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2022年3月 8日 (火)

辻本雅史「江戸の学びと思想家たち」

11112_20220308201401  江戸時代の思想家をとり上げた本といえる、それぞれの思想家の思想を綿密に解説するのではなく、彼らがとった学びのスタイルと利用したメディアに注目して論じていることが本書の大きな特徴。本書が注目するのは彼らの学び方であり、受容のされ方で、ここに注目することで本書は思想だけはなく、江戸時代の社会のあり方にまで考察を広めている。それが、とても今日深いもので、それぞれの思想家の姿が生きいきと蘇ってくるようで、その思想も過去の遺産ではなくアクチュアルに生きているものとして見えてくる。
 何よりも、序章と第1章で示される、近代とは異質の江戸時代の教育のあり方がなんとも面白い。最初に、評論家の唐木順三が明治20年前後の生まれを境にして、明治の知識人には切断線があると述べたことを紹介する。具体的に言えば、森鴎外や夏目漱石、幸田露伴、内村鑑三、西田幾多郎といった「明治第一世代」とその後続の「大正教養派」を形成する世代との間だ。第一世代は「四書五経の素読」をうけた世代であり、そこには「形式と型と規範」が保持されていたという。素読とは漢文の基礎学習でテキストを繰り返し暗唱することだが、それは「己を空しくする体験」という。素読を通して、古典を身体化し、いわば自己は古典と一体化した中で形成される。そこには、自分一個の小さな自己を超えた普遍につながる大きな自己が想定されていた。漢学ではそれを道と表現して、路に達することが学問の目標とされていた。これに対して、明治第二世代以降の教養派は、西洋の近代的自己を各人固有の個性に見出し、その内面を近代読書(黙読)によって内容を理解する読書によって満たす。そこには身体性を伴った「型」が入る余地はなかった。このような人々を育てたのが、近代的な学校教育だという。
 そこで、我々には当たり前のような学校教育とは、異質な、我々から見れば別物と言ってもいい江戸時代の教育の姿を本書は明らかにしていく。おそらく著者は明言の説明はしていないが、ここには、ミシェル・フーコーの近代国家の権力装置として人々の統合に機能した学校教育に対する批判的な視線があったと思う。それほどに江戸時代の教育の姿は生き生きとして、魅力的に映る。
 江戸時代に民衆の日常生活にまで文字が普及したのは兵農分離の影響だという。それ以前の中世では農民が武器を持ったり、武士が村で農耕をしたりと兵農未分だった。そのため領主は、武力反乱に備えて、領地で直接的な人身支配が必要だった。しかし江戸時代になると刀狩り等によって兵農分離が進み、支配層は領地から離れて都市に集住する。都市に在住する「兵」が空間的に隔たった村の「農」を支配するためには、明文化した法令や文書が欠かせなくなる。そこで、支配する方もされる方も文字が読めることが必要不可欠になった。そこで村をまとめる村役人は年貢の納入の責任も負わされた。年貢は収穫高によって計算されるので、高度な計算と書記の能力が求められた。一方、都市では貨幣経済が発達し、村もそれにのみこまれていく。そこで作物を都市の商人相手に一方的に買い叩かれないために、農民にも文字と計算の能力が必要となった。つまり、普通の人々も読み書きや計算ができなければ、生活できなくなっていた。そこで、民衆は寺子屋あるいは手習で学んだ。手習塾では、まず書き方が教えられた。書き方というのは、単に文字が書けるというだけではない、文書作成上の約束事や文字を書くことに関連した知識の学習を含んでいた。ちなに、儒学ではまずは素読(読み)から始まるが、庶民向けの手習塾ではまずは「書き」が重視された。このように庶民は書くことの規格を身につけた。江戸の町は全国各地から人が集まり、訛りや方言で話し言葉での意思疎通には支障があっても、文書は規格化されていたためスムースに情報が伝わった。これは、フーコーの言うような、権力による上からの指示が末端まで伝わる言葉の統一を強制するというのではなくて、江戸時代の日本では、民衆の生活レベルで地域を超えた広範囲の経済や情報の流れがつくられ、そのために自然と文書という言語形態の規格化・共通化が形成されたということになる。そういう社会では、メディアとして出版事業が成長したり、民衆が学問への志向が生まれて行った。そして、学者は中国なら科挙に合格して国の保護を受けることを目指すのだが、日本では門人を集め私塾を営むことで生活をするものとなった。そこには競争が生まれる。他の塾と同じことをしていれば、門人を増やすことはできないので、差別化が必要となる。そこで、思想のオリジナリティーが自然と求められるようになっていく。それが、江戸時代の個性的な思想家の出現の背景となった。これは、中国の学者が科挙に合格するため、決まったことだけを身に着けることとは異なる方向性だった。
