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2022年3月14日 (月)

生誕110年 香月泰男展(3)~第2章 新たな造形を求めて(1950~58)

 シベリア抑留を終えて復員したあと、戦後の生活を始めて、作品生活を再開したころの作品です。
Kazukigrass  「草上」という1950年の作品です。前章の「釣り床」や「砂上」に連なる後ろ姿の人物を描いた作品です。人物の頭部と腕が地平線上に、まるで風景のように描かれています。香月は、生身の人体を描かず、このポーズの木彫を制作し、それを描いたと解説されていました。会場では、その木彫も展示されていました。そのように現実の生身の少年を描かなかったことについて、次のように解説されていました。おそらく対象となる少年は香月の心の中の存在であり、実在するものではない。心象としての少年を描くにあたり、木彫として実体化してと思われる。心象は、目に見え手に触れることのできる対象となり、「静物」としての取扱いが可能となる。ここにおいて、画面を構成する他の要素とのバランスや配置を具体的に考えることができるようになり、画家は自在に構想を展開する。逆光の効果や地平線との関係、背景の青空などの風景画的な要素も取り込むことが可能となり、現実とも異なる心象とも異なる特異な少年像が打ち出された。このような解説の内容については、ある程度納得できます。香月という画家は、作品の画面を構成するデザインを重視し、人物もその構成要素のひとつでしかなかった。だから、他の事物と同じように扱いために、人物の存在感を取り除きたかった。その試みとして、木彫を描いたということでしょうか。それは、作品の中の人物の描き方に注目するだけでなく、画面全体を見ると、そう思えてきます。私は、この作品を見て、ヴァロットンのVallootnball 「ボール」という作品を思い出しました。一見、ボールを無邪気に追いかける少女を詩情豊かに描いた作品ですが、どこか落ち着きません。全体をよく見通してみると、緑色の大きな影のあちらとこちらとでは明らかに視点が違っています。手前の少女は上から見下ろしているのに、奥の二人の女性は横から見ています。気づかなければ、通り過ぎてしまうものが、いったん気付いてしまうと無視できなくなります。エドガー・ポーの「群集の人」のような印象です。そんな不条理な不気味さをいうのは不似合いですが、ここでヴァロットンがやっているのは、だまし絵のようなものです。それを可能にするためには、に写実に描き込んだ様式では不可能で、画面を単純化させて、作品を見る人がシンプルに見ることができることが必要です。そしても画面に操作を加えることになるのですから、単純化、見もっと言えば図案化したほうが操作を加えやすくなります。図案化されれば、見るものはそれなりに想像力を働かせて、それを見る人なりに、というよりはパターンに従って現実に当て嵌めて見るようになります。だから、この作品の平坦な空間表現とパターン化した事物というは、そのために格好の手段となってくるわけです。この作品では、ヴァロットンのような騙し絵のような要素はありませんが、画面の上から3分の1のところで水平に区切られたブルーとグリーンの対比の鮮やかさはどうでしょうか。ブルーもグリーンも少し暗めの色合いなのに、見る者には夏の太陽の強い光に映えて鮮やかに映ってきます。それに加えて、グリーンの部分に広げられた真っ白なシャツが目に鮮やかです。この作品では、この3色の対比と構成により鮮明な印象を見る者に与えるところに特徴がある。そこで、後ろ姿の人物で、これが画面にスパイスのような機能をしています。作品を見る者は、どうしても人物の姿に視線を向けがちです。そこで、3色の対比を直接見ようとしない。つまり、画面全体の構成やその効果が間接的に見る者に及ばされる。見る者は最初は、それに気づかず、そう言えばブルーとグリーンと白が鮮やかだった、と気づく。それだけ、印象は深くなる。この時、人物に存在感があると、見る者は人物しか見なくなって、全体としての画面に気づかなくなるおそれがある。
Kazukirobou  この後ろ姿の人物は「路傍」という1956年につながって行きます。モノクロームの色調で、「シベリア・シリーズ」に近いスタイルになってきています。画面左手の背を向けた3人の人物の姿は、「草上」の人物とよく似ていて、このほとんど同じ3人の後ろ姿で、それぞれの個性も感情もうかがい知ることができません。この3人の人物はコピー・アンド・ペーストしたように違いが分かりません。画面右奥の人物は、3人の後ろ姿に向き合うように正面の姿ですが、顔はよくわかりません。黒っぽい後ろ姿の3人に対して、この人物は白色で、3人の人物に語りかけるように、演劇的な身振りで両手を大きく広げています。しかし、見る者は、そのような身振りが意味する行為や感情よりも、特定の角度から見る顔の形そのものにあったのではないかと思います。雄弁な両手の描写も、垂直と水平で構成された画面の角に対角線をとり入れた画面を引き締めています。また、後ろ姿の黒とこちら向きの仰々しい身振り人物の白とが強いコントラストをくっています。しかも、「草上」に比べて、絵の具の塗りが少しずつ薄塗りになってきています。それゆえに、画面の平面性がさらに強くなってきていて、デザインの性格が進んできていると思います。
