまで、座席でもじもじしながら、私を無表情で見つめていました。そして、子供たちにとって「秘密」はとても大切なものだということを学びました。
 教えることは、書くことと同じように、私自身の考えを発展させ、明確にしてくれるものです。チャーリーはこの現象をオランウータン効果と呼んでいます。オランウータンと一緒に座って、自分の大切な考えを丁寧に説明すると、戸惑う霊長類を残して、自分はより明確に考えることができるようになるからです。
 大学生と話すのは、はるかに優れています。私は、もしお金に困らないのであれば、(1)現場で、(2)どういう人を選んで就職するのかを考えてほしい、と言ってきました。経済的な事情で、そのようなことができないのは仕方がない。でも、決してあきらめないでほしい。そのような仕事に就いたとき、彼らはもう「働く」ことはないのだから。
 チャーリーと私は、初期のつまずきを経て、その解放された道を歩むことになったのです。私たちは、1940年にチャーリー、1942年に私が祖父の経営する食料品店でパートタイマーとして働き始めました。チャーリーは1940年、私は1942年に、それぞれ祖父の食料品店でパートタイマーとして働き始めたのですが、それぞれつまらない仕事を任され、給料も少なく、私たちが考えていたようなものではありませんでした。その後、チャーリーは法律家になり、私は証券を売ってみた。しかし、仕事に対する満足感は得られないままだった。
 バークシャーでようやく、好きなことに出会えたのです。ごく少数の例外を除き、私たちは今、好きで信頼できる人たちと何十年も「一緒に」働いています。ポール・アンドリュースや昨年お話したバークシャーファミリーのような経営者と一緒になることは、人生の喜びでもあるのです。本社のオフィスには、まともで優秀な人材が揃っていますし、嫌なヤツはいません。離職率は平均して年に1人くらいでしょうか。
 しかし、私たちの仕事を楽しく、やりがいのあるものにしてくれるもう一つの項目、それは、「客のために働く」ということです。チャーリーと私にとって、何十年にもわたり、私たちが信頼できる資金管理者であることを期待して入社された長期保有株主の方々の信頼を得ることほど、やりがいのあることはないのです。
 もちろん、パートナーシップのように所有者を選ぶことはできません。バークシャーの株は、誰でもすぐに転売するつもりで買うことができるものです。そのような株主が少なからずいることは確かで、単に必要だからという理由でバークシャーの株を大量に保有するインデックス・ファンドがいるのと同じことです。
 しかし、バークシャーは、非常に珍しいことに、「死が二人を分かつまで」という意思を持って参加することを選択した、非常に多くの個人や家族を株主として持っています。そして、その方々の貯蓄の大部分(過剰とも言える)を私たちに預けていただいているのです。
 バークシャーは、自分たちが選んだベストな選択とはほど遠いかもしれないと、この株主たちは時に認めます。しかし、「バークシャーは、自分たちが最も納得できる銘柄の上位に位置する」と付け加えるのです。そして、常に変化する見出し、おしゃべり、約束に振り回される投資家よりも、安心して投資できる投資家の方が、平均的に良い結果を出すのです。
 長期的な個人株主は、チャーリーと私が常に求めてきた「パートナー」であり、バークシャーで意思決定を行う際に常に念頭に置いている存在です。私たちは彼らに、「あなたのために "働く "のは気分がいい、あなたの信頼に感謝します」と言うのです。

 

2022年3月 4日 (金)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2021(6)~素晴らしい人々と素晴らしいビジネス

