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2022年3月10日 (木)

國分功一郎「暇と退屈の倫理学」

11112_20220310220901  アルチュール・ランボーはフランス・コミューンに参加し市街戦を闘い、その後19歳で「地獄の季節」を発表したあと、詩作をやめてしまい、アフリカに渡り商売人となったが、それまでの前半生と違ってパッとしない人生を送った。ロマン主義的な生の輝きに満ちた人生をわずか20年足らずで燃焼し尽くし、その後は余生という人もいる。彼の前半生のような生命を燃焼し尽くすような輝きに満ちた人生こそが本来の人の生き方と憧れる人は少なくない。現代でも生き甲斐を求める人にも、そういう姿勢が残っていると思う。そのような考え方は俗流の人生哲学などで、不完全燃焼の人生、具体的には日常に埋没した惰性のような人生などと批判する。そこに人が抱くのは退屈だと。
 著者は、それに対して退屈が非本来的と評されていることに疑問を提出し、それを様々な方向から考察していく。簡単にまとめると、動物は退屈することがないのは、その能力の目一杯を使い果たして、ようやく生存できているからである。元々、人間も動物と同じよう生存していたが、定住することによって能力を温存しても生存できるようになり、そこに退屈が生まれる余地ができた。その後、近代社会となり経済が成長するにつれて、退屈を生む時間を余暇として、そこに消費を売り込むという市場が生まれた。つまり、最初に述べた退屈は近代社会の成長とともに生まれたもので、それを批判するのは、一種の近代社会に対する反動と言えなくもないということだ。しかし、だからといって、人間が元々の能力を目一杯、ぎりぎりのところで生存する本来の姿が理想だと言えるか。
 ここで、著者は本来の姿だからよしとすることに疑義を呈する。本来という議論は、よしとするという判断が先に在って、それを正当化するための後付けの理屈にすぎない。その証拠に本来と非本来の区切り方によって、どれが本来かが変わってくるからだ。例えば、動物のように目一杯のところで生存しているのと一線を画しているが人間なのだから、退屈することこそが人間と動物の違いで、退屈が本来なのだと言うことだってできる。
 そこで、今、われわれが現実に退屈するとはどういうことかを、分析していく。
まず退屈を二つに分けて考える。ひとつは何かによって退屈させられること。例えば例えば、田舎のローカル線で列車に乗り遅れて、次の列車まで4時間ある。駅前には何もなく、スマホのような時間つぶしのできるものを何も持っていない。これは意味のないと感じてしまう時間に放りだされる状態だという。だから、鉄オタのローカル線マニアが同じ駅で4時間待たされても、そこに意味を見出すので退屈しない。もうひとつは何かに際して退屈すること。ひとつ目の退屈のような特定の何かによって退屈させられるのではなく、何がその人を退屈させているか明瞭でない、なんとなく。いつのまにか、気がついたら退屈している。そういう退屈だ。ちょっと分かりにくいかもしれなないが、著者は、これは我々が普段最もよく経験する退屈だという。何かに際して退屈する、その何かには生きることを当てはめてもいいからだ。ひとつめの退屈は意味を見つければ退屈は克服できる。この意味を見つける、あるいは新しい意味を創り出すというのは、人間もっている可能性につながると言うこともありうる。
 これに対してふたつめの方は、人は普段、この退屈を生きている。そこには安定があり、人はそういう安定の中で生きている。たとえば、将来を思い悩む大学生にとって、自分に何ができるか、どんな仕事があるか、といったことを考えるのは苦しい。しかも何をしていいのか分からない。おそらくそんなとき退屈にとらわれる。それにはとても耐えられない。だから、それよりもましに思えるものにとびつく。たとえば、「資格をとっておけば安心だ」という世間の声。とりあえず資格取得に一生懸命になれば、苦しさを忘れることができる。そうして資格取得の決断を下す。決断してしまえば快適である。周囲からも「一生懸命頑張っているね」と褒めてもらえる。しかし、それは好きで、やりたくて物事に打ち込むこととは訳が違う。自分の奥底から響いてくる声から逃れるための自己欺瞞と言ってもいい。おそらく、多くの人々は、こういう欺瞞をなんとかやり過ごして生きている。そのために退屈と気晴らしとの混じり合いの中で生きている。さらに著者は言う。そもそも、大学生が思い悩むのは「考える」ということを大切にするということがある。しかし、人間の生活というのは考えないで済むことを目指して作られてきたのだと指摘する。その典型的なものが習慣というものだ。
 何かお先真っ暗だ。しかし、これはパンドラの箱なんだろうなと思う。つまり、ここまでで、パンドラの箱をあけてあらゆる災いの源が飛び出していったのが、これまでの議論で箱の底に希望が残されていた。ということがこの著作の結論で、それは議論のプロセスだろうということだ。だから、この著作の題名が「倫理学」となっているのだと思う。

 

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