Kazukiwalkaround  「散歩」という1952年の作品です。香月は、このころ、身近な草花や台所の食材など、日常の身辺のありふれたものを取り上げた小品を好んで描いたそうです。この作品では、犬を連れた散歩している時の犬に注目した描いた作品と言えます。この作品で特徴的なのは、犬の姿を描くときの視点の低さです。この作品では、犬と同じ視点に立っている。しかも、かなり近い距離で犬の姿を捉えている。このころの一連の日常の身辺のありふれたものを取り上げた小品は、同じように接眼レンズの写真のように対象物に接近して、小さい画面にいっぱいに捉えていて、しかも対象の全部まで行かず一部とか届かない視線で、捉えて描いています。そこで、作品を見る者が意識するのは描いている者の視線で、誰が描いているのか、という視点の限られたところです。これ以前の香月の作品では画面の全体の構成という作品で、視線というものは意識されませんでした。そこで、香月は視点を意識した作品を何点も描きまました。
Kazukihand  「電車の中の手」という1953年の作品など、電車のポールを掴んだ手という人の一部のみを描いた作品もそうです。この作品では対象を面で構成する傾向が強く、電車のポールを掴む角ばった手はもはや彫刻みたいですが、「草上」の人物のように絵画の制作に当たって彫刻を彫り、それを描くことがありましたが、この作品の手はもはや、そんな手順を踏まなくても、慣れた手つきで描けるようになっている。そして、この描かれた手はキュビスム的な面で構成されて、物的に見える傾向がさらに進んでいます。そして、この時期、香月は絵具に日本画の画材や木炭を混ぜるなど技法の実験にも取り組んだということ、方解石の粉末である方解末を絵具に混ぜ、色数を抑える画風を模索していたといいます。つまり、方解末の混入による黄土色のマットな下地に、木炭粉で描く方法に辿り着いたそうです。この技法がこの作品でも使われで、画面表面がザラザラした感じで、描かれた手が手触りで物の質感が感じられるものとなっています。
そこで、身につけた視点による描写を複数組み合わせて画面を構成したのが、前で紹介した「路傍」という作品です。この「路傍」は平面的が描き方をしていますが、複数の視点が加わったために、劇的な要素が加わって、画面が複雑になったと思います。
Kazukiwall  「左官」という1956年の「シベリア・シリーズ」の作品です。収容所の浴場建設の煉瓦積みをしたとき模様を描いた作品と解説されています。画面の下3分の2は一面黒っぽく塗られており、微かに、それが積まれた煉瓦であることは分かりますが、作品を見る者には黒い空間に画面が浸食されて、人物の顔がある部分もやがて浸食されてしまうだろうという感じがします。そこに、不安というか、おそれのような感じが漂ってきます。人物には顔が描かれていますが、茶色っぽい顔の男の手に握られた煉瓦と煉瓦鏝、さらに、顔の輪郭には影のようなもうひとつの輪郭があり、何だか亡霊のようにも見えます。この顔は、鴨居玲という画家の晩年の「1982年 私」という作品に描かれた幽霊のような自画像とそっくりです。
Kazukitrack  「乗客」という1957年の作品で、「シベリア・シリーズ」の一作です。いよいよ、らしくなってきたというか、未だ黒の画面に占める比重は、それほど大きくありませんが、茶色とも黄土色ともとれる鈍い色をベースに黒で、顔や頭蓋骨などが描かれている。画家による説明では、収容所への移動でトラックに乗せられていたときの様子だそうです。この作品は、一度大きな描き直しを経ていて、当初は、トラックの4つの座席にデスマスクのような顔が描かれていたのが、描き直しによって、左下の男は骸骨に、右上の男は動物の頭蓋骨に変えられました。横顔で描かれていた左上の男は九九塗りつぶされてわずかな輪郭を留め、ジャン・フォートリエの「人質」シリーズを想わせるものとなりました。右下の男だけが顔が残り、手前にハンドルが描かれたことで、彼がソ連兵の運転手で、車中で唯一死に接していない存在であるためだということです。下のバンパーの部分は黒く塗りつぶされ、左上部と呼応されるようになりました。このように説明されると、何が描かれているかよく分かります。この人の作品は、一見、抽象画ともとれるところはありますが、実は分かりやすい物語的な題材をデザイン的に、いろいろいじって作られたところがあると思います。そして、以前から試みていた方解末を混ぜた黄土色の下地を用いて、その上に粉末状の木炭を練り上げた絵の具を押し付けてゆく技法を、ここで完成させたと言います。全体にくすんだ感じで、薄塗りなのに、黒の部分が盛り上がって、見た目の陰影が深く刻まれる感じがします。それだけでなく、人の顔が物化するのがさらに進むように見えます。
Kazukifalcon  「鷹」という1958年の作品です。この作品では、「乗客」で紹介した技法の効果がよく表われてくるようになります。つまり、方解末を混ぜたり、粉末状の木炭を絵の具に練り上げた結果、塗った表面がザラザラしていくる以上に凸凹がうまれ、それが、この小さな画像でも分かるように顕著になってきました。「鷹」という題名ですが、その鷹は画面の4分の1くらいで、後は余白といっていいような、黒く塗りつぶされたり、黄土色の背景の部分です。では、その部分は単なる余白かというと、そうでもない。日本画でいう余白の効果を狙っているかというと、それでもない。この余白の部分は、形が明確な鷹の部分以上に何らかの表現を感じさせるところがあります。見る者の立場から言うと、想像力を刺激されるといってもよいのではないか。それは、第3章の「シベリア・シリーズ」の展示ではっきりすることになるでしょう。

 

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