素晴らしい人々と素晴らしいビジネス
 昨年、ポール・アンドリュースが亡くなりました。ポールは、バークシャー社の子会社でフォートワースに本拠を置くTTI社の創業者でありCEOでした。その生涯を通じて、ビジネスでもプライベートでも、ポールは、チャーリーと私が賞賛するすべての資質を静かに発揮してました。彼の物語は語り継がれるべきものです。
 1971年には、ポールはゼネラルダイナミクス社の購買担当として働いていましたが、工場の屋根が崩落し、巨大な防衛契約を失った同社は、ポールを含む数千人の従業員を解雇したのでした。
 第一子の出産を間近に控えたポールは、自分に賭けてみようと思い、500ドルの貯金をはたいてテックストロニクス社(後にTTIと改称)を設立したのです。小型電子部品の販売を目的に設立され、初年度の売上は11万2,000ドルでした。現在、TTIは100万種類以上の商品を販売し、年間売上高は77億ドルに達しています。
 しかし、話は2006年にさかのぼります。当時63歳だったポールは、家族にも仕事にも仲間にも満足していました。しかし、最近、友人の早すぎる死と、その友人の家族や会社が受けた悲惨な結果を目の当たりにしていたため、彼には1つだけ気がかりなことがあった。もし、自分が突然死んだら、自分を頼りにしている多くの人たちはどうなるのだろう?と。
 1年間、ポールは選択に悩みました。競合他社に売る?経済的に見れば、それが一番合理的です。競合他社は、TTIの重複した機能を削減することで、「シナジー効果」を期待することができるのです。
 しかし ... ... そのような購入者は、CFO、法律顧問、人事部門も確実に持っているでしょう。そのため、TTIの担当者はお払い箱になつてしまいます。そして、もし、新しい配送センターが必要なら、フォートワースよりも買収者の故郷の方が有利になるに違いありません。
金銭的なメリットはともかく、競合他社への売却は自分には無理だとすぐに結論づけました。かつて「レバレッジ・バイアウト(LBO)」と呼ばれたこともある。しかし、そのような買い手は、「出口戦略」を重視していることが分かっていました。それが何であるかは、誰にも分からりません。そんなことを考えながら、ポールは、35年前に作った会社を転売屋に渡することを思いとどまりました。
 ポールは私に会うなり、この2つの選択肢を買い手として排除した理由を説明しました。そして、彼は自分のジレンマを、これよりはるかに機転の利く言い回しで、こう要約したのでした。「1年間、代替案を熟考した結果、残ったはあなただけだから、バークシャーに売りたい。」そこで私はオファーを出し、ポールは「イエス」と答えました。たった1回のミーティング、1回のランチ、1回の取引、で。
 その後、私たち2人は幸せに暮らしましたとさ・・・。バークシャーがTTI社を買収した当時、TTI社の従業員数は2,387名でした。それが今では8,043人です。その成長の大部分は、フォートワースとその近郊で行われたのでした。収益も673%伸びました。
毎年、私はポールに電話をして、彼の給料を大幅に上げるべきだと言うと、彼は、「その話は来年にしよう、ウォーレン、俺は今忙しいんだ」と言うのでした。
 グレッグ・アベルと私はポールの追悼式に出席し、子供たちや孫たち、TTI社の最初の従業員を含む長年の仲間、そしてバークシャー社が2000年に買収したフォートワースの会社の元CEO、ジョン・ローチと会いました。ジョンは、友人のポールをオマハに紹介し、直感的に私たちとの相性がいいと思ったのだろう。
 葬儀の席で、グレッグと私は、ポールが黙々と支援した多くの人々や組織について話を聞きました。特にフォートワースの人々の生活を向上させるために、彼の寛大さの幅は並大抵ではありませんでした。
 あらゆる意味で、ポールは一流の人物でした。

 