 こういう分析、とてもよく分かる。そこから、その具体例として何人かの思想家を取り上げて紹介している。ただし、その選び方に著者の意図が垣間見えてくる。例えば、江戸時代の儒学といえば、当時の公的な権威であったはずの幕府お抱えの林家は取り上げられていないで、著者がまず取り上げたのは山崎闇斎。江戸初期に儒学を学ぶ上で問題になったのが、中国の古典語で書かれた経書をいかに読むのかということで、朱子学が『大学』『中庸』『論語』『孟子』を「四書」と言って重視し、その注釈書「四書集註」を、林羅山を含めた儒者たちは、この四書や四書集註に訓点をつける作業を進めた。これによって四書を日本語で「読める」ようにしたのだ。このような儒者の態度に反発したのが闇斎で、彼は集註への些末な注釈に終始する学問のあり方こそ朱子の真意を見失わせるとして批判した。学説の解釈のではなく朱子が学んだのと同じ学びを追体験することで、その真意を己の身に身体化しようとした。闇斎が求めたのは、ゆるぎない心の確立とその方法だった。その特徴は他者との関係性(五倫)の中で日々正しく実践できる心の在り方を探究した。そして、彼は体認自得した朱子の真意の伝達者となって、理論的というより生身の身体に直に迫るような感覚的な語りで語った。これを講釈という。このような闇斎の思想と方法は、江戸初期の武士にとっては、学問の勉強というのではなく、剣術等の修業と似ていて、受け入れやすかった。それゆえ大名や武士たちに広まった。
 一方、伊藤仁斎は京都の裕福な商家の家に生まれ、町衆の文化の中に育ち、儒学に没頭した仁斎は、家業を弟に譲って学問に専念した。仁斎には闇斎の一途な姿勢は頑迷固陋に映った。仁斎は仲間と「同志会」を開く。後に「古義堂」と呼ばれる学問塾の始まりで、ここでは仲間が輪番で講義をし、それをもとに討論する「輪講」という形式がとられた。闇斎の「講釈」が大学の講義のように師が一方的に語る講釈に対して、「輪講」は連歌や和歌の会などに近いもので門人らと指定の区別なく議論するというゼミナールのようなもの、これは闇斎のスタイルの対極にあるものでもあります。そういうところから生まれた仁斎の思想は、仁斎の思想は「人倫日用」の言葉に要約される。つまり他者との日常的な関係性こそが人間をつくり上げるのであり、朱子学のような形而上学ではなく、いま眼の前のその人といかに正しく交わるかという問いこそが、孔子の問いであるという。このような思想や仁斎の塾のスタイルは武士だけでなく、学問ではあるのだが風雅に似た趣もあったため、京都の町衆や公家などにも身分の別なく、門人を得ることができた。
 この他に、荻生徂徠、貝原益軒、石田梅岩、本居宣長、平田篤胤といった人々が紹介されるが、単に思想の内容を羅列するだけでなく、どのように考え、どのように伝えたか、そして、どのような人々に受け入れられたかで、彼らの思想の特徴を明らかにして行った。
 著者が江戸時代の教育や思想を紹介するベースには近代の学校教育や大学での学問研究に対する批判的な姿勢があると思うが、それは制度の機能不全という表面的なものではなく、それらの制度が担ってきた近代の知そのものが歴史的に不適合を起こしているためだという。その要因の一つがコミュニケーション在り方が変わり、人間の関係性が変容しつつあり、それに伴い人の意識や行動も変わりつつある。その一環である知のつくり方/つくられ方も例外ではない。そんな中で、著者は言う。直接的な人と人との触れ合いを妨げる行動様式は、人類の本来の属性に反することである。人類は他者とつながり、群れを成して社会システム築き完成させることで、進化してきたのだから。とすれば、身体性の希薄化が進む中で知の身体性の復権を求めるバネが、どこかで強まってくるのではないか。
 とはいえ、著者は江戸時代に戻れと言っているのではないだろう。それは、本書で江戸時代の社会には、それなりの必然性があり、その社会の人々の求めに応えるように、本書で紹介された知がつくられた説明されているからだ。その先、読者が自分で考えることだろう。そういう意味で、面白い本だと思う。

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