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 バークシャーでは、幸運が、時には並外れた幸運が、その一端を担ってきました。ポールと私の共通の友人であるジョン・ローチがいなかったら、TTI社が私たちのもとにやってくることはなかったでしょう。しかし、その幸運はほんの始まりに過ぎませんでした。TTI社は、バークシャー社にとって最も重要な買収につながることになったのでした。
 毎年秋になると、バークシャーの役員が集まり、当社の数名の幹部によるプレゼンテーションが行われます。その際、買収した子会社のCEOに会い、買収先の企業活動を知ることができるよう、買収先企業の所在地を考慮して開催することもあります。
2009年秋、TTI社を訪問するために、結果的にフォートワースを選びました。当時、同じくフォートワースをホームタウンとするBNSF社は、バークシャー社の市場性株式の中で第3位の保有銘柄でした。しかし、それほどの大株主でありながら、本社を訪問したことはなかったのです。
 私のアシスタントであるDeb Bosanekは、10月22日に取締役会のオープニング・ディナーを予定していました。一方、私はその日のうちに到着し、かねてから尊敬していたBNSF社のマット・ローズCEOに会う約束をしていました。まさか、その日がBNSF社の第3四半期決算発表の日であるとは、思いもよらなかったのです。
 市場は、この鉄道会社の決算にひどく反応しました。第3四半期は大不況が本格化し、BNSF社の業績もその影響を受けて低迷していたのです。経済の先行きも暗く、ウォール街は鉄道に好意的ではなかったし、他の企業にも好意的ではなかったのです。
翌日、私は再びマットと会い、バークシャー社は、鉄道会社が上場企業として期待できるよりも長期的に良い住処を提供することを提案しました。そして、バークシャー社が支払うであろう最高額も伝えました。
 マットは、この提案をBNSF社の役員やアドバイザーに伝えました。それから11日後、バークシャーとBNSF社は正式に契約を結んだと発表しました。ここで、私は珍しく予言しておきましょう。BNSF社は、100年後もバークシャー社やわが国にとって重要な資産になるだろうということを。
BNSF社の買収は、ポール・アンドリュースがバークシャー社をTTI社の本拠地としてふさわしいと見定めていなければ、実現しなかったことでしょう。

 

2022年3月 3日 (木)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2021(5)~自己株式取得

自己株式取得
 私たちが皆さんの投資価値を高めさせる方法は3つあります。1つ目は、常に私たちの頭の中にある最重要事項です。つまり、内部成長または企業買収によって、バークシャーの支配下にある事業の長期的な収益力を高めることです。現在では、買収よりも内部成長の方がはるかに良いリターンが得られます。しかし、その規模は、バークシャーの経営資源に比べれば小さいものです。
 2つ目は、上場している多くの優れた、あるいは素晴らしいビジネスの非支配的な部分持分を購入することです。時折、そのような可能性は数多くあり、あからさまに魅力的です。しかし、現在では、そのような魅力的なものはほとんど見当たりません。
 それは、分かり切ったことです。長期金利が低いと、株式、マンション、農場、油田など、あらゆる生産的な投資の価格が上昇するからです。他の要因もバリュエーションに影響を与えますが、金利は常に重要です。
 3つ目は、バークシャー株の買い戻しです。この単純な行為によって、バークシャーが所有する多くの支配下および非支配下ビジネスにおける皆さんのシェアを拡大します。価格と価値のバランスが取れていれば、この方法は最も簡単で確実な方法で、皆さんの資産を増やすことができます。(継続的な株主への価値の付加と同時に、他のいくつかの関係者も利益を得ることができます。自社株買いは、売り手にとっても、社会にとっても、ささやかな利益となります)。
 定期的に、代替案が魅力的でなくなると、バークシャーの株主にとって買戻しは良い意味を持ちます。そこで、過去2年間に、2019年末時点の発行済み株式の9%、総額517億ドルを買い戻しました。この支出により、継続株主は、完全所有(BNSFやGEICOなど)、一部所有(コカ・コーラやムーディーズなど)を問わず、バークシャーの全事業の約10%を所有することになりました。
 バークシャーの自己株式取得が意味を持つためには、当社の株式が適切な価値を提供しなければならないことを強調しておきたいと思います。他社の株式を買いすぎるのは好ましくありませんし、バークシャーの株式を買うときに買いすぎてしまっては、価値が損なわれてしまいます。2022年2月23日現在、年末から12億ドルのコストで株式を追加取得しました。我々の投資意欲は依然として大きいが、常に価格に左右されることに変わりはありません。
 なお、バークシャーは高級投資家層であるため、買い戻しの機会は限られています。もし、当社の株式が短期的な投機筋に多く保有されるようになれば、価格変動も取引量も大幅に増加することになるでしょう。そうなれば、自社株買いによる価値創造のチャンスは格段に広がるでしょう。とはいえ、チャーリーと私は、今の株主をはるかに気に入っています。彼らの見事な「買い持ち」姿勢は、長期株主が好機的な買戻しによって利益を得られる範囲を限定するものではありますがね。
 最後に、バークシャー特有の見落としがちな価値計算をひとつ。これまで述べてきたように、適切な種類の保険「フロート」は、私たちにとって大きな価値を持っています。そのため、買戻しによって1株当たりの「フロート」が自動的に増加します。この2年間で、A株のフロートは79,387ドルから99,497ドルへと25%増加し、その価値は前述のように買戻しのおかげであると言えます。

 

2022年3月 2日 (水)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2021(4)~投資&米国財務省短期証券

投資
 次に、私たちが支配していない企業についてですが、このリストには再びアップルが登場します。そのうちのいくつかは、バークシャーの2人の長年の投資マネージャー、トッド・コームズとテッド・ウェシュラーが選んだものです。年末時点で、この2人は340億ドルの投資に関する全権限を持っていましたが、その多くは私たちが表で使用している閾値に届いていません。また、トッドとテッドが運用する資金の大部分は、バークシャー社傘下の企業の年金制度に預けられており、これらのプランの資産はこの表には含まれていません。
 バークシャーは、脚注のオクシデンタル社や当社のさまざまな普通株ポジションに加え、クラフト・ハインツ社の株式26.6%(時価ではなく持分法で会計処理され、131億ドルで計上)、昨年の売上高450億ドルの旅行センター大手パイロット社の38.6%も保有しています。
 2017年にパイロット社の株式を購入して以来、この持ち株は持分会計処理を保証しています。2023年の早い時期に、バークシャーはパイロット社の追加取得し購入し、当社の持分を80%に引き上げ、当社の財務諸表にPilotの収益、資産、負債を完全に連結させることにつながります。
 2017年にパイロット社の株式を購入して以来、この持ち株は持分会計処理を保証しています。2023年の早い時期に、バークシャーはパイロット社の株式を追加取得し、当社の持分を80%に引き上げ、当社の財務諸表にパイロット社の収益、資産、負債を完全に連結させることにつながります。

 

米国財務省短期証券
 バークシャーの貸借対照表には、1440億ドルの現金および現金同等物が含まれています(BNSFとBHEの保有分を除く)。このうち1200億ドルは米国財務省短期証券で、すべて1年以内に満期を迎えるものです。その掛け金によりバークシャーは公的保有国債の1%の約1/2の資金を調達することになります。
 しかし、1,440億ドルとは。
 この堂々たる金額は、決して愛国心の狂信的な表現ではないことを保証します。また、チャーリーも私も、企業オーナーになることへの圧倒的な憧れを失ったわけでもありません。今から80年前の1942年3月11日、私はシティーズサービスの優先株を3株購入し、初めてその熱意を示しました。その時の費用は114.75ドルで、私は貯金のすべてをはたいたのでした。(その日のダウ平均株価は99で引けたのだから、この事実は叫ばれてしかるべきだろう。アメリカには逆らうな」と。)
 最初の暴落の後、私は常に純資産の80%以上を株式で持っていました。この頃の私のお気に入りのステータスは100%であり、現在もそうです。バークシャーの現在の80%程度の株式保有は、私が長期保有の基準を満たす企業全体あるいはその一部(つまり市場性のある株式)を見つけられなかった結果です。
 チャーリーと私は、過去に時々、同じような多額の現金ポジションに耐えたことがあります。このような時期は決して楽しいものではありませんが、決して永続的なものでもありません。そして幸いなことに、2020年と2021年の間に、資本を展開するための穏やかで魅力的な代替案があったのです。

 

2022年3月 1日 (火)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2021(3)~我々の4つの巨大事業

我々の4つの巨大事業  

 バークシャーを通じて、株主の皆さんは何十もの事業を所有していることになります。その中には、子会社をいくつも持っているものもあります。例えば、マーモンは、鉄道車両のリースから医療機器の製造まで、100以上の個別事業を持っています。

  • とはいえ、「ビッグ4」と呼ばれる企業の事業は、バークシャーの価値の中で非常に大きな割合を占めています。その筆頭が保険会社群です。バークシャーはこのグループを実質的に100%所有しており、その巨大なフロート値は前述しました。 これらの保険会社の投資資産は、約束を裏付けるために私たちが投資する莫大な資本によってさらに拡大されます。
    保険事業はバークシャーのオーダーメイドです。 商品は決して時代遅れになることはなく、販売量は一般的に経済成長とインフレの両方とともに増加します。 また、誠実さと資本は永遠に重要です。 私たちの会社はうまく振る舞うことができ、そしてこれからも振る舞います。
    もちろん、優れたビジネスモデルと展望を持つ他の保険会社もあります。 ただし、バークシャーの経営を再現することはほとんど不可能です。
  • 年末の時価総額で次点となったアップルは、別の種類の保有銘柄です。保有比率は5.55%で、前年度の5.39%から上昇しています。この増加率は、まるで小さいもののように聞こえます。しかし、2021年のアップルの利益の0.1%は1億ドルに相当します。私たちは保有率を上げるためにバークシャーの資金を使わって買い足すことはしていません。保有率の上昇はアップルの自社株買いによるものだす。
    バークシャー社が報告するGAAPベースの利益には、アップルからの配当金だけが計上されていることを理解することが重要です。そして昨年、アップルはそのうちの7億8500万ドルを私たちに支払ってくれました。しかし、アップルの利益のうち私たちの「取り分」は56億ドルという途方もない額になっています。その多くはアップル社株式の買い戻しに充てられましたが、私たちはこの行為を賞賛します。アップルの優秀なCEOであるティム・クックは、アップル製品のユーザーを第一に考えていますが、他のすべての顧客もティムの経営的手腕の恩恵を受けています。
  • 第3の巨人であるBNSFは、アメリカの流通の第一の動脈であり続けており、バークシャーだけでなくアメリカにとっても不可欠な資産となっています。もし、BNSFが運ぶ多くの重要な製品が代わりにトラックで運ばれるようなことになれば、アメリカの二酸化炭素排出量は急増することになります。
    この鉄道会社は、2021年に60億ドルという過去最高益を達成しました。ここで注目すべきは 私たちが好む昔ながらの利益についてです。つまり、利子、税金、減価償却費、償却費、あらゆる報酬の後に計算される数字です。(この定義には注意が必要です。株価が上昇するにつれて、利益の「調整」が頻繁に行われるようになり、また、より虚偽的な表現が多くなってきています。より丁寧な言い方をすれば、強気相場は口先だけの強気を生むということだ......)
    BNSFの列車は昨年、1億4300万マイルを走行し、5億3500万トンの貨物を運びました。この2つの実績は、他のアメリカの輸送会社の実績をはるかに上回っています。皆さんはこの鉄道会社を誇らしく思うことができます。
  • 最後の巨人であるBHE社は、2021年に過去最高となる40億ドルを稼ぎ出しました。バークシャーが初めてBHE社の株式を購入した2000年に得た1億2200万ドルと比べると、30倍以上に増えているのです。現在、バークシャーはBHE社の株式の91.1%を所有しています。
    BHE社の社会的功績は、財務的業績と同様に目覚しいものがあります。2000年当時、同社は風力発電も太陽光発電も持っていませんでした。巨大な電気事業者の中では比較的新しく、マイナーな存在と見なされていました。その後、デビッド・ソコルとクレッグ・アベルのリーダーシップのもと、BHE社は電力会社の大企業となり(うめき声はご遠慮ください)、全米の風力発電、太陽光発電、送電の分野で主導的勢力となったのです。
    これらの成果に関するグレッグのレポートは、A-3ページとA-4ページに記載されています。そこにあるプロファイルは、現在流行している「グリーンウォッシング」ストーリーの1つではありません。 BHE社は、2007年以来、毎年、再生可能エネルギーと送電の計画と実績を忠実に詳細に説明してきました。
    この情報をさらに確認するには、BHE社のウェブサイト(brkenergy.com)をご覧ください。そこでは、BHE社が以前から気候変動に配慮した動きをしており、それが収益のすべてを吸い上げていることがわかります。この先には、さらなるチャンスが待っています。BHE社には、わが国が必要とする巨大な電力プロジェクトに取り組む経営陣、経験、資本、そして意欲があります